ラピュタにて五所平之助の落ち穂拾い『雲がちぎれる時』UAの歌を思い出すタイトルだが、やはりドキュメンタリーのように始まり、人形劇のようになり、そしてトンデモと言われそうで、実に丁寧に悲しい結末をたどる。倍賞千恵子薬師丸ひろ子のようにややふっくらした顔で、最も感情を露にするだろう時を省かれて、それでも忘れがたい余韻を残す。タイトルにやはり糸らしき線が引かれ、『面影』と同じく転落する男がいる。トンネル開通まで危うい峠を渡ってきたバス運転手に『コンドル』の散っていった男たちが重なる。これまで見た映画の中で最もバス運転手に尊厳を与えた映画かもしれない。それはたしかに『秀子の車掌さん』や『ありがとうさん』の運転手と違う。またはジョセフ・ロージーの映画に出てくる人形のように憐れな男たちもよぎる。佐田啓二は運転手でありながら、何か操られる側でもある。

 

かつての映画美学校での地下上映みたいなものと期待したが、しかしあれほどワクワクできず行くかどうか新橋駅に着いても悩んだが、tcc試写室でのフライシャー上映会にて『10番街の殺人』。カツカツなのか見る前に財布と時間と相談ばかりで傍から見ると卑しん坊でしかないのかもしれないが、見に行ったら行ったで世間では暇人扱いか。電車の音が映画だけでなく外からも微妙に聞こえていたのかわからないシネパトススタイルだが、さすがにあれほど気にならず。
しかしこれはどこでもしっかり見れてしまう映画かもしれない。でも自宅で見るよりヘビーに感じる。なのに疲れるわけでもない。妻子を殺された上に冤罪で死刑という誰もがああはなりたくない最期をジョン・ハートが迎えるまで見ているだけで大半の時間が過ぎていく。テンポさえ悟らせない。警察とマンホールの件なんかサイレント映画のリズムのようで、むしろ回りくどいが、要らないとはとても言えない。眠れない夜のような、昼間にカーテンを閉めて、夜勤前に寝ようと耐えるような時間が過ぎていく。にしてもジョン・ハート一家引越し前の服装が意外とフライシャーらしくカラフルなのが、さらに後の展開を思うとキツい。
普段から虚言癖とも見栄ともとれる「感じは悪くないが有罪が相当」な男、自分のせいで近しい誰かを死なせたと自暴自棄になるジョン・ハートと自らを重ねられるのか? コンロに二回火をつけて、その間に自らの生い立ちを弁解するような彼の姿が見ていて、なんと言えばいいのか、忘れがたい。彼だけでなくアッテンボローの妻も自分たちに近い状況に思えてくる。全てを見てるのか、見て見ぬ振りなのか、一応は察してるのか出ていこうとするが……。アッテンボローの具合に目のいく判事も、それに流される陪審員も近いのだろうが。戦争は終わらず、安アパートに場所を変えて継続しているのか。殺されると言わんばかりの主観ショットからはすぐに省略せず(今日初めて言葉を覚えたようにママーと母を求める子どもの声を聞くのはクリスティーという残酷さ)、それでも本当に殺した瞬間は省かれている。だが省略とは何なのか。そこに何があって省いたといえるのか。人生で殺しの現場を本当に見て、なおかつこの映画を見たことある人間はいるのか? そのレベルの境界線に触れそうで、しかし「たかが映画」か?