泳ぎすぎた夜(五十嵐耕平、ダミアン・マニヴェル)

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片方の手袋をなくしている少年が、まるで『蠅男の恐怖』の一方は人間の、もう一方は蠅の腕を持つ引き裂かれた存在への、かつて人間だったが今では人間以外の怪物へ変わりつつあるように見えた(『蠅男』と化す少年は塩田明彦カナリア』でも万引き未遂のシーンにて引用される)。雪景色において手袋と素手、どちらが人間なのかはわからない。しかし彼がもう片方の手袋も外し、デジカメのメモリから父親の姿を見て、目印を見つけるまでの姿は、わずかに残された人間だった頃の記憶に触れたようだった。画面に自ら飛び込んでしまっているような、視線の先に前のめりな姿は見ていて気持ちよくはないが、大人と子供の、人間と怪物の、曖昧な境界に引きずり込む。行き交う車を追って首を振る彼の姿は恐竜のようだ。リュックを腕までずらして、どんどん強くなる降雪のなか、駐車場をさまよいながら、車のノブを引き続ける姿を見ながら、どの作品とははっきり言えないが映画の怪物たちが重なって、どこか哀愁を誘いもする。犬と吠え合う切り返しも少年映画と怪物映画が重なり合う。終盤の煙草を吸う父の美しさには、怪物と共に過ごすことになる人物らしさが漂っているというのは強引かもしれないが……。

怪物としての少年。(不勉強と怠惰からダミアン・マニヴェルの映画を見逃し続けているが)五十嵐耕平の映画における幽霊のような大人たちへ、抵抗する存在にも見える。

「大人たちの幻想を押し付けられるか、純粋で無垢な者として利用されるかどちらか」ではなく正しく「映画を前進させる存在」(パンフレット収録の諏訪敦彦監督による評を参照)となった少年を追う本作は、フレームと風景が主役の映画に近づく。この試みは本作の助監督、上田真之さんも自らの作品において挑戦し続けている。

『FRAGILE DO NOT DROP KEEP DRY』(監督:上田真之 撮影:kae sugiha) - 誰も呼んでくれない夜

 

フードコートでのウォータークーラーに少年の背後にいる女性を見て、ちょうど周りと遅れて見始めた『ポプテピピック』の女子高生二人によって浸食された景色を見ているようでもあった……。もしくは『季節の記憶(仮)』の誰もがファインダーを覗かずカメラを持っている世界と同じく、少年がノイズとして存在していて、かつ受け入れられている。

 

映画の少年は、まだ人間ではなかった存在なのか、かつて人間だった存在なのか。映画を見る人々にとっては、そのどちらでもあると示す。

伊藤元晴さんの評を読む。映画の少年を追ううちに、人間ではなくなる過程を辿ることができる。

 

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ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』では、長いあいだ人間の歴史を見届けてきた守護天使・ダミエルがサーカスの空中ブランコ乗りに恋をし、人間になるまでが描かれる。(略)『泳ぎすぎた夜』もまた、まだ人間にはなりきっていないかもしれない「なにか」の視点で私たちのありふれた日常を描写する映画だからだ。】

【(略)冒頭の少年のクローズアップである。フレームの外にテレビ画面があることで、観客は少年の顔だけを見つめることになり、劇場では鏡のように働くスクリーンが、観客の少年への同一化を助けている。本作は、いわば子供と対峙することで始まり、最後に観客は子供そのものとなって彼の母や姉と向かい合うというわけだ。そこで観客は、最初のテレビ画面の場面から最後の再登場までの間に、あたかも自分がその子供のようになっていたことに気付くのである。言い換えれば、前半と後半のこの「フレーム外のテレビのシーン」のあいだに『泳ぎすぎた夜』の本編――父親を探索する子供の冒険劇――があり、観客は彼の探索をたどりながら、ノイズを刻む少年の小さな身体特有のリズムに徐々に同期していたのではないか。】