7/25 『朝の夢』

配信にて池添俊『朝の夢』を見る。
いま思えば『愛讚讚』は劇映画だとしても通用する、赤い服の女と青年についての映画になっている。カラオケの画面、プロジェクションされた画面、テレシネされた画面は、その過去を再演され、上書きされ、語りとして構築されたものにする。映像そのものに触れたという感じがしない、というか作家の見てきたものを見たという感じはしない。現場で撮られたものがダビングを繰り返したようにかすれていき、作家の語りは構築されていく。構築された語りを、フィルムとカラオケというスタンダードというには曖昧な正方形に近い四角へ折りたたむように収納しているのか、それとも四角に収まらず漏れ出ているのか、そもそもそんなボンヤリした例えでいいのか。
『朝の夢』は『愛讚讚』と同傾向かつ、ますますボンヤリし、それでいてまとまっている。夜の祭りでの撮影が、ダンサー的な役者の身体を追いきれず取りこぼしかねない危うさと、屋内から屋外へワープする展開(序盤の室内の明転がワープを準備する)が、常に何か逃れていく過去という感覚にますます近い。それは作家と、その周囲の過去にあった事柄についてではなく、諸々の出来事がつかみ取れず、こぼれ落ちていく感じに最も近い。

7/17『ミークス・カットオフ』(ケリー・ライカート特集にて)

ケリー・ライカート特集にて『ミークス・カットオフ』。
去年逃して、ようやく映画館で見る。アルベール・セラやリサンドロ・アロンソと比べて、中心人物の緩慢な仕草や作業以上に、ワンショット内に予期しない動きをするコントロールされてない「些末な」物事(『ウェンディ&ルーシー』のルーシーの動きなど)を入れることに意識的に見える。男たちへの視点は辛辣なのかもしれないが、その顔の見えなさは馬や牛を見るのと変わりないともいえるし(少年は動物・男性・女性の中間をさまよう)、話し合いをする姿に「習性」を見ることはできるし、その顔が影に隠れるのは(ブルース・サーティースイーストウッドを撮る時とたとえていいのか)日差しにあたり続けるわけにはいかない人間は日陰を作らなければいけないから当然だろう。唯一の発砲をした後に虫の音が聞こえる(それは電車が走り去った後に虫や鳥の声が聞こえる感覚に近い)時間が忘れがたい。ウェンディの最後に『人生の乞食』のルイーズ・ブルックスがよぎるのと同じくウィリアム・A・ウェルマンの『女群西部へ!』のことだって題材的には当然意識されているのだろうし……。ライカートの映画は停滞した状況に置かれているせいで、むしろ動くことを余儀なくされているともいえるし、些末な動きがより目につき、耳にも入ってくる。ささやかさを過剰に重んじることもない。ゴダール風に言うなら「こんなことども」?
町山広美遠山純生両氏のTwitterでネットに上がっている『闇をつきぬけろ・真夜中の大略奪』(67)を見たらブレッソン、ベッケル、メルヴィルら(フイヤードの犯罪集団やユスターシュのやや性犯罪的なあれこれも?)プロフェッショナルによる夜の犯行、もしくは歩行と作業を撮る映画で(監督アラン・カヴァリエ、撮影ピエール・ロムの映画ってこんな面白いんですね、と見れてなかったことがショック)、同じく歩行を撮ることに意識的なケリー・ライカート(そこにアケルマンもしくは清水宏?のこともよぎる)が大きなスクリーンでかけたい映画の一本にあげていたのは納得する。アクションの蓄積で作られた時間はどこかに省略があるのだろうけれど、どこを飛ばしたのかわからない。町山広美氏の評をなぞるなら、タランティーノは杜撰なミッションがどのように破綻するかまで(非プロフェッショナルの犯行がどう転ぶかを見守る過程)を、あえて省略せずに(ときに緊張感をもって、ときに弛緩させたまま、「緩急自在」を目指すように)引き延ばして見せる演出へと変化していくが、この種の敗北の美学めいた態度(と片づけるのは乱暴だが)に対してケリー・ライカートとの温度差はある。「プロフェッショナル」かどうかも怪しいミークスの言動を子細に追うことはしない。ライカートは間違いなく時間など飛ばしている。しかしパンフレットに繰り返されるように「些末なことの蓄積」によって時間を作り上げている(同時に銃撃戦には決してならない展開というのは『レザボア・ドックス』のありえたかもしれない展開なのかわからないが、タランティーノもまた無駄話の蓄積かサスペンスかの境界線を『イングロリアス・バスターズ』『ヘイトフルエイト』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と行き来する)。タランティーノの側はスティーブ・クレイグ・ザラーが引き継ぐといっていいんだだろうか。たぶんライカートとタランティーノを分ける前に、そのやってることの合間にはモンテ・へルマンやチャールズ・バーネットがいるのかもしれないけれど、でもバーネットは海外盤しか見てないから保留、とにかく上映が待ち遠しい。

