港町(監督・製作・撮影・編集:想田和弘、製作:柏木規与子)

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想田和弘の映画はタイトルがフレデリック・ワイズマン「もどき」「後追い」として読むと、結果タイトルと作品の釣り合いが取れていないんじゃないかと気になりそうで、既に見る前のハードルのようなものになってしまい何度も見逃しているが(自らの怠惰に対する最低の言い訳)、『港町』はタイトルから踏み外して暴走しかかっている。今更だがマルクス兄弟がワイズマンに与えた影響は凄まじくて、その余波は『港町』にまで届いたのかもしれない。傍から見ていて会話らしい会話が成立したように見える状況よりも、クメさんによってかき乱され、ワイちゃんに対して「耳が遠いから聞こえない」言われ、猫とのほうが話ができているような状況の方が、多少見ていて面倒くさいけれど、身に覚えがある。ただ聞き取り困難な声を出す人たちについて身近に思っているうちは想像の域から出られていず、その飛び込み、衝突に達することはどれほどあるのか。

でもこの映画に関してならば、マルクス兄弟やワイズマンの名前を出すより、森崎東のほうが相応しいかもしれない。それはドキュメンタリーの枠を踏み外したという意味ではない。想田和弘森崎東から影響を受けているという話でもない。森崎東の世界に近い登場人物たちと、巻き込んだり、巻き込まれたり、さらにカメラを回す想田和弘が自らを喜劇のなかに放り込んでいる。もしも『息の跡』や『鉱』に比べてしまったら今更なステップかもしれないが、それでもこの自らを放り込む姿勢に最も感動した。

もしかすると想田和弘ではなく、ワイちゃんに網の目から覗かれているのかもしれない。ワイちゃんが「死んだら半値」「朝になったら死んでいるから」などと言いながら(正確に聞き取れなかったのか、僕が覚えられていないのか)黒い海から引き上げられ、陸に上がった魚たちは生きているが確実に死へ向かっている。パンフレットのシルヴィオ・グラセッリの評に「虹色のうろこにランプの光が反射する」と書いてあり、映画の登場人物の一人からも魚の泳いでいる海の色彩については話が出る。想田和弘小池昌代対談では「この映画にとって色が一番重要だと思っていたんです」と、製作の柏木規与子からの提案を受けるまで夕暮れ時の色のカラー調整にこだわり続けた話も出てくる。映画は黒い海と陸にあがった魚たちをモノクロに捉えて、死へ近づく生の輝きを見る興奮と欲望を掻き立てる。映画が追う牛窓のサイクルを起動させるスタート地点という理屈に収まらない(映画は「DOG HUNTING」ジャケット着た女性まで、円環を自ら壊そうとする)、それこそ青年団にカメラを向けた『演劇』以上に、芝居の幕開けにふさわしい。

想田監督自らパンフレットに「異界に通じるような、摩訶不思議なものだった。」と記す、クメさんへ連れられ坂を登っていくまで、いや、むしろクメさん以上に柏木さんと共に遅れてきた女性の(大変申し訳ないが名前を失念してしまった、もしくは聞き逃してしまった)、時に呆れてうんざりしかかっているような、しかし黙って背後に佇んでいる姿こそ、森崎東の映画に登場する涙なくして存在できないような人だった。

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