『蝶の眠り』(チョン・ジェウン)

明らかに遅れてきた人間だから逆にアホみたいに恥知らずな断定をしたくなってしまうのだと自分が嫌で仕方ないが、だいたい毎年「今年はこれ見れたから、もう他はどうでもいい」という映画が、矛盾してるが2、3本あって、それはおそらく誰にでもあるが、そしてそんな映画さえ既にどうあっても愛されることがわかっているような、やはり自分は単なる後追いに過ぎず何の発見もする気のない怠惰な人間だとうんざりするばかりだが、ともかく去年なら、たとえばカウリスマキ希望のかなた』、ジャームッシュ『パターソン』、マンゴールド『ローガン』、そして堀禎一『夏の娘たち』だとしたら、今年はスピルバーグイーストウッドも忘れても、チョン・ジェウン蝶の眠り』がある。映画が見た人間によって貪られず、現実に結びつくと信じたくなる(見た人間に何か賭けられた、託された気にさえなるが、結局自分で何もしないまま書き散らしただけ)。

堀禎一チョン・ジェウンが、たぶん同じ69年生まれという余計なことを知った風な顔して言いたくなるくらい、おそらく数少ない孤独に日本映画を蘇らせる命がけの映画なのだろう。それでいてクライマックスはイーストウッドを思い出させてくれるあたりも堀禎一と結びつく。敷居の高さを微塵も感じさせないほど、朗らかなユーモアと、ほとんど俗っぽさを肯定してくれるくらいの愉快なエロス。中山美穂の小説がはさまれる度に色っぽくて面白おかしい。カットされるたびにリズムが響いて気持ちいい。それでいて助走がついた途端、もう頭がおかしくなりそうなくらい泣かせる。中山美穂は西山朱子に見えて、そのせいもあって百万円の万年筆は山中貞雄のようで、彼女は西山洋市の「電柱が見える時代劇」もしくは「髷を結った現代劇」のヒロインのようだった。キム・ジェウクの、おそらく現実の大半の人間でない人間よりずっと愛すべき人間らしさは、普段生きてきて自分は自分を殺して辛うじて生きているんだと誰にも気づかせてくれるはずだ。
たとえば中川信夫夏目漱石三四郎』、アイヴァン・パッサー『クリエイター』、最近ならホイット・スティルマン『ダムゼル・ディストレス バイオレットの青春セラピー』(教えてくれた津田さんに感謝)の、最も美しい場所として大学が存在する。いや、『蝶の眠り』においては、正しくは「かつて」存在していたことをどうしようもなく記憶している。強引だろうが中山美穂の怒りはこの記憶にも支えられてるかもしれない。
恐ろしく教育的な映画だ。中山美穂の講義も、中山美穂キム・ジェウクの作業も。まるでジャン・ユスターシュの試みのようだった。自分を縛り付ける制度を解きほぐして自由であることを厳しく教えてくれる。不倫以外何物でもない関係が、愛とはこういうものだと叩き込む。全てを忘れて没入しかける情熱と、そこに距離をおいて見つめる教育が、たとえ記憶喪失によって支えられていたとしても、矛盾しないというユーモア。
映画を見ている間はいくらでも記憶は失われるが、そんなのは自分が見聞きしたと思い込んだ情報に過ぎない。自分でない誰かの記憶を前に、ただ自分がどうせ遅れてきたことを知らされる。

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港町(監督・製作・撮影・編集:想田和弘、製作:柏木規与子)

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想田和弘の映画はタイトルがフレデリック・ワイズマン「もどき」「後追い」として読むと、結果タイトルと作品の釣り合いが取れていないんじゃないかと気になりそうで、既に見る前のハードルのようなものになってしまい何度も見逃しているが(自らの怠惰に対する最低の言い訳)、『港町』はタイトルから踏み外して暴走しかかっている。今更だがマルクス兄弟がワイズマンに与えた影響は凄まじくて、その余波は『港町』にまで届いたのかもしれない。傍から見ていて会話らしい会話が成立したように見える状況よりも、クメさんによってかき乱され、ワイちゃんに対して「耳が遠いから聞こえない」言われ、猫とのほうが話ができているような状況の方が、多少見ていて面倒くさいけれど、身に覚えがある。ただ聞き取り困難な声を出す人たちについて身近に思っているうちは想像の域から出られていず、その飛び込み、衝突に達することはどれほどあるのか。

