2023年の映画

たぶん見た順。
コンパートメント No.6(ユホ・クオスマネン)

フェイブルマンズ(スティーブン・スピルバーグ) ※イスラエルによるガザでの虐殺と、それを監督が支持した点をふまえても、今年見た中で忘れがたい一本ではある

アルマゲドン・タイム ある日々の肖像(ジェームズ・グレイ

小説家の映画(ホン・サンス

ステロイド・シティ(ウェス・アンダーソン

インディ・ジョーンズと運命のダイヤル(ジェームズ・マンゴールド

クライムズ・オブ・ザ・フューチャー(デヴィッド・クローネンバーグ

遺灰は語る(パオロ・タヴィアーニ

枯れ葉(アキ・カウリスマキ

ショーイング・アップ(ケリー・ライカート)

サムサラ(ロイス・パティーニョ)

2019年の映画『バーナデット ママは行方不明』(リチャード・リンクレイター)『ファースト・カウ』(ケリー・ライカート)がようやく公開。

『夜のロケーション』(マルコ・ベロッキオ)を逃したのが悔しい。


次点
ピーターパン&ウェンディ(デヴィッド・ロウリー)
首(北野武
ダーク・グラス(ダリオ・アルジェント
マジック・マイク ラストダンス(スティーブン・ソダーバーグ
ベネデッタ(ポール・バーホーベン

 

旧作

青空恋をのせて(32年 トム・バッキンガム)

クイーン・オブ・ダイヤモンド(91年 ニナ・メンケス)

幸運を!(35年 サッシャ・ギトリ

唯一、ゲオルギア(94年 オタール・イオセリアーニ

アリゲーター(80年 ルイス・ティーグ

エドワード・ヤンの恋愛時代(94年 エドワード・ヤン

トルテュ島の遭難者たち(76年 ジャック・ロジエ

天使の影(76年 ダニエル・シュミット

突貫小僧[マーヴェルグラフ版](29年 小津安二郎

霧笛(34年 村田實)

 

モンテイロ特集と『絶望の日』(オリヴェイラ)をこっそり見れてよかった。
ヤマガタ行けず野田真吉など見逃したのが悔しい。

『遺灰は語る』『栗の森のものがたり』『スラムドッグス』『首』

先日、パオロ・タヴィアーニ『遺灰は語る』をようやく早稲田松竹にて。
 列車の旅の映画なら最近だと『コンパートメントNo.6』が良かったけど、本作の何だかんだ物言わぬ骨壷の旅は列車、車内と久々に映画館の暗さに浸る感覚。冒頭の白髪になっていく子たちはマリオ・バーヴァの世界か? ムッソリーニピランデッロの遺体に黒シャツ着せろという序盤は大島渚『ハリウッド・ゼン』のまだ見ぬラストも妄想する。骨壷を棺に、というシュールな状況で、しかも子供用の棺に入れられての(これはもうピランデッロではなく、統一教会じゃないが「壺」だ)葬列を見ながら、子供の心無いジョークで笑って伝染していくという移動を見ながら、そこもタヴィアーニらしいようで、『黄金時代』から晩年のブニュエル『自由の幻想』『銀河』とか、同じく葬列を扱ったベルランカの映画とか、そうした面白さもあるけれど、最後の余った粉を海へ飛ばす場面に、なんとも情のない映画の中で、これまた効率的かつ罰当たりではないやり方と感心しつつ、ただただしみじみ感動してしまった。実はピランデッロのピの字も理解できてない不勉強な自分だが、ここから始まる短編『釘』でピランデッロ追悼号でも読む感覚で見始めると、これまたそんな生易しく理解するためのものではなかった。題材的には『異邦人』と『ドイツ零年』の間のようで、そしてうまく感想いえず信頼できる評も読めてないウェス・アンダーソンによるロアルド・ダール連作(こんなにウェスの映画を静かと思ったことがあったか)も思い出した。
グレゴール・ボジッチ『栗の森のものがたり』。
序盤、眠気に負けるほどの画面の暗さ。起きたら川を栗が流れていた。
一つ一つ画の暗さは凄いが、一眠りした後だと、だんだん普通に物語のある映画だとわかった。『ミツバチのささやき』を好きな人に薦めたいと書いている方もいたが、うーん……。いや、エリセを引き合いに出せる監督はほぼ期待できないだろうが。甫木元空の『はるねこ』に近いか?
やっぱ『ミツバチのささやき』はまばたき一秒してやるものかとなるが、そういう緊張感はなく、あっさり霊が出てきたり、時間を操作して語り、いきなり音楽が鳴って踊りだす。画面は見えにくいが、手付きはわかりやすい。
 