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7/16 『ライトハウス』『17歳の瞳に映る世界』

ライトハウス』を見る。話題のパンフレットは完売で買えず。で、この宣伝ビジュアルのくせにインタビューはエプスタイン除くと監督の口からドイツ映画ばかり出てくる謎。たしかに見てる間はグレミヨンの『灯台守』は特によぎらず。人魚とセックスするあたりでさすがに乗れなくなる。リンチというか、やっぱトリアー『アンチクライスト』ぽくなるなあと(デフォーが声だけ残して消えて若干ドライヤー『吸血鬼』風のカメラの動かし方をしようとしてるのか全然違うのかよくわからない、空間的になんだかおかしい廊下へつなげてしまうところとか、拍子抜けする。二年位前にアテネフランセで見た『デス・ベッド』というベッドが襲ってくる映画の方がまだドライヤーっぽいことをしようとしたという話も何となく納得する)。監督インタビューにラングの名前は出てきたが、それも全くピンと来ず(まだムルナウじゃないの?)。そういやデフォーは『グランド・ブダペスト・ホテル』でラングとシャークのチャンポンみたいな造形物にされてたが。クレジット最後にハーマンのメルヴィルの『白鯨』と実際の灯台守の記録をもとにしたと出てきたが、顔芸と言えばデフォーの扱いはメルヴィル『海の沈黙』ハワード・ヴァーノンっぽくもある。やっぱデフォーはいい。でもデフォーならフェラーラの近作が見たい。あとパティンソンだとクローネンバーグ思い出しちゃうしなあ、とか余計なことがよぎる。それはそうとシャンテの天井のオレンジ灯が気になって仕方なくて、つい最初5分くらいで「消し忘れじゃないでしょうか」と聞きに行ってしまった。でもあれは防災上必要な灯らしかった。でもそのオレンジがなんだか気になって、本作最大の売りの白黒画面になんだか集中できない。スクリーンサイズにあわせてカーテン閉めるとか絶対にしてくれないわけだし。

 

エリザ・ヒットマン『17歳の瞳に映る世界(Never Rarely Sometimes Always)』を見る。パンフレットはどこで売ってるのかよくわからず買いそびれる。
ピアスの穴あけが正直目をつぶりたくなる刺す行為そのものは、洗面所の鏡の扉と、顔の影に隠れてギリギリ見えないが、刺さった状態はしばし続く。
木下千花論文や(三宅唱監督の)『呪怨』をめぐって云々あった時に話題に出てきた堕胎ビデオ(同じものではないと思う)が最初だけ出てくる。こういう時にドリス・ウィッシュマンの性転換映画の存在がよぎる。ドリス・ウィッシュマンの映画について、スクリーンいっぱいに映る性器の切除に、興味本位の観客たちを後悔させたというようなエピソードには惹かれるものがある。「見たいものがわかっていない」といわれるドリス・ウィッシュマンの本領発揮ともいえる話。しかしそこでの「見たいものがわかってない」とは何だったのか。
エリザ・ヒットマンの映画をわりと真正面で見たが、コンロの火とピンセットの登場に、ものすごく痛いものを見ると恐怖したが、ギリギリそんなことなく済んだ。それでも「見たいもの」からの微妙な距離の置き方が印象に残る、といえばいいのか。うまいんだかうまくないんだかわからない歌も、頼っていいのかわからない男も、反射した窓に隠れるものも、避難所のように何度も出てくるトイレも。特に柱の影の行為の曖昧さは、それが正面へカメラが回ったようでも、そこにあらゆる真意や責任は掴めない。愛か、性欲か、善意か、金銭を巡る強制された行為か(やはりこの面は確実にある)、いとこための行為か、そのどれもが宙づりにされている。