でもこの映画に関してならば、マルクス兄弟やワイズマンの名前を出すより、森崎東のほうが相応しいかもしれない。それはドキュメンタリーの枠を踏み外したという意味ではない。想田和弘森崎東から影響を受けているという話でもない。森崎東の世界に近い登場人物たちと、巻き込んだり、巻き込まれたり、さらにカメラを回す想田和弘が自らを喜劇のなかに放り込んでいる。もしも『息の跡』や『鉱』に比べてしまったら今更なステップかもしれないが、それでもこの自らを放り込む姿勢に最も感動した。

もしかすると想田和弘ではなく、ワイちゃんに網の目から覗かれているのかもしれない。ワイちゃんが「死んだら半値」「朝になったら死んでいるから」などと言いながら(正確に聞き取れなかったのか、僕が覚えられていないのか)黒い海から引き上げられ、陸に上がった魚たちは生きているが確実に死へ向かっている。パンフレットのシルヴィオ・グラセッリの評に「虹色のうろこにランプの光が反射する」と書いてあり、映画の登場人物の一人からも魚の泳いでいる海の色彩については話が出る。想田和弘小池昌代対談では「この映画にとって色が一番重要だと思っていたんです」と、製作の柏木規与子からの提案を受けるまで夕暮れ時の色のカラー調整にこだわり続けた話も出てくる。映画は黒い海と陸にあがった魚たちをモノクロに捉えて、死へ近づく生の輝きを見る興奮と欲望を掻き立てる。映画が追う牛窓のサイクルを起動させるスタート地点という理屈に収まらない(映画は「DOG HUNTING」ジャケット着た女性まで、円環を自ら壊そうとする)、それこそ青年団にカメラを向けた『演劇』以上に、芝居の幕開けにふさわしい。

想田監督自らパンフレットに「異界に通じるような、摩訶不思議なものだった。」と記す、クメさんへ連れられ坂を登っていくまで、いや、むしろクメさん以上に柏木さんと共に遅れてきた女性の(大変申し訳ないが名前を失念してしまった、もしくは聞き逃してしまった)、時に呆れてうんざりしかかっているような、しかし黙って背後に佇んでいる姿こそ、森崎東の映画に登場する涙なくして存在できないような人だった。

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泳ぎすぎた夜(五十嵐耕平、ダミアン・マニヴェル)

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片方の手袋をなくしている少年が、まるで『蠅男の恐怖』の一方は人間の、もう一方は蠅の腕を持つ引き裂かれた存在への、かつて人間だったが今では人間以外の怪物へ変わりつつあるように見えた(『蠅男』と化す少年は塩田明彦カナリア』でも万引き未遂のシーンにて引用される)。雪景色において手袋と素手、どちらが人間なのかはわからない。しかし彼がもう片方の手袋も外し、デジカメのメモリから父親の姿を見て、目印を見つけるまでの姿は、わずかに残された人間だった頃の記憶に触れたようだった。画面に自ら飛び込んでしまっているような、視線の先に前のめりな姿は見ていて気持ちよくはないが、大人と子供の、人間と怪物の、曖昧な境界に引きずり込む。行き交う車を追って首を振る彼の姿は恐竜のようだ。リュックを腕までずらして、どんどん強くなる降雪のなか、駐車場をさまよいながら、車のノブを引き続ける姿を見ながら、どの作品とははっきり言えないが映画の怪物たちが重なって、どこか哀愁を誘いもする。犬と吠え合う切り返しも少年映画と怪物映画が重なり合う。終盤の煙草を吸う父の美しさには、怪物と共に過ごすことになる人物らしさが漂っているというのは強引かもしれないが……。

怪物としての少年。(不勉強と怠惰からダミアン・マニヴェルの映画を見逃し続けているが)五十嵐耕平の映画における幽霊のような大人たちへ、抵抗する存在にも見える。

「大人たちの幻想を押し付けられるか、純粋で無垢な者として利用されるかどちらか」ではなく正しく「映画を前進させる存在」(パンフレット収録の諏訪敦彦監督による評を参照)となった少年を追う本作は、フレームと風景が主役の映画に近づく。この試みは本作の助監督、上田真之さんも自らの作品において挑戦し続けている。