フィルメックス始まったが特に行けてない。
ジョシュ・グリーンバウム『スラムドッグス』を近所のシネコンで見る。
ゴジラ』も『つんドル』も『花腐し』もまだ見てないが、気軽なものにしてしまった。
いろんな意味で『コカインベア』や『ピーターラビット』を上回るスゴさで、犬のディープフェイク映画みたいだった(人面犬ではない)。終盤にかけて主役が喋るアップが『ハウリング』かチューバッカでも見てるよう。もう『アバター』より必見じゃないか。
しかしモンテイロやイオセリアーニ見た後だと犬本来の吠える声こそ人間の喘ぎ声とともに聞きたいかもしれないが、腰振りはたくさん出てくる。
そういうことさえ気にしなければ無茶苦茶面白かった。もう『猿の惑星』といいウンコは想定の範囲内だが、これからPFFと聞く度に思い出すに違いない。PFFs forever!(空耳か?)  holly fuckなんて言うのかと思ったら『エル・トポ』かとツッコミたくなるハイな展開にも笑った。
フィルメックスと切れた北野武監督の『首』を見る。本当はフィルメックスに行ったほうがいいのかもしれないが我慢できず。
楽しみすぎて何を見てもOKな調子だったから、見終えた今は何の悔いもない。
これほど名のある人物に女性が登場しない映画もなく、しかし名のない(エンドクレジットまでわからなかったが最高な柴田理恵を除き、風貌が印象に残るわけでもない)通りすがりたちとして「女」というのがいたと記憶に残る。ここには光秀の母御前も信長の妹もいない。ただその記憶もいつか、陰毛よりも役に立たない「お守り」になったでんでん太鼓一つに行き着くに違いない。
なんとなくパゾリーニ的な?予想外に加瀬亮以上に狂った王に近い儀式をする西島秀俊。なぜか岸田森が怪演した『おんな極悪帖』もよぎるが、それでも西島秀俊の怪演といった印象は一切ない。それは映画の切って貼って繋いでのマジックか。どことなく遠藤憲一からウィレム・デフォーに近いものを感じつつ、スーパー馬鹿に見えるのもマジック。どんな女性よりも不憫になるほど性的な扱いの寛一郎などラブシーンというのを『アウトレイジ』の椎名桔平以来久々に見たり、そうした同性愛の扱いについて何も自分が言える気もしないし思いつかない。そこに黒澤明大島渚を連想して意味があるとも思えない。一方で愛憎関係を繰り広げる武士共(信長へのあれこれは世襲制自民党員にファックか?)に対する「百姓」出身ゆえの、自らを嘲笑う信長に対しても、自らに善意を向ける光秀に対しても、等しく我慢ならない北野武の姿にはやはり本気のものが多くの台詞よりも、両者の間で座しているだけでも感じるし、その憎悪がなぜか一本背負として、彼自身の策略でなく勝手に眼前で繰り広げられて見えるし、つまりは天下取りでなく、ただただ皆が死んでしまえば気が晴れるというか。そして使い捨ての足軽や忍びに対しても等しく容赦ない。
なぜか一番若い信長、すでに老獪な家康、それ以上に紛うことなきジジイのたけしが喋る秀吉。全部が曖昧な印象や、それっぽさとの戯れ。映画は現実の鏡でもなく、歴史や現実のパワーバランスともいっそ無縁で、観客と映画の間の戯れだけが残る。この『たけしず(変換めんどい)』『監督ばんざい!』あたりから腹をくくって『アウトレイジ』、そして『龍三〜』の漠然としすぎた昭和を経た境地。もはや誰が死のうが生きようが天下取ろうが関係なし。男も女も同性愛者も幽霊も幻覚もすべて意味なし。全員悪人ならぬ、いつか全員死亡である。
見事な不意打ちとしか言えない長回しもあれば、勝村政信桐谷健太の謎の見せ場のような予想してなかったお約束もあり(テレビの時代劇コントでありながら、北野武とも無縁でない監督による『D.I.』『黒衣の刺客』がよぎった)、津田寛治寺島進の呆気ないようで意外と愛のある出番とか、そうした全ては驚きであって、同時に驚きでなくても結構、かまわないという達観。もう何の先を読む気にならない。
北野武の動きが遅くなったから130分以上の尺が奇妙に苦にならないとか、(青山真治監督など既に書いてる)イーストウッドの遅さと重ねた理解も可能なんだろうが、しかし北野武木村祐一との妙に早い切り返しから(この映画の木村祐一のアップの挟み方は変になる)、ついにはありえない対面を果たして、平然と大森南朋の芝居を衝立の影で一緒に映って笑い合うに至って、それからの彼の運命は公開初日に書くべきではないが計算されている。分身や身代わりや使い捨てや、その辺の主題が全編貫かれるのは想定の範囲内かもしれないが、それにしても西島秀俊の最期をめぐっては本気で美しいと息を飲んだ(その後のある人物の最期も)。雨のなか、傘をさして歩く浅野忠信を追う移動撮影も、映画にとっているかいらないかを超えて、無意味に忘れがたい(ある場面での無言のアップには笑った)。一方で大事な会話ほどすべて悪い冗談でしかなく見えてくる。誰も信用できないのに、誰も彼も次のカットでは考えが変わってそうなのに、なんだか腹の底を探ろうという、先を読む気なんか起こさせない。ただただ映画を見たというだけ。記録も何も残さない。面白くも何ともない場面がなぜだか終わりにかけて増えるのに、最後は何もいらないと思えない、こんなの余韻がない終わらせ方のはずなのに、ひたすら余韻に浸る。

『きのう生まれたわけじゃない』(福間健二)