 

シャンテにて金もないのに一般料金で映画を三本、今日は見なくてはという気分だった。エリザ・ヒットマンの映画と『ライトハウス』の間がどうやっても時間が開いてしまうので、どうしようかと日比谷でボンヤリしていたら、ワニの映画が目に入った。
『カメラを止めるな』を見たんだから、これも何かの縁だと(絶対に悪く言って話のタネにすることしかできないとわかっていながら)ワニの映画を見た。またしても前半と後半が分かれている。ご丁寧にワニが死ぬ日の話は最初と、後半戦の始まる前と、二回も出てくる。前半はたぶん漫画の話まんまなのだろうが、本当に100日全部やってるわけではないだろうし、これが本当に四コマで済んでいたとは思えない。主人公のワニだけは常に半裸。だからといっては失礼だが、善良な動物ばかりの映画の中でも特に馬鹿っぽさが際立つ。そして同じ種類の動物同士が結ばれることになる(でもあれは犬なのかモグラなのかわからない)。
ワニが死んでから、雨と共に蛙が出てきて(蛙は蛇?トカゲ?のことが好きらしくて一方的にアピールするが爬虫類と両生類とでは結ばれない)、彼はなかなか輪に(ワニ?)収まることができない。居場所がない。でも最終的には収まるべきところに収まる。ワニの不在が埋まるまでの百日間という解釈を残酷ととるか善良さととるかどちらともできるのだろうが、とにかく収まるべきところに収める。前半が死ぬに決まっているワニが中心なのもゾンビ映画と同じく、死体への想像が隣り合わせの世界とかなんとかいろいろいえるかもしれない。
『カメラを止めるな』の時は仮想敵くらいに不愉快だったが、なんだかんだそれなりに人の入ってはいるが小さな劇場でまたしてもワニの映画を見てしまった。それは高橋洋の話でいうなら、これまた人の善意をメシのタネにしようとして時の流れに負けてしまった映画『一杯のかけそば』を救済したいという感覚なのか? でも別にワニの映画は『カメラを止めるな』と同じく、「映画ではないとは何か?」と言いたくなる感覚以上の興味はない。「収まるべきところに収まる」話にしようとすると、これでもなぜだか小津調のパロディみたくなるのだから恐ろしい。

~7/14

親切な知人に録画してもらった山下耕作『現代神秘サスペンス 三階の魔女』を見る。どこが神秘?と思ってたら、さすが『いのち札』の監督といわんばかりの唐突に美学炸裂(かなりとってつけた感じだが)。小林稔侍の「コーヒーのみたいねえ」がそういかされるとは思わなかったが。刑事っぽさはかなり好きだが。山下耕作は『総長賭博』も『いのち札』も人が言うほど好きではなく(その気高い感じには惹かれるが)、当然『関の弥太っぺ』は泣かせるとして、中島貞夫脚本の『江戸犯罪帳 黒い爪』とか、選曲がヘンテコな『新黄金孔雀城 七人の騎士』のような初期作とか、笠原和夫脚本でも『緋牡丹博徒 鉄火場列伝』のどこか狂的な女性たちとか、70年代入ってからのヤクザ映画『山口組外伝 九州進攻作戦』(ラストの一言がやはり好き、脚本は高田宏治)、若山富三郎が凶悪かと思いきや笑えて切ない相棒になる『強盗放火殺人囚』とか、ショーケンが火を口に突っ込む『竜馬を斬った男』とかは好きだが、なにが一番のよさといえばいいか。上品さ? あと沼田曜一がなかなかの頻度で登場するのもいい。未見の映画だと『おんな刺客卍』(69年)というのが気になっている。