『FRAGILE DO NOT DROP KEEP DRY』(監督:上田真之 撮影:kae sugiha) - 誰も呼んでくれない夜

 

フードコートでのウォータークーラーに少年の背後にいる女性を見て、ちょうど周りと遅れて見始めた『ポプテピピック』の女子高生二人によって浸食された景色を見ているようでもあった……。もしくは『季節の記憶(仮)』の誰もがファインダーを覗かずカメラを持っている世界と同じく、少年がノイズとして存在していて、かつ受け入れられている。

 

映画の少年は、まだ人間ではなかった存在なのか、かつて人間だった存在なのか。映画を見る人々にとっては、そのどちらでもあると示す。

伊藤元晴さんの評を読む。映画の少年を追ううちに、人間ではなくなる過程を辿ることができる。

 

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ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』では、長いあいだ人間の歴史を見届けてきた守護天使・ダミエルがサーカスの空中ブランコ乗りに恋をし、人間になるまでが描かれる。(略)『泳ぎすぎた夜』もまた、まだ人間にはなりきっていないかもしれない「なにか」の視点で私たちのありふれた日常を描写する映画だからだ。】

【(略)冒頭の少年のクローズアップである。フレームの外にテレビ画面があることで、観客は少年の顔だけを見つめることになり、劇場では鏡のように働くスクリーンが、観客の少年への同一化を助けている。本作は、いわば子供と対峙することで始まり、最後に観客は子供そのものとなって彼の母や姉と向かい合うというわけだ。そこで観客は、最初のテレビ画面の場面から最後の再登場までの間に、あたかも自分がその子供のようになっていたことに気付くのである。言い換えれば、前半と後半のこの「フレーム外のテレビのシーン」のあいだに『泳ぎすぎた夜』の本編――父親を探索する子供の冒険劇――があり、観客は彼の探索をたどりながら、ノイズを刻む少年の小さな身体特有のリズムに徐々に同期していたのではないか。】

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クリストフ・クラヴェールの映画を見る。最近のストローブ単独の映画についてよくわかっていなかった、たとえばジャンプカット(?)も(『コルネイユ=ブレヒト』の衣装チェンジとか)、水辺や森林のロケーションも、より面白く(B級映画的経済性の重視といっていいのか遊戯的といえばいいのか)感じながら見れた。特に朗読していると思いながら見ていると口が開いていなかったのには、その前後の屋敷周辺の散策のショットと合わせて、いくつもの人物中心じゃない風景ショットを見ながら集中力の低下している自分のぼんやりした意識が音声によって操られてしまったというか、一種の催眠状態に陥ったと気づかせてくれる。

『小さな声で囁いて』(山本英)

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熱海を舞台にした倦怠期カップル二組のバカンス映画。ロッセリーニ『イタリア旅行』、エリック・ロメールホン・サンスの諸作を当然思い出す。それら先行の作品に対するズレも含めて「よくできた宿題」に見えてしまうこともある。

前作の『回転』は、ゴルファーとクリスチャンの高齢男女が入れ替わる仕掛け以上に、日々の仕草を演じているというよりも状況と設定に何となく馴染んでフレームに収まりながら変化の予感に晒され続ける男女を楽しむ映画である。二人は夫婦でもなく隣近所の付き合いなのか一緒にお茶を飲み、こぶの話をする。

そんなカップルなのか不明の男女が『小さな声で囁いて』に引き継がれているのだと気づく。改めて初めて出会った男女みたいになる最後は美しいとも、狙い過ぎともつかない。

「回転」は『イタリア旅行』を誰もが思い出す文脈から美術館の像に対して向けられる。見学している女性からの「もしも回ったら面白いですね」に対する「回ったら芸術でもなんでもないんじゃないの」といった職員の返しから、像ではなく、像の周囲を視線が移動する。灯台のロングショットは小津『浮草』冒頭の「移動」はできず、あくまで浜辺の人物たちしか動けない。またはいくつかのピント送り(モニターから見ている女性へ、テラスから窓の内側へ)によって焦点の合った対象が入れ替わる。ポットに入れられた貝は「奇跡」か何か起こすわけでもなく、ただ観客の注意を半端に引いたまま消える。シーンごとの断絶によって複数の曖昧な答えを用意する男女の変化(もしくは変化などなく茫然と見過ごすほかないいくつか)。