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福間健二監督・原案・脚本・出演・音楽の『きのう生まれたわけじゃない』を見る。
良い映画か、面白い映画かはともかく、新作ができたら見に行ってしまう。映画の大半がそうだというわけでもなく、むしろよくわかってないギャラリーに行くとか、それこそ詩集を買って読もうとする行為に近いと言っていいのか。『岡山の娘』に不思議と感動したが、しかしそれ以降の福間健二監督の映画を見て、はっきり感想を言えたことがなく、あえてかわからないが見直していないし、思い出せないところも多い。だからと言って『岡山の娘』だけ良くて、それ以外は駄目と言いたいわけではない。また福間健二監督の映画を悪く言うつもりもないが、たしかに良く言いたいわけでもないかもしれない。だが、その良し悪しの判断に意味は見いだせない。だが好きだ、という反応もわかりやすすぎる。見に行くのが楽しみであって、それがどうだったのかと聞かれたら、むしろ見ている間に何も言うことがなくなっていく過程にさえ感じる。
取り留めのなさと小っ恥ずかしさ。福間健二監督作の人物がカメラ目線で詩を言葉にするカットは見ていて、どうこちらが反応していいか恥ずかしくなるし、人物たちの語りも一つ一つ今は思い出せない。本当は自分も映画ならカッチリした堂々たる新鮮なものを見て刺激を受けたいのだろうが、そうではないのが福間健二監督の魅力というのは乱暴か。もっと監督作の言葉からいただくなら、「上の空」になりに見に来ている感覚なのかもしれないが、そううまいこと言えるかもわからない。
しかし漠然と『秋の理由』『パラダイス・ロスト』と経て『きのう生まれたわけじゃない』へ至ったのだという感動もある。それは同じく鶏の出てくるレオナルド・ファビオ『闘鶏師の恋』や『クライ・マッチョ』といった愛すべき映画や、未見のヴェンダース『Perfect Days』とも比べられるんじゃないか。単純に撮影が鈴木一博から変わったことも関係しているかもしれないが(撮影・照明:山本龍)どこかしらへ向かおうとはしているに決まっているのだ。

相手の心を読めるという人物がいて、その七海は何者なのか、こちらから見れば曖昧かもしれないのに輪郭ははっきり存在している「人」であって、母親役の安部智凛、なんにでもなれるという今泉浩一ふくめ、あらゆるものが消えてしまう前の最後の出番のようでも、平然と再会できてしまう本作に相応しい。口を開かなくてもオフの声がやり取りを始めるのだが、そうして過去作のヒロイン・佐々木ユキと話す時は不思議と声と映像の結びつきが軽く、ちょうどいい。また監督自身の出演も、その映り具合の目つきの迷いというか、ここになぜ自分がいるかの迷いのような不安定さも、大丈夫なのかという不安も、どことなくちょうどいい。公園の男たち(老けたというのは失礼だが常本監督を久々に見た)とのやり取りから白い布をまとって入れ替わり話すに至るシーンには、その前後の繋がりが断ち切られ過ぎず、これまでより監督も含めて一つの芝居が作られているように見える。住本尚子さんも上の空というか、心が読めそうで読めない、仲よさげなのに急にそっぽ向いて消えそうな不安定さがよくて、そんなだからこそ終盤に七海とのスタバ前でのやり取りはグッとくると同時に、こんなの作品全体と関係なく良い感じになるに決まってる、ズルいとか言いたくもなる。やがて福間健二はどこかへ向かうのだが、それはある目的がわかるようで、やはり放浪のようでもあって、正木佐和の一人二役に守屋文雄との再会もドラマになりそうで、あえてなのか、某政党のポスターが映り込むカットで呆気なく実現し、クライマックスとしての感動でもなく、直線的であることを避ける。
そして終盤に2回、切り返さず相手の存在を見せない。弟からの手紙は、この監督の映画の残した言葉の中で最もシンプルかつ記憶に残りそうだが、そこで弟も不意に目の前に現れるかと思うと、そうではない。彼は再登場しない。二人は弟ではなく観客としての自分を見つめているのかもわからないが、もう少し先がありそうで断ち切る。消える予感もあれば呆気ない再会もある映画で、終わりは終わりと思えない中断でもある(演出家としての福間健二の先を見たくもなった)。その判断が良かったのかも、やはりわからない。