『三階の魔女』は緊迫感を煽りもせず冷めた調子で、小林稔侍の刑事や十朱幸代のカメラマンが妙にはまってるだけで見れるというか。何より北村総一朗のマザコン旦那が面白かった。照明に増田悦章(『弥太郎笠』はじめマキノ、山下耕作などなど多数)。

 

アンドレ・ド・トス『黒い河』をDVDで。先日『いのち短し』(妙な映画)を見たが、その無茶苦茶さを書いたTwitterを読んだら、もう少し見なければと購入済みのから探す。『黒い河』はいきなり新聞記事のアップから事故の存在が語られ、生き残りの娘の語りから始まる。犯罪の予感はプンプンするが、果たして事件なのか、彼女の快復までの話なのか、それとも幽霊映画なのか。そういうのはヒッチコックでもそんな感じかもしれないが······(結局治療の話に専念するラストの『いのち短し』がメロドラマなんだかも謎で異様さがさらに際立つ)。ともかく『狩人の夜』が嫌でもよぎる風景もあいまって、繋がってるのやら繋がってないのやら奇妙な画と音が続々と。それは経済的な問題か、人物と作家の精神面の不安の現れなのか。

 

ロバート・シオドマク『カスター将軍』も見た。僕が見てもわかるくらい、役者の動きでは繋げてなくて凄い。むしろ途中で見るのを止められないような繋ぎ方。敵味方関係なく容赦なし(字幕ないから余計何が何だか殺し合いしている感じは強まって見えた)。ラストはアンゲロプロスの『アレクサンダー大王』みたく食われたかと思った。
製作にアーヴィング・ラーナー(IMDBによれば一部戦闘シーンを演出)、脚本にバーナード・ゴードン(『空飛ぶ円盤 地球を襲撃す』とか『トリフィド時代』とか、アンドレ・ド・トス、ウォルシュ、ラーナーの映画も)編集にピーター・ペラシェルス(『フォルスタッフ』やラリー・ユスト、ラーナーの映画も)、撮影のチェチリオ・パニアグア(検索したらマリオ・バーヴァ『リサと悪魔』と『新エクソシスト』が目立つ)、美術はジャン・ドーボンヌ(オフュルス『輪舞』やドーネン『シャレード』)、ユージン・ローリー(ルノワールの『ボヴァリー夫人』からイーストウッド『ブロンコ・ビリー』まで)。IMDB見ただけだが、やはり作品の凄さに相応しいスタッフが集まっていて驚く。

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7/3

ラリー・ユスト『ホームボディーズ 老人殺人倶楽部』を見る。これは確かに面白い。というかリズムが(タイミングといえばいいのか)何から何まで好調という印象。それは具体的に誰という名前を思い出せないが、作家、演出家の最もうまくいってる時を見ている、という点での漠然とした既視感があった。勿論悪い意味ではない。とにかく面白い。ありえたかもしれない北野武という感じもする。
まず老婆が工事現場での落下事故を眺める(アンソニー・マンなどと結びつけていいかはわからない)。ただその老婆が少しの手も触れず、ただ見上げて、見下ろしただけで、おそらく殺意を完遂した。一種の超能力の発現(じゃないんだろうけど)がきっかけになる(それをドワイヨンと結びつけようとは思わない)。逆さ吊りにされたターゲットの主観が逆さまの殺人者たちであり、ターゲット自体は単に逆さになって、しばし逆さの画が続く。
編集のピーター・ペラシェルスはimdb検索したらウェルズの『フォルスタッフ』『(未完の)ドン・キホーテ』、アーヴィング・ラーナー『ピサロ』(『ワイルドバンチ』と同年にスローの殺戮を実行)の人。さらにシオドマク『カスター将軍』(最近久々に話した知人からシオドマクの西ドイツ帰還後の西部劇が面白いと聞いた……、これは当然アメリカ時代だが)とかチャック・ノリスの映画(スティーブ・カーヴァーではない)など気になる経歴。
『The House of Seven Corpses』というホラーの編集もしていると知って見た(Blu-rayを以前購入したのを思い出した)。正直あまり面白くないか、オープニングの死に様コレクション(しかも映画の内容を予告しているわけでもない)とか終盤の走馬灯とか、撮影現場と劇中映画の中身をクロスさせる編集とか、なかなか退屈な映画に見所を与えていたと思う。