『回転』の視覚効果として不要かもしれない肝心の場面が、映画史と合流して「それは回転していたのではない」と解体されてしまっているみたいに、四人の男女とも三角関係ともつかない状況でジタバタする。

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『霊的ボリシェヴィキ』(高橋洋)

トランプの切り返しが見ていて恐怖以上に痛快だった。あんな瞬間をどうやって表現するか、映画に導入するか、ずっと頭に思い描いて練習してきたに違いないと勝手に思った(実際は直前に見た映画を真似したのかもしれないが)。
死をめぐる体験を聞きながら、映画の中の人物と同じく「恐ろしい」と言っていいのかわからない。そもそも彼らが「恐ろしい」と口にする時は、本当に恐怖している時ではないかもしれない。特に韓英恵(『ピストルオペラ高橋洋とは三途の川を舞台に共演)が話している際中に、かつては「選ばれた存在」だったが歳をとり失ってしまったという白髪の女性(南谷朝子)が「恐い」などとリアクションする時、話の腰を折ろうとしているように見える(成瀬『歌行燈』あたりが元ネタじゃないかと思う)し、実際そのような人間の意識しているのかしていないのかともかく自分のために誰かの足を引っ張るような性質は高橋洋の作品に好んで登場する(『狂気の海』の浮き輪を手にした神官など)。
彼らの体験がつながっていくうちに、ブニュエルブルジョワジーの秘かな愉しみ』に出てくるエピソードが途切れていく度にモヤモヤとも薄気味悪いとも言いようのない、宙づりにされるような、そんな話の進め方とも中断の連続ともいえない映画に近く見える。勝手に『コフィン・ジョーの獣が目を覚ましちまうぜ!!!』みたいな映画を想像したが、あの作り物なのが明らかな血の鍋はサイケデリックな世界に通じるのかもしれない。にいやなおゆき監督の『人喰山』クライマックスといい、血というよりワインを沸騰させたらこうなるのかと妄想しつつ、湯気が興奮させる。
僕が単に何でもお涙頂戴に受け取るだけかもしれないが、死をめぐる体験の語り手を映したショットを見続けているうちに、自分でも不思議と泣けてくる。高橋洋文脈でいえば、何より森崎東が浮上する(パンフレットによれば死刑囚のエピソードは『生きてるうちが花なのよ』の近藤昭二から聞いたという)。映画版『美味しんぼ』の樹木希林が煮豆の話を始めたり、ヒロイン二人が布のかぶった装置を前に「カメレオンの心臓」という話をしだすあたりの、いったい何の意味だかわからないが激しい感情のこみ上げてくる連鎖に近い。彼ら彼女らの職業が伊藤洋三郎以外曖昧なのに「死」にとりつかれているという一点で、作劇の歯車に巻き込まれる。後戻りのできなさや運命、業を感じさせるあたりが泣かせるのかもしれないが、そんな話を切り離しても、画面には映されない物事を話して聞かせる(マイクを前に歌うようでもある)芝居に心動かされる。
霊的ボリシェヴィキ』の人物たちはあくまで泣かせようとして語るのではなく(そもそも森崎の人物だって泣き落としを狙っているわけではない)、「恐怖」として語る。たしかに体験した側は恐ろしかったのだろうが、あくまで恐怖体験は簡単に共感できるわけではないという地点に戻してくれる。笑い声の音声や、伊藤洋三郎のズームの途中でピントが外れるのも作り手たちの狙い通りに恐ろしいかわからない。しかしそれまで視覚化されてこなかった話が進むうちに、裸足が見えるカットにはゾッとする。単純に回想が映像化されたわけではなく、あの裸足が誰の見たものかも複数の解釈が可能になっていて、やはり見ていて宙づりにされる気分に変わりはない。さらに場の持続のためだとわかっても、長宗我部陽子から始まる笑いには、いわゆる「感情移入」をここまで拒んで見ることを求められるのも久しぶりだと思うし、高橋洋監督は一貫していると感動する。
人殺しが霊を見て怯えている時(『東海道四谷怪談』)と、私刑に参加した自らの顔が映写されて叫んでいる時(『激怒』)、人が恐怖する姿には妙に見ていて恐ろしいとも言えるし、同時にスカッとするものもある。『霊的ボリシェヴィキ』の数珠は、『エクソシスト2』を思い出すから感動したのか、先の映画の殺人者たちに通じる報いを見る快感なのか。
やはり何かに触れてしまった人たちの、「何か」を共有することはできない。恐怖の対象以上に怯える姿が映されることによって映画を先へ進めようとしていて、同時に怯える姿そのものが恐怖の映像なのかもしれない。だが映像にならなかった、見失ってしまった、去ってしまった(窓越しに去ってしまった光のようなものなのか?)、もしくはこれから訪れるかもしれない「何か」が存在している。スクリーンから向けられる眼と、「おかあさん」の声が耳に残り続ける。
(追記:高橋洋とは「早大シネ研」以来の付き合いである井川耕一郎による渡辺護監督ドキュメンタリー『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』も、一人の人物の語りを中心に、スクリーンから向けられた瞳と記憶が交錯する映画であったことを思い出す。『霊的ボリシェヴィキ』はこれまでの高橋洋監督作品の中で最も井川耕一郎と近いかもしれない。)
 