『フォルティーニ シナイの犬たち』

アテネ・フランセ文化センターにてストローブ=ユイレ『フォルティーニ シナイの犬たち』。イスラエルパレスチナをめぐる映画として、いま見直すべき一本だという気合を会場から感じた気がする(しかしデモには行けず)。
最初の第三次中東戦争のニュースに対して字幕が少なすぎないかと不安になるが、そこへフォルティーニの声が重なって、ようやく再び字幕がつく。必要最低限の(それ以下かもしれないが)字幕に思えても、これくらいの字数でないと内容を追えないのも間違いない(映画は字幕の読書ではない)。
とはいえボンヤリ見て話が頭に入るわけではないから、必ずどこか大事な箇所を読み飛ばしたか、目を閉じてしまったか、後悔する。眠気を催すのは退屈だからではなく集中力を要するからだ。ボンヤリ見て筋を何となく追えてしまう、それはそれである技術に支えられた映画の上手さ巧みさとは違う。そうした意味で上手く撮ろうとなんかしていない。
一方で挟まれる風景ショットの数々。その風景がどこで何を意味するかはみているだけだとわからない。だが何となく、それが一つの読み解くべき意味のようなものとして見てしまう点では(このショットは何ですか?どうして入れたんですか?と聞きたいが、聞くのも違うよな、と遠慮するやつ)難解だが、同時にこれがウォーホルの映画のように、ある時間の記録されたスタアのショットのようにも思うから、これはある重要な関連ある土地の固有名詞的な映像であって、だから無意味ではないという気になる(ただそれらは「エンパイア」のような他に類を見ない存在ではない)。そもそも風景を見ているときには字幕を追う、言葉を追う時のような緊張から解かれるためでもあって、一種の休憩に近くも感じる。そうして観客がより後半に集中できるようになるためか。
なぜここを撮ったのか以外に、なぜパンするのか、なぜ行って戻ってくるのか、なぜ2回以上360度パンするのかと聞いてみたくもなるが、でも赤坂太輔さんがtwitterに訳したように(自分なんかウダウダ書いてないで、赤坂さんのを読めば充分なのだろうが)マイケル・スノウの移動撮影に、ルノワール、溝口の繋ぎと名前を出せばいいのかもしれない。足元の記念碑から真上の空が映るかというタイミングで、車道から左側へのパンというロングテイク同士のぶつかり合い。2回かそれ以上の360度パンの後に、延々と続くミサの俯瞰の固定ロング、その同じ場所を回る動きに対する切り返しのようなものだったのかと思った辺りで重なるフォルティーニの「少年期から儀式は苦手だ」といった声が重なる。画面奥に船が去ってからも、暗く日の上らない岩礁を映しながら続く収容所でのことを語る声は、映像と音声が意味としてではなく重なる(むしろデュラス的な?)ように見え、聞こえ、話を読み続ける。その船は既に過ぎ去って、後に残されたのは波の動きか。一方でテクストを個人の記憶を語るものから容赦なく切り、『春の劇』のラストじゃないが、ある種の閃光のような白画面を挟んでいくフォルティーニの朗読(映画のコマが飛ぶたびに、映画のキレも研ぎ澄まされていくと言っていいのか、それともそうした切り刻まれるものとしてのフィルムの本質を知るからか、最後までまばたきできない観客は自分の目で黒画面を挟み、映画は完全に切らない状態にはできないからこそ、先の読めないものになる)、白画面を挟むストローブ=ユイレは他だと何か?と考える(しかしこの白画面も赤坂さんのtwitterを見たらストローブは既に話していた)。父の思い出を語るフォルティーニの音声に重ねられたカットでの、長い固定の終わり際に、目を潰されたフリーメイソンの三角形へ最後に移すレナート・ベルタの撮影も、そのタイミングも凄い(その場で録音を聞いてたのか? それともアフレコでの計算がすごいのか)。

『あずきと雨』(監督:隈元博樹、脚本:久保寺晃一)

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『あずきと雨』(監督:隈元博樹、脚本:久保寺晃一)を見る。
『Sugar Baby』(監督・主演:隈元博樹)が里帰り映画なら、こちらは家出映画か。この男女が同じことを繰り返しているのか、彼がいよいよ来た終わりの予感に狂って、あずきバーへ逃れているのか、そうした読みは不要で、ただ彼のおかしさに笑うしかないのかはわからない。口には出せないが手紙に書かれる「どうにかならないんでしょうか」という言葉のはじまりを、あずきバーではなく彼女との関係もしくは人生のあらゆる局面と重ねる見方は容易いかもしれないが、面白みにも欠けるか。
映画を見る限りあずきバーはパルムのように齧っている間に溶けるものではなく、アイスを齧りながらの会話の間に溶けて床にこぼれるカットはないが「冷凍庫入れてないと溶けるんだね」と男が言うくらい、食べている間は硬くて溶けないんだろうか。途中、家にやってくる女の子が「冷蔵庫」という謎が観客の心に残る。
前の晩を朝まで過ごしたかもしれない男(「アゲオ」というノリのいい名前がついているらしいが劇中で呼ばれたかは思い出せない)から「なんかいいねスーツ」と文字通りアゲているようで得体の知れない適当さが奇妙だが、夜に職場で同僚の女と飲んでいる時の「お姉さん」と呼ばれる白シャツ姿には『しとやかな獣』の若尾文子じゃないが、それまで映画には見せなかった色気はある。ほとんどが限られた空間の(監督自身の部屋だという)舞台で、なんらかの底の抜けるような事態を予感させつつ(アイスは溶けて床を汚してしまうのだ)、しかしそこを踏みとどまりもする。