6/26~30

6/26

ダニエル・シュミット『今宵かぎりは...』。最近は1時に寝たのに朝5時にいきなり目覚めてしまうことが多く、昨日もそれから寝られなかったせいか、前半はほとんど寝てしまった。以前見てる上に、今回買えなかった人には罰当たりなことかもしれないが、やはり催眠作用の強い映画。(レナート・ベルタトークではそれが福崎さんの口からも「季節のはざまで」撮られたことが強調されていた)。自分が目覚めてもまだ同じようなことをやっている、それが陽の長い晴天の一日だろうが夜になるような映画。ノリはシュレーターに一番近いのかもしれないが、シュレーターなら何となくどんなところで撮ったのか想像したくなるが(他にもあるが趣味人的なというか、8ミリ映画的というか、基本愛らしいものだが)、こちらの視野と動きを異様に狭められるような感覚(四角いフレームでも丸くなるような)と、あのカメラの回る動きによって、すべてを見ることができなくなる(アテネのちいささもあるかもしれないが)。映画のフレームを通して、収まりきらない巨大なものが存在するという感覚。さらにはカットバックの、人の顔を見る催眠術的な感覚だけでなく、それがまるでどんでん返しのある空間、片面さえ撮ればいいハリボテでは一切ない、観客席までまとめて舞台として放り込まれている感覚。

 

6/28

ロバート・ロッセン『マンボ』(54年)。気になっていた一本(海外版DVD出てるが)。遠山純生『〈アメリカ映画史〉再構築』カサヴェテスの章にロッセンの名前が出てきたので検索したら見つけた。シルヴァーナ・マンガーノの髪の動きが(相変わらず恥ずかしいことばかり書くが)ゴダール映画のヒロインを先駆けるみたいに見るたびドキッとする。当然そんなときめく話では全くないが(「私は機械じゃない」は聞き取れた)。シェリー・ウィンタースの汚れ役。ロッセンの映画らしくサンドバック、というかもはやトランスしたマンボを見ながらジャン・ルーシュ『Les Maîtres Fous』がよぎったが、なんと同じ54年だった。ルーシュとロッセンの名前が自分の中で結びついたことはなかった(それこそゴダールか)。アラン・タネールほどではないけど、自分はロッセンも見れてなさすぎる。自分の人生でロッセンの映画を見た時間は10時間にも満たないかもしれない。とはいえ『リリス』も『ハスラー』も『オール・ザ・キングスメン』も当然傑作だとして積極的に繰り返し見ようという気になれない話だから……。

ok.ru

 

6/29
休みの日は一日引きこもりたいのだが、先週シュミット並んだからか、ギリギリまでアラン・タネールを忘れてた。『光年のかなた』。最後に『ジョナスは2000年に25歳になる』の続編だったわけ?(2000年なの?)と「???」だったり、鼠がモルモットっぽかったり(引きの画だから可愛くも見えたけど、やっぱ身近にいたら汚いというか怖いんだろう)、あと映画に入り込むまでにやや時間がかかる(暗転のせい? ジョナスのせい?)、その点シュミットなら「Once upon a time......」だもんねえ、などいろいろあるが、なんにせよ気軽に見れるアラン・タネールの本数が少なすぎる(というかほとんどない)、もっと見たい。やっぱり面白い。レナート・ベルタトークにて青山真治監督からの言葉で「スイス映画には独特のユーモアがあり、わたしも影響を受けたつもりです」(うろ覚えですが)とあって、見ながら結構青山監督の映画を思い出すところがあった。
話はずれるが『ラ・パロマ』の「死の都」を撮る時間がほとんどなかったというが、そういえば競馬場のシーン今更だが変。シュミットといえば二年前のダンス映画祭にて『書かれた顔』のアウトテイクが2カット収まったフィルムが大野一雄邸にプレゼントされていたのを上映していたけれど、あれも『今宵かぎりは...』のダンスシーンや『ラ・パロマ』の冒頭みたくカメラがその場に円を描くような動きをしていたけれど、一種の催眠効果(トンボの目の前で指を回すような、というか手品のトランプを目の前に出す仕草というか)と同時にひょっとして、どれを撮れとはっきりした指示がない中やったことなんだろうか(現場を知らないので、思い付きだが)。そして『ラ・パロマ』の死体は土の影に隠れて映さない終盤は本当に無茶苦茶、よくあれをやるなあとペーター・カーンの周りにいただろう思いのほか役者じゃない顔ぶれと共に呆気にとられる。しかしそれでも映画は成立させてしまえる、という衝撃がシュレーターやファスビンダーにはありえないことなんだろうか。わかってはいても、これをペーター・カーンの視点へ引き戻すのは本当によくやるよなあ、なんて今更な感想だが。

