ジャック・ターナー『ベルリン特急』が日本にはVHSしかないと思っていたら、いつの間にかDVDが出ていた(たいした画質ではないが問題なく見れたと思う)。感動する。たびたび出来事に対し四、五人の人物が数秒の間に立ったり座ったりしながら各々の態度を表明する時、題材がどうだろうと、見ていて一気に豊かな気分になる。誰かが極端に目立つわけではなく、彼らが別々の考えを持っているのに、同じ方向を目指さざるを得ない理由の深刻さの度合いも違うのに、彼らが協力をする。誘拐されるポール・ルーカス演じる教授が「ところがなんだ、君たちの間には信頼も友情も何もない」と、会話の流れとして何となくわかるがギョッとするタイミングで言うのだが、その声が跡を引いていると納得させることもできるが、この信頼も友情も何もないからこそいい。たぶん友情らしきものが芽生えるのだろうが、これは友情というよりも単に「情」なのかもしれない。放っておけない、無視できないというやつか。そして微妙な彼らの間の動き出す時間差がいい。正直『ジョジョ』の諸々を思い出した。彼らそのものより、間を行きかう煙草、一枚の紙が印象に残る。またはっきり言ってロバート・ライアンよりも、事態を好転させるために我が身を犠牲にして道化師に変装するドイツ人が泣かせる。

 

ツイ・ハーク西遊記2』。
初っ端から見世物小屋そのものとしか言いようのない悪夢のような世界(ホドロフスキー石井輝男かという領域)がCGの有無関係なく繰り広げられる。しかし見世物小屋商売をやっている妖怪三人組と三蔵と小人とのふざけているというか殺伐とした掛け合いから一瞬ミュージカルになるところなんか『スキップ・トレース』(好きな映画だが)や『ラ・ラ・ランド』とは格が違う。映画の歴史も香港映画の歴史も全然わかっていないが、何やらそうした蓄積が映画全体に愚劣さを装いつつ気高い三蔵のような風格を与えているのだと思う。エログロ全開になりかねない蜘蛛女たちとの糸まみれの格闘での宙づりになる三蔵とか素晴らしい。
登場する圧倒的な美女全員が人間じゃないという恐るべき状況にあって、『人魚姫』(チャウ・シンチー)のジェリー・リンの披露する踊りは(正確に書けないし思い出せないがサイレント映画期からラング『大いなる神秘』の蛇ダンス、モンテイロ『ラスト・ダイビング』のサロメにまで行き着く系譜のような……、だがそれでいうと『黒衣の刺客』と比べて見劣りしてしまうが)妖艶さと可憐さとを併せ持っていて、その後の彼女の正体をめぐる諍いを三蔵と悟空(作品全体通してのケニー・リンの殺気だった佇まいも本当に素晴らしい)が引き起こすのに十分すぎるほど十分な説得力を与えてくれるほど美しい。彼女の正体を現すことになるCGが最後の最後のギリギリまで使わないよう引っ張るあたり、幽霊譚としての気品も漂う。CG全開の闘いにあって垂直に落下するヤオ・チェンも忘れられない。
そして三蔵法師の「私は本当は頭が良い」が今までいったい何を見ていたんだと眩暈。エンドクレジット後も含めて、舞台をひっくり返されたようなところがジャッキーではなくてジェリー・ルイスみたいにも思えて、やはりとんでもない。

 

小田香『鉱』パンフレット、監督自身の言葉はもちろんだとして、小森はるか監督の文章が素晴らしかった。特に何か映画の理解の深まる情報が載っているわけではなく、むしろ映画の情報のなさを肯定しながら、映画との距離を一気に縮めてくれる。映画の撮れたもの以上に、撮れなかった、映らなかったものがあることについて「繊細さと潔さ」という言葉で表現してくれる人は、なかなかいない気がする。

 

ウリ・ロメル『Prozzie』。少女は母親が男を連れ込むのを鍵穴越しに見た。そして男が逆上し母を叩き死に追いやるのを見た。『ハロウィン』と同様の形式を辿るのかと思う。たしかに途中までは成長した彼女がサングラスとブーツによって人格を変え、誘い込んだ男性を殺す。しかしそんなに殺さない。スラッシャー映画のように振る舞いながら、たいして殺さない。「ジャンル」として映画を成立させるものを軽蔑しながら日銭を稼ぐために、その自らが軽蔑する何物かに偽装して、しかし出来損ないに過ぎない映画を作る。やや似た回路を辿りつつ、それでも間違って評価される園子温と、間違っても劣化版以外の評価は得られないウリ・ロメルの決定的な違い。ここまでの見解さえ、僕のようなウリ・ロメルを見下した人間の思い込みに過ぎないかもしれない。
単なる手抜きに思えない箇所と、手抜きが混在する。映画を作ることに絶対にやる気を伝えようとしない。そんな意地さえ感じる。
しかし狂的に屈折している。何かが歪んでいる。たとえば最後に旦那の遺体を船に乗せて捨てようとするまでのあれこれと落ち着いた佇まいを見ると、決して下手とは思えない。
中盤、消えた彼女を追う男の視点に映画が変わってしまっているのに、映画は出来の悪い破綻した佇まいを装いつつ、ある品位は保つ。つまりスラッシャー映画と呼ばれるものではないのだ、ここには人間の心があるのだと。人間、やり直しは効く。そう言わんばかりに徹底して彼女は誰を殺しても、ほぼほぼ何の罪にも問われない。ほとんど『ダーティー・ハリー4』のような視点をナチュラルに獲得しているのかもしれない。そして多くの死体が流れてきた、あの映画でしか見られない川が映るのだ。
https://www.amazon.com/Prozzie-Suz…/…/B01BT1UIYG/ref=sr_1_2…