映画の序盤、手紙を書いている画面手前の男にピントが合い、画面奥にインしてきた家主である女にピントが合うか合わないか曖昧なのだが、直後に彼女のミディアムショットを挟んで、両者は互いに窓の外を見る流れとなって、両者の視線は同じ側へ向いているようなのだが、そのまま彼女のアップになって、彼の側へ目を向けるのだが、直後にアップになった彼は彼女と視線を結ばせるようで定まらず眼を逸らさせる。両者の視線が結ばれたのか、いないのか、曖昧に切り返す。
小津安二郎特集のせいか、そう見えなくもないところ多数ある映画というか、作家がどう思っていようが、見る側にとって「これもまた小津か」と付きまとうのかもしれない。「雨が降ったら家を出ていく」と男が言ったからか、言う前からか、男も女も空を見て、不動産屋に現れる女の子も「見晴らしのよい場所」を求めているのだが、しかし不動産屋のデスクから見る空には電線があって見晴らしはよくないというのも『小津安二郎』(平山周吉)の『麦秋』への指摘がよぎる。菅原一郎・東山千栄子夫妻の視線の先にあるという、一つの風船が飛んでいく空のカットもなく、画面いっぱいに小豆畑が見えるラストというわけでもないが。仕事のない男が子供と野球をするくだりに『大学は出たけれど』を連想することもできるかもしれないし、そこでの掛け合いをあえて途中からロングにしているのも可笑しいし、「もう遅いから帰ります」と言われているバックの日が暮れた空は大きく印象には残る。しかし空というか天というか、仰向けに寝る場面が少なくとも女性二人にはあるが、必然的にいつまでもそうしてはいられない。それは雨が降ったから解決するわけでもない。
クライマックスの雨は(恵みの雨なのか)窓越しに男女の側へ反射してきて(それがどのように見えるかはあえて書かないが)、過去に『あの残像を求めて』という名前の映画を監督したことと関連付けられるかもしれない(ただ雨自体の撮り方はやや不満はあるが、ないものねだりか)。最後のヒロインの帰宅前に(あのように天気の中を自転車で走るのではなく)、もう消えているかもしれない相手のことを言葉にするくだりがあるかもしれないと思いつつ(そこでは別のドラマというかエモーションが求められるか)、劇中でほとんどこの場にいない相手のことや、両親や上京理由や、自分や誰かの過去について語ろうとしない姿勢は最後まで貫かれる(雨の降る直前の「いつか」という言葉の出てくる「その頃には私はいないかも」というやり取りにはグッとくる)。この人たちは終わりかけのようで同じことを何日も続けているのかと思いきや、そもそも男は溶けて消える夢のように存在さえしてなかったかもしれないが、とはいえ女の妄想というわけでもなく、つまりは霊なのか(当然飛躍した解釈で、なぜなら自分には男女の機微を語れる経験が欠けているため、こうしたことは全部映画でしか見たことがなく正直よくわからない)。勝手に男を失業中の脚本家と思い込んでいたが、それはノア・バームバックの映画と脳内で結びつけたからか。そうした過去がはっきりしないからこそ、今の「どうにかならないんでしょうか」の走り書きが真剣にも見える。

『コカイン・ベア』『絶望の日』『女体』『蕨野行』『淑女と髭』『突貫小僧』『東京の合唱』『ザ・キラー』『ドミノ』『烈火青春』

仕事終わりに終電前の新宿でエリザベス・バンクス『コカイン・ベア』を見る。昨今話題のクマさん出没だけでなく、微妙に埼玉県自民党県議団による虐待禁止条例改正案を思い出す話も出てきた。クマに罪はないんやで、という映画であり、罪のない人も死にます、という映画でもあり、微妙に善悪の境界が曖昧で最後の生還者も一部予想を裏切る。誰が主役だかよくわからないという映画も久々に見たかもしれないが、単にクマを中心にした群像劇といえばいいだけだが。『血みどろの入江』の金目当ての大人たちがタコさんの餌食になったような光景や、漠然と『殺人捜査線』の粉を日本人形に!という展開を連想しなくもない、コカインをクマが食った!という話で、中盤から悪趣味に拍車がかかり、かわいい顔してキレた全編CGだろうクマが人知を超えたスピードとパワーを発揮して人間を肉塊にするのだが、その切断面やら切り株やらよくできている。特にレンジャーのキレたおばさんと不良たちだけでなく、かけつけた救急隊まで皆殺しの展開は悪趣味かつカラッと笑えると言うには惨い。クマが何をそこまで命を狙うのか不明だからか。ついでにクマは無敵なので最後まで特段ピンチの印象もなく、子供を守る母親だとも明かされ(ついでに子グマもラリってるのがトラウマ)、要するにクマに罪はない!という具合で締める。何をもって酷いことやってるんだかよくわからないが『テリファー』といい、特に音楽面でかつての映画たちを意識させても、ほとんど意図的に冒涜する勢いで心無いものに仕立て上げる。

 

某日某所にてオリヴェイラ『絶望の日』を、ありがたいことに日本語字幕付きで見る。
赤坂さんの批評などで、いつかは見なくてはと思いつつ、特に自宅で見るなどしていなかったため初見。
決して長くはない映画だが、いつ始まるのかというドキドキと緊張が続く。カミーロ・カステロ・ブランコの肖像画がしばし映ったかと思うと、再度クレジットが続く。やがて手紙を書く手が映り、走行中の馬車の車輪が映り、さらにモノローグが続く。そして女性の後頭部を見るだけで色っぽいと思う。修練が足りず、何度も集中しなければと思うほど、気づけば長い瞬きをしてしまい、いろいろ見落としや頭に入り切らなかったもの多く悔しい。
故人の邸宅を見るという、オリヴェイラの死後に上映された『訪問、あるいは記憶、そして告白』(82年)に予想していたより近い印象を受ける。カミーロ・カステロ・ブランコの1890年の自死から一世紀近い時間が経っていて、しかし映画には映画自体の途切れない時間が構築されている。これは『好男好女』など時制や虚実を行き来しての演じることそのものの不可能性を問う試みと近いようで別物の印象になり、だから画の繋がりや試みの面でも、見返すたびに得るものがあるに違いない。
そしてラストの(最初の車輪に対する)森を仰ぎ見る前進撮影が凄く、暗転後の音楽がいつまでも続きそうで呆気なく断ち切れる。

 