zfm.tokyo

6/23

クラリッセ・リスペクトル『星の時』読みながら、実在するだろう人物を見ること≒空洞と向き合うことというような感覚が、『包む』や『赤い束縛』の唐津正樹監督のことを思い出す。『赤い束縛』の「アサイ」という名前は忘れられない。リスペクトルをその範疇に入れていいのかわからないが、唐津さんはラテンアメリカ文学への関心があり、また(シークレット上映だったが時効と勝手に判断して名前を書いてしまうと)自作の併映が『忘れられた人々』だったが、「ブラジルのヴァージニア・ウルフ」、またはオラシオ・カステジャーノス・モヤ『吐き気』の「サンサルバドルのトーマス・ベルンハルト」といい、知ってるつもりの名前が「メキシコ時代のブニュエル」みたいに中南米からやってくる。それこそ「マジックリアリズム」なんだと言われればそうかもしれないが。アントニオーニよりは唐津さんの映画から受けたものに近い。

唐津監督も『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督も横浜の「未来の巨匠たち」でまとめて見て、『ドライブ~』脚本の大江崇允さんの名前を聞いたのはおそらく半年後くらいの大阪が初めてで、唐津さんも大江さんも(そして桝井孝則監督も)関西方面の作家の名前には関西という必然性はたぶんない(そこで撮る意味がないというわけでは全くない)。ただ『VIDEOPHOBIA』が関西へ行くのは(西尾孔志監督の登場ふくめ)明らかに関西へ行き映画を撮るという企画があった。『VIDEO~』のワークショップとカウンセリングのパートに濱口『ハッピーアワー』を思い出す知人はいたが、明らかにキャスティングまで含めて『大和』に続き『適切な距離』(監督:大江崇允、これは宮崎監督のシネマロサでの企画にちゃんと入っている)のことは参照されていた(そこでカットバックから暴力の発動によってアングルが傾くという変化はパンフで廣瀬純氏も指摘し、また本作から『適切な距離』への批評かもしれない)。
『VIDEOPHOBIA』は存在するかもわからないカメラに監視された女性が整形して逃亡を試みる。それが成功したかはさておき、やはり撮影・渡邉壽岳だからなのか、カメラは逃亡先へ先回りしたように最後は彼女の身体に重なる「手」がフレームに収まって終わる(終わったのか?)。正体不明の監視者の存在はともかく、映画にとって「カメラは既にすべてのアングルに置かれてしまった」ということなんだろうか。顔を変えても中身は変わらないと解釈もできるかもしれないが、それはむしろ見てるこちらが都合よく受け止めてるだけ、でいいのか?
「中身」は大江・唐津の映画に避けられない主題というか、たぶんほとんどの映画に関わらされるはず。大江さんの映画も分身が出てくる。『寝ても覚めても』も分身が出てくる。その辺の違いはここでは書かずにまた今度考える。唐津さんの映画は「包む」の中身がなければゴミと同じと捨てたはずのもの(母親からの贈り物の「風呂敷」だったか「匣」か、忘れてしまった)を、思い返して拾いに戻る。この走って戻る感じはホン・サンス『逃げた女』に近いといっていいのか(無理やり自分の狭い記憶に当てはめる)。キム・ミニに唐津監督のヒロインたちに近い(ただしミューズとは明らかに異なる)空洞を感じることにして今日は終了。