 

豊田四郎は昨年『若い人』を見て(新文芸坐見逃したから悔しくてネットで見てしまったが、いま調べたらもう消えていた)、文字通り「若い」映画なので、ここから豊田四郎も始まったんだと感動した。カメラのアングルとか、音がなければわからない映画を撮ってやるという野心を感じた覚えがある(細部を欠いた、いい加減な記憶)。
そして『冬の宿』も若々しくトーキーとサイレントの行き来を継続していた。これほど煙草の煙が画面を艶っぽくできたのは、いつまでなんだろうか。因果応報とはいえ、何もそうやって転げ落とさなくてもねえと思うくらいは、映画にとっても作家にとっても限られた時期にしか叶わない朗らかさがあった。一番好きかもしれない(ただ『新夫婦善哉』とか傑作らしいののに縁がなくて見逃してばかり)。
特に夫が初めて書生の煙草を吸う際の、口では禁煙を言葉にしているのに、その声を耳にしている書生のカットから夫へ切り返したら既に口に咥えているあたりなんか、見ていて楽しい。同時に映されない妻のことなど思い返すとしんどい。
初っ端の青空とか、キリスト教徒の妻とか、原節子の手紙もいいが、バイロン卿と女たちの話が出てくるとやっぱり盛り上がる。残念だがメアリー・シェリーの名前は出てこなかった。ゴダールもパッサーも、最近見た『フランケンシュタイン 禁断の時空』にも二人は出てきた。ホイット・スティルマンの映画を見てから、過去の出来事から映画を想像することの大事さはぼんやり思い続けているつもりだが、バイロン卿(とメアリー・シェリー)のような何か掻き立てる存在を僕も見つけてみたい……だが何のために?

 

キアロスタミ『24フレーム』、24コマの1秒を2時間近くに引き伸ばした映画、というより4分30秒近い1フレームたち。その意味で『ホーリーモーターズ』と近い観点に立っている気がする。自動車の映画を撮り続けた作家にふさわしいのかもしれない。
主に動物たちが絵画・写真の中に迷い込む。動物たちの運動だけ見ていれば、より微笑ましく感じられたかもしれない。しかし彼らは写真の中にいるせいで、元の映像では何に驚き反応し、時に倒れていくのか、運動をやめるのか、フレームから出ていくのかはわからない。そして代わりに彼らの運動を意味づけるかのように銃声や落雷といった音がつくられる。おそらく彼ら自身知らない間にキアロスタミによってフレームの中で誘導される。虚実入り混じった演出家のマジックが発揮されていると思う。
最後、24フレーム目。デスクトップ上での「コマ送り」された映画が見える。そのコマ送りはフィルムとはまるで違う。そこにはかつてあったような機械の回転はない。コマはない。ただ滲んでいく映像たちの変化。その前で眠り込んでいる人。彼と観客としての自分は重なり合う。自分が日々、パソコンのデスクトップ上でウトウトしながら映画を再生した時も思い出す。しかしデスクトップの再生している映画はかつて劇場においてフィルムによって上映されていたものだ。デスクトップと映画館の捻じれた交錯を、眠りと窓辺が受け止める。

 

『きみなしで生きてみよう』(11/10)

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須賀彬太・統原直樹、そして『蘇州の猫』の内田雅章SVによる『きみなしで生きてみよう』と「中原昌也白紙委任状」の時期が重なっているのは重要かもしれない。どちらもが徹底的に「キワモノ企画」の精神を持っていて感動する。内田雅章監督『蘇州の猫』を見た人は簡単にダニエル・シュミットの名前を思い出せるけれど、『きみなしで生きてみよう』は『蘇州の猫』以上に『ラ・パロマ』のいかがわしさを放っている。それどころかシュミット以上に、最後の最後に思い出した映画があったが、さすがにそれは言えない。でも第一幕の「採用です」から何度も『蘇州の猫』を思い出し、いや、『蘇州の猫』が帰ってきたんだと興奮して、そんな瞬間一つ一つを書いてしまう不粋な真似をしたくなってしまう。そう、この作品は僕みたいな不粋でしかない人間を徹底的に煽っている点で「キワモノ企画」である。『蘇州の猫』をリアルタイムで見ただろう映画美学校の人たちと縁も何もない、ただのオタク未満の半端モノのくせに、平気で『蘇州の猫』の名前を口にしているのである。これは『きみなしで生きてみよう』の男女のような嘘もつけない群衆らしい振る舞いなのだろう。
それでも書くなら第二幕の「出会って10年後」を演じる男女を見ながら自然と微笑んでしまった。僕は安易に『秋日和』の中村伸郎三宅邦子の夫婦か『あなたの微笑みはどこへ消えたの』の名前なんか出してしまいそうになった。しかしその微笑みがいつの間にか通用しなくなってからなのだろう。本当のところ反吐が出るほど当事者意識なるものを欠いた嘘くさい感動話なのかもしれないが、しかしこれほど劇中の台詞の通り、奇跡でも悲劇でもいいから見たくて仕方ない世界に捧げられた話もないかもしれない。
とにかく照明が鬼のようだ。高低差の演出も、舞台装置も、役者の声も動きも、僕のようにキワモノに踊らされる人間を嘲笑っているくらいなんじゃないかというくらい、言葉にできない。必見としか言いようがないが、見逃してしまった人間以上に、見た見た騒ぐ人間が恥をかくくらい慎ましい佇まいの傑作だと思う。それでもこれほど見たか見なかったかが記憶に刻まれる作品に、今後出会えるかというくらい、いかがわしい。