国立映画アーカイブにて泉谷しげるから「人の心がない」と言われて「お前には心があるというのか」と返したらしい恩地日出夫『女体』見直し『蕨野行』もDVDはあるが何だかんだ初見。
やはり恩地は鬼じゃ!という結論。『蕨野行』の「身体が軽くなった!」というシーンは当然感動しつつヤバいものを見たと思うが、この世のものではない子供の霊体?との対話でついに始まる(これまで禁じてきたような)切り返しも忘れがたい。
堀川弘通の助監督だからかはわからないが凄まじい技巧というか、もう無償に近いんじゃないかという移動撮影あり、集中力もオリヴェイラと同じく要する(『蕨野行』も最初から言葉を追うのに聞き取りきれず)。『女体』の団令子が戦後すぐを振り返るだろう一言から瞬時にピカドンにつなげる凄まじい繋ぎによる導入部の鮮烈さも忘れがたい。それにしても執拗に雨を降らす執念は何だろうか。

 

小津安二郎『淑女と髭』『突貫小僧』。
『淑女と髭』は初見ではないはずだが、安物のブローチのくだりとか、雑な付け髭を毟り取りながら話すくだりとか、後半のタッチを全然覚えていず戸惑う。「治安維持法か警察と結婚します」なんて台詞あったっけ……となるくらい。
そして『突貫小僧』(パテベビー短縮版)もたいして覚えていなかった。青木富夫と坂本武のやり取りが途中までイマジナリーライン超えない切り返しという点さえ覚えていなかった(小津と言えば正面からの切り返しばかりではないというくらいの認識はある)。「カバの物真似ができる」とか「おじさんが先にやってよ」とか、そうした子供の勝手さに一方が振り回されるのを引きのワンカットでなく見せるなら、この角度からの切り返しという狙いを感じる角度というか(そういうのは『東京の合唱』冒頭の先生と生徒の間にもある)。あとよく出てくる写真のせいで和製ホームアローンみたいな記憶の捏造がされてしまうけれど、そういう映画でもない。
『突貫小僧』(マーヴェルグラフ版)。14分短縮版が21分になったのだから、物語が変わるというほどではないが、別の映画になった印象は当然受ける。「人さらいの出そうな」という字幕が消えていたが、解説(築山秀夫)によれば現存していない冒頭に主婦たちが話している台詞らしい。終盤の斎藤達雄が青木富夫を置いて逃げようとするも回り込まれていたくだりでは、逆に「お家に帰りたくなくなったな」という字幕が加わっていて、それにも不意をつかれる(やはり彼の家の様子は映らない)。例のチラシにもある見慣れないカットは川辺ではなく噴水だったが、それでも水辺が映ったような質感の変わる驚きはやはりある(あの警察との切り返しのあるベンチのやり取りの前に挟まれているのだが、あのベンチの向かいにありそうな光景に見えない)。斎藤達雄がでんでん虫の真似をして通りがかった女性に笑われるくだりも、先に様子を怪訝な顔をして見ている女性のショットがあったり、斎藤達雄の移動ショットの後で手元の菓子に食いついている青木富夫が出てきたり、坂本武とのやり取りの合間に青木富夫が菓子を食うショットの奥で斎藤達雄が布団を敷いている様子が映ったり、お酒の瓶が倒れてこぼれる前に水鉄砲のくだりが長くなっただけでも前後の繋がりが見えて一連の時間が続くように感じる。

『東京の合唱』は序盤の先生と生徒のやり取りを終えてから、風が吹く樹々を見上げて時間が一気に飛ぶのだが、この風が終盤になって再度吹いているカットが入る。そこでは樹々のカットの次に、反対側を向くと、そこでは洗濯物が干されていて、風に吹かれている(序盤では制服が干されていたが、ここでは子供たちの服になる)。どういう家の構図で、どういう切り返しなのか当然不自然ではあるのだが、先生もあの頃のような元気さはなくなったな、といった話の後に風の吹きやんだ洗濯物の様子が入ると、これまた不思議と胸を打つ。そして前半、割れたレコードに対する、カレーライスのために盛られた白米の皿に、たくさんの帽子と円形がたくさん映る。柳下美恵さんによる伴奏ふくめ、最後の合唱も感動。

ところで、やはり『静かに燃えて』(小林豊規)のグッとくるのは、それが2019年には完成していたかもしれないのに、2022年を完成した年にしていて、その時間の停まった感覚の中には、結局自分の映画が時代を超えるためにはどうするかという無意識が編集作業の中で働いたんじゃないか。この時空を超える映画の中で「まるで見てきたかのように」見てないはずのことを喋っているように見える人物を登場させ、しかし映画の出来事を最初から最後まで見ているはずの作り手と観客さえ、そのいくつかは主観による空想の可能性もあるなど飛躍した解釈を許容する危うい繋ぎは、その4~5年の試行錯誤を経たからじゃないかとは勘繰ってしまう(その種の逡巡を感じさせることは他の日本映画からはほぼ期待できない)。
小津安二郎の映画での道を踏み外したとされる女が何らかの出会いにより、別の道を歩もうとするという印象はどうしても今になって見ると微妙なんじゃないかと頭をよぎるが、それでも「戦後がなければ小津は忘れられていた」とまで言う気はないが。たとえば渋谷実の研究本で、37年の『淑女は何を忘れたか』と『奥様に知らすべからず』を比べて渋谷に価値を見出すというのはちょっと単純じゃないかと思うし、やはり『父ありき』を見直すべきなんだろうが、仕事のせいで行けず。