 
堀禎一監督が「中央評論287号 特集:映画の詩学」に寄稿したジャン=クロード・ルソー論『「ここに手が、ほら、顔が!」』を読み直した。
 
【「映画の詩学」を語ろうとすることは「不完全な心霊写真」を手に「幽霊の実在」を証明しようとする姿、またそれを目の当たりに動揺しながらも、その不完全さを根拠に否定しようとする姿に似ているのかもしれない。問題は、映画という得体の知れない未知のものが未知の姿のままで現実に実在し続けて来たという信じがたい事実そのものにあるような気もするが、淀川長治はかつてオリバー・ストーン監督作品『プラトーン』がテレビで放映された際、番組最後にこのようなことを言った。
 
戦死した兵士たちが泥の中に並べられています。ヘリコプターが下りて来ます。パタパタパタ。すごい風で死体に掛けてある毛布がめくれますね。怖いですね。おそろしかったですね。また次週、お会いしましょう。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ
 
この言葉を聞き茫然自失、ブラウン管の彼に笑顔で「サヨナラ」された時、ぼくは生まれて初めてはっきり「映画の詩学」なるものがこの世に歴然と「実在」していることを知った。ぼくは『プラトーン』という「不完全な心霊写真」に写った「風にめくれる毛布」を注意深く「見て」いなかった。】
 

スリー・ビルボード』。監督が北野武のファンと聞いていたせいか、牧師との切り返しあたりでピンときて、あっさり続く歯医者のシーンから『アウトレイジ』シリーズへのオマージュってやつが捧げられる。スコープサイズにおさめられた人物たちの面構えや、彼らのスラングの応酬(看板に書いてはいけない文句ばかり)、そして切り返したら目の前に現れている人(鹿に向けてフランシス・マクドーマンドがそんな感じで呼びかける)、特にトイレから出てきた元旦那の恋人なんか笑った(「シリアル頭」のくだりもいい)。
アウトレイジ』でありながら「全員悪人」の話にはしない。『アウトレイジ』での暴力の連鎖に対し、あえて道徳的な主題を設定するあたりに退屈さよりも志を感じた。どうにも肝心の火災が起きてしまった二つのシーンなど見ていると、あのシリーズの良さは「よくできた話」なんか絶対に必要としていないところなんだと、随分うるさい映画に感じる。あと絶対に釣りのシーンを見て、後半ウディ・ハレルソンじゃなくても誰かの目の突かれる、くり抜かれるんじゃないかと予感したが外れた。別に外れるのはいいけれど、その瞬間を見れるのではという恐怖さえなかったのは『新感染』の頭部破壊のなさと同じく不満だ。
そして暴行されて死んだ少女と、警察署の火災といえば、僕程度の人間でも、私刑を扱った映画になるんじゃないかという予感がする。このあたりもずらされる。そこに鶏と人間を重ね合わせる『激怒』みたいな容赦なさが足りなかったのか、あえて私刑をおこなう側と(どちらかというと)集団に溶け込めない男女の側を重ねることに志があるのか、それとも批判されるべきなのか。
最後の「あんまり」という会話は嫌いじゃない……よく考えたら『キッズ・リターン』ぽいというか、ある時期までの北野武のファン丸出しな終わりだが。
つまりフランシス・マクドーマンドには申し訳ないが、この映画のところどころコーエン兄弟への意識が好きになれないんだろうか。サム・ロックウェルの保安官バッチが出てくるところはよかった。