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シャマラン『オールド』。ホテルに着くまでのドライブから始まり、これが一家で過ごす最後の夏休みについての映画と示していく序盤がシャマランの中でも段違いに切なく、傑作じゃないかと最初は思う。ベランダから行ったり来たりの長回しも、保険会社の旦那の喋りに対して、窓に反射した無言の、しかし水着に着替えた姉弟を見ながら微笑む妻の反応。夫婦の関係はうまく行ってないが、いつになく上品な演出かつ奇妙な撮影。ここまでは間違いなくいい。『キネマの神様』よりは清水宏の映画に近いかもしれないし、それがさすがに言い過ぎなら『千と千尋の神隠し』? 少なくとも一貫した水という題材、『エアベンダー』『ハプニング』『アフター・アース』など自然の中の人間たちという状況は、今回はどんでん返し(つまり返事なんかしないと思ってたものからの仕返し)ではなく、撮影(『スプリット』からのマイク・ジオラキス)から挑戦している。
ただシャマランがそこへ落ち着くこともなく、舞台のビーチや一家以外の主要人物が小出しに挟まれ、シャマラン本人登場など、どんどんとヘタウマ路線へ舵を切り、これまで以上に実験的な路線へ、というかヒッチコック(最後に帰るホテルは『北北西に進路を取れ』?)以上に意外とちゃんと宮崎駿を経て黒澤、溝口、フォード、密室劇としてリドリー・スコットダン・オバノンあたり参照にしてるのか? それにしては360度パン使いすぎか。なんだかロバート・エガース『ライトハウス』といい、そういう潮の流れが来てるのか? たまにシャマランと濱口竜介のウケる層は重なってるんじゃないかと妄想するが(特に『永遠に君を愛す』と『不気味なものの肌に触れる』のラストの字幕とか)、今回は『ドライブ・マイ・カー』と揃って「上演の映画」テイストではある(『アフター・アース』『ミスターガラス』にその気配はあったかもしれない)。信じられないくらいの悪趣味路線へ突っ切るかと思いきや、あれを画面外へ隠すのは唸るというより笑った。あえて遺骨の粉しか見せないのも、なんだかんだ品がある(ジョージ秋山が『海人ゴンズイ』で似たことをやっていた)。よくもわるくも最後まで見た印象はノーランにはない、ひょっとしたら今まで見たことないかもしれない謎の映画になる。確かに明らかにコロナパンデミック後の世界についての映画として撮られ、僕でも辺野古のことはよぎった。フランチェスカイーストウッドの登場(『グラントリノ』の孫娘かと思っていたが、フランチェスカではなかった)とか、ラップをしないラッパーとか、相変わらずクセはある。

 

ショーン・レヴィ『フリー・ガイ』。予想以上にはっきりと『マトリックス』『ゼイリブ』を意識した映画。最後は名もなき民衆が立ち上がるべきなのかもしれないが、そのあたりは題材とも矛盾するだろうし何だかんだ非暴力へ(威勢よくネットでは書いても、僕も反抗など仕事をサボるくらいしかできないだろう)。だが見ている間は別に何も不満など無し。カフェで最初の抵抗を試みた時にカメラを傾かせる(ジョー・ダンテとか割と意識的にやる)今更驚くほどでもないことかもしれないけどよかった。第四の壁を破ることもできない男が、さらにプログラムの向こう側にある隠されたステージの存在を何故か無意識に反射から見つけていたらしいという展開には刺激を受ける(どうも現在上映中のクレヨンしんちゃんでは『サスペリア2』を引用しているらしいが独身男性が行く勇気もなく未見)。
いくつか気になる点を書く。
ゲーム内の互いが同じ方を向いて歩くはずの世界に、向こう側からやってきた存在と歌を交わすことで生じるバグ。そもそもゲーム内の背景に過ぎないモブには主観など存在しないはずであり、切り返しなどあるはずがない。そしてサングラスをしたプレイヤーたちもまた目の前にないはずのもの(ゲームをしている部屋にやってくる母親)ばかり見ている。ここで本当に主観を持っているのは、意識を獲得したモブだけなのか。しかしゲームの側から見つめ返されるなど(吉田喜重風に言うなら『東京物語』に「空気枕」の視点が存在してしまう「反ゲーム」の世界など)あってはならない。ゲームの世界に無いはずの何かが反射して映っているというのが、ゲームの側から見つめ返されるということを突き詰めた時に出たアイデアなのか。
または裸体。サングラスを装着したモブへ、警官と着ぐるみのプレイヤーから最初の問いは、正確な言葉は忘れたが「脱げ」ということだろう。それに対しモブは脱ぐことのできるものなどない。マスクならぬスキンを破る(内臓を出す)以外ないだろうが、モブにそんなものはたぶんない。『オールド』の見世物とも最小限にとどめたともどちらともつかない異様な切開シーンが、ややよぎる。終盤の未完成のプログラムは裸体に服のデザインが胸元に描かれている奇妙な姿だが、モブにとって「脱ぐ」とは、正体を明かすことではなく、あの台本が露呈された姿になる。この映画と『ドライブ・マイ・カー』を重ねていいのか? 『ドライブ~』も「脱ぐ」行為と無縁の映画ではないし、なぜか終盤の舞台と手話と字幕(この奇妙さをインターナショナルといっていいのか)が、あの未完成のモブから思い出してしまった。
なんだかオッサンかオッサンの影響を受けたオタクしか喜ばなそうな映画に思えてきそうで、最後の最後にちゃんと恋愛映画・友情映画になり、しかもその二つは仮想現実と現実という見つめ合い、依存した、数字(金銭)の関係ではなく、別々の並行し独立したものとして繋がれる。それはスキンならぬマスクを外せるようになったときに訪れるはずの夢なんだろうか。モブが本当の意味でスキンを脱ぐ、正体を明かす時こそ愛の告白なのだが、思えば警官姿のプレイヤーとモブは最初に鏡のように出会っていたわけであり、警官は自分自身に「脱げ」と言っていたとも解釈できるのか。
廣瀬純氏の評が読みたい。