 

あとはアイラ・サックスの『パッセージ』は見た(最後のアイラ―と自転車がよかった)が、東京国際映画祭にて空いてる時間に見たいものは満席なので、結局デヴィッド・フィンチャー『ザ・キラー』。上映素材のせいか、微妙に安っぽく見えた気もするが。でも特に不満はない……期待値上げすぎたかもしれないが。
殺し屋映画。もちろん『イコライザー』とか『ジョン・ウィック』とかあるけど、どこから始まったといえるほどではないがドン・シーゲル、67年~68年の『殺しの烙印』『ある殺し屋』『ポイント・ブランク』『狙撃』、いろいろあるが(見落としがたくさんあるに違いないが)ともかくジャームッシュに至るまでの流れ以来久々といえば(というかアレを丁寧に追ったリメイクぽい)、そうに決まってるのだが。近作なら『一度も撃ってません』とか『モンタナの目撃者』とか、何なら『黒衣の刺客』か。相棒ではなく妻というのは珍しい。「綿棒」には笑った。あくまで時計というより自分の心拍数を見るのが結構いい。やっぱスミスは仕事に集中するには向いてないんじゃないかと思うが、ズレた感じが悪くないというか(モノローグと出来事の微妙なズレとも通じる)、基本はいつもの音楽が流れる。
襲撃された邸宅へ向かい走るカットでの横移動に、やや『殺しの烙印』のトーチカにこもるno.2との対決を思い出すが(この時点で奥さんの存在がわからないのもいい)、実際に火炎瓶使うのはもっと後だったりする。ここで追いかけてくる犬も飼い主と違って殺されなくてよかったですね…ってジョン・ウィックの逆か。

 

仕事終わりの終電前に東京国際映画祭は間に合わないからロバート・ロドリゲスの『ドミノ』。
実はあまり熱心に映画を見るオタクでもなくロバート・ロドリゲスって最も興味をもてない監督の一人になってしまい悉く後回しにしてきたが、やはりいつかは見ないといけないのかもしれない。それでもようやく『ドミノ』は何となく予告から見ようかと思った。
ロバート・ロドリゲスの催眠!』という感じだった。
どっかで見たことある感じの映画だが(まあ大半の映画は催眠じゃなくても既視感あるけど微妙に違う何かなのかもしれないが)悪くないかと思いつつ、それらがメキシカンになるほどインチキ臭くて、やっぱ愛嬌みたいなのもあって悪くないかなとなるが(本当にどうしてこんな2番3番煎じくらいのチャンポン映画をそれなりのモノっぽく振る舞えるのか図々しい)、まあ、見ていて飽きはしない。さすがだ。でも代わりにムカついてくる。
一番面白いのは、半端に操られたベン・アフレックがハサミをどうするか、結構心配しながら見ていたらベッドインへ暗転という(しかも上品というより古臭いのだが)意外というか呆気なさすぎるというか。
しかし、まあまあかな、という映画のはずが、アンタらはまだそんなことやってるのかよと。まだマンゴールドの中でも評判悪い『アイデンティティー』のジョン・キューザックの目覚める顔のほうが、なんとなく良かったベン・アフレックより確実に心動かされる演技を引き出してる。
最終的には娘が最強という話。やはり何のためにこんな面倒やってるのか釈然としないが(ゴキブリ踏むのとか何なんだ)、まあ面白ければいいやというのを通り越して、最後の「自由だ」に思いっきり白ける。
しかし映画を見るのも、暇さえあればスマホばっか見るのも半端な催眠に変わりなく、その都度、穴の存在に気づいて目覚めるの繰り返しかもしれない。でもこれで「自由よ」は無いかなあ。

 

いろいろ見逃し悔しく、『烈火青春』嫌いじゃないけど別に良くもないし……と書いたらツッコミを喰らう。
そう書くこっちが悪いのだが。
そりゃ信頼している方々が見た『犯罪者たち』もワイズマンもリュウ・ジャインも、そのほか話題の諸々を見逃して、レスリー・チャン×パトリック・タムだけ見て「これで満足」となれるほど達観できてもいない。そういう悔しさが誰にも伝わらず、ただ馬鹿にされるだけ。もっと未公開映画クラスタみたく気合を入れてスケジュールあけられる人生を選ばなければと反省した。
とにかく映画わかってない認定をまた喰らってしまったのが悔しい。
レスリー・チャンのシンナー吸引未遂場面が「液体が多くないか?」とシンナー経験者でもないのに思って、そうしたら遠藤さんが同様のことを突っ込んでいたので、『コカイン・ベア』の子供が「僕はクラスのヤバい奴とコカインやったことあるんだぜ」と大匙一杯コカイン食おうとしてムセて「まずい、質のわるいやつだ!」と知った風なことを言うシーンを思い出して、レスリー・チャンはシンナー経験者なわけがないと好感度アップかもしれない(名古屋では80缶以上でしたっけ?シンナーやって脳の縮んだ若者が本当にいたんでしょうか)。そんなことはどうでもいいとして、レスリー・チャンは二階から落ちる羽目になって、後景で足をひきずってるシーンとか、直後に模型ではない船が海をいくのを見ている時のよろこびとか、たしかにいい。
最後のとんでもない香港映画魂というか東京から見たら国辱映画というか(シンスケとか赤軍とか何だよ)、裏返った水色のボートから見事に放たれるアレを見て「これが映画だ!」「この混沌こそ映画だ!」と感動すればいいのか、無惨に日本刀で殺される男女に対し「えー……」となるかのキワどいラインでも生き延びるレスリー・チャンとか見どころはあるが、個人的にはやはりパット・ハーにやられた。
レスリー・チャンのシンナーを風呂に捨てて火をつけるところ、プールの監視員の席に座っているところに回り込む撮り方、いつの間にか車の上に(本当に車の上に)スカート脱いで立っているところ、そして取り巻きの声援(それに押されるレスリー・チャンも可愛い)。ついにベッドシーンになるかと観客としてもワクワクしたところで諸々の邪魔の入るところも楽しいのだが、結局麻雀はじめたおじさんたちの背景を通り抜けて、夜のバス停で待つロングショット(まさに青春)、「うちに来ていいよ」というくだり(こんな青春いきたかった)、そしてバスの二階で一人乗り合わせたおじさん、途中に乗ってくるさらに青春な中高生カップル(パット・ハーが一旦下りて、あの制服姿の彼氏彼女の去り際を見てから、あえてアップなど挟まず上に戻るというのも何だかいい)、そんな通りすがりの人物を尻目に、夜風に吹かれながら席の移動を繰り返すくだりが続いて、彼女の家に着く前に駅弁になる(そして感動的な、プールでのパンツという伏線の回収を、つい先だって誕生日を迎えたマキノ雅弘の『決闘高田馬場』かのように、とかは言い過ぎだとしても、二回三回繰り返す)、運転手さんには迷惑だろうが、この長い一連が本当に素晴らしいシーンとして語り草になっているらしいのには納得というか、ただただ見入った。
まあ、自分には映画の良し悪しを判断する能力はないし、映画のこともよくわからない。特に誰が良いという情報だけでなく、この限られたスケジュールで挑む映画祭でいろいろ見ることこそ醍醐味であって、日々ダラダラ見るのなんか糞みたいなことでしかないのだろう。映画を多少は見てきたはずが、結局自分は単に見逃してきたとしか言いようのないし、そうしているうちにますます現実から置き去りにされる。

『静かに燃えて』

www.shizukanimoete-movie.com

小林豊規監督『静かに燃えて』を下北沢トリウッドにて。
筒井武文氏による公式サイト掲載の「二度見るべき映画である」と煽動する評が間違いないことを証明するように、無料配布されたパンフ掲載の批評には見終えた方を想定して別の内容が書かれている。一つ一つが間違いのない画面のなかで、女二人と向かい合って男一人がテーブルに座った画の遠近感を狂わす構図(それはややヒロイン二人と関わる距離を誤っているような女性の訪問客が口にする「セザンヌ」のトランプをする画のことを連想)や、終盤に現れる一升瓶ワインといった装置ではなく、あえて冒頭、既に壁面に飾られた絵画たちから読み取れるものだとわかる。
まるで絵を描くことが時間の流れを停止させてしまいたい欲望かのように、序盤から物思いに耽るのか動きを止める女、巻き戻る時制(しかし容赦なく先に進み続ける時間)と、操作とつなぎ間違いによる逸品であることが見終えて反芻するほど理解し味わい深くなる。一部彼女たちの関係がどこまで行ったのか物語の解釈としてどちらともとれる編集をされた箇所があり、その謎は終盤の台詞で説明しすぎていないか不安なほど二人だけのはずの出来事を見てきたかのように語る人々の対話(このつなぎ間違いの巧みさ)を経ても解消されないまま、むしろより謎めいたまま残る。それはアヴァンタイトルでの衝突の時点でヒロイン二人が何を思うかの奥底までは最後まで観客が本当に理解できたかもわからなくさせ、またある場面での夢を見たのか否か、ただ一人になって目を覚ましたヒロインに対する、やや引いた距離と光の射し方、彼女の沈黙、肌へ向けた撮影の繊細さがより際立つ(さらに最後の涙なしに見れない切り返し!)。
本作のヒロイン二人への視線に『燃ゆる女の肖像』のような見る・見られる関係の揺るぎなさへの自信はなく、むしろその揺らぎについての映画かもしれない。主観ショットかと思いきや誰の視点でもないカットであったり、解釈を間違うことと、その間違いへの気づきに誘導する。あの会場にて笑い声のあがる場面の心無い印象同様に、この映画自体が何かを間違ってしまうのではという危うさがある。終盤のオーバーラップが、あの酒を飲んで交わした対話さえヒロインの催眠で見た空想の一つではと飛躍した解釈も用意してくれる。町中に響く音が、ある場面では人物たちと同じ時間・暮らしとともに流れているようで、別の場面では感情から切り離される。
映画は誰の主観でもない。無機質なものとしての「手」を映すショットの後に、足に向けられた性的な眼差しを意味するカットが入り込み、それがある男の主観だからではなく、映るものが人工物から生身へ変化したからに違いない。映画が「かつて哲学者が言った」言葉として、人と人は決してわかりあえないと言うように、映画と観客もわかりあえないのかもしれないが、それでも互いの発したエモーションが存在しているということか。決して早いと言えない監督デビュー作が2018年に撮られ、さらに公開までには5年費やしたことが映画の内と外の間にも時の流れを生じさせているようで、それがまた本作に相応しい。