『霊的ボリシェヴィキ』(高橋洋)

トランプの切り返しが見ていて恐怖以上に痛快だった。あんな瞬間をどうやって表現するか、映画に導入するか、ずっと頭に思い描いて練習してきたに違いないと勝手に思った(実際は直前に見た映画を真似したのかもしれないが)。
死をめぐる体験を聞きながら、映画の中の人物と同じく「恐ろしい」と言っていいのかわからない。そもそも彼らが「恐ろしい」と口にする時は、本当に恐怖している時ではないかもしれない。特に韓英恵(『ピストルオペラ高橋洋とは三途の川を舞台に共演)が話している際中に、かつては「選ばれた存在」だったが歳をとり失ってしまったという白髪の女性(南谷朝子)が「恐い」などとリアクションする時、話の腰を折ろうとしているように見える(成瀬『歌行燈』あたりが元ネタじゃないかと思う)し、実際そのような人間の意識しているのかしていないのかともかく自分のために誰かの足を引っ張るような性質は高橋洋の作品に好んで登場する(『狂気の海』の浮き輪を手にした神官など)。
彼らの体験がつながっていくうちに、ブニュエルブルジョワジーの秘かな愉しみ』に出てくるエピソードが途切れていく度にモヤモヤとも薄気味悪いとも言いようのない、宙づりにされるような、そんな話の進め方とも中断の連続ともいえない映画に近く見える。勝手に『コフィン・ジョーの獣が目を覚ましちまうぜ!!!』みたいな映画を想像したが、あの作り物なのが明らかな血の鍋はサイケデリックな世界に通じるのかもしれない。にいやなおゆき監督の『人喰山』クライマックスといい、血というよりワインを沸騰させたらこうなるのかと妄想しつつ、湯気が興奮させる。
僕が単に何でもお涙頂戴に受け取るだけかもしれないが、死をめぐる体験の語り手を映したショットを見続けているうちに、自分でも不思議と泣けてくる。高橋洋文脈でいえば、何より森崎東が浮上する(パンフレットによれば死刑囚のエピソードは『生きてるうちが花なのよ』の近藤昭二から聞いたという)。映画版『美味しんぼ』の樹木希林が煮豆の話を始めたり、ヒロイン二人が布のかぶった装置を前に「カメレオンの心臓」という話をしだすあたりの、いったい何の意味だかわからないが激しい感情のこみ上げてくる連鎖に近い。彼ら彼女らの職業が伊藤洋三郎以外曖昧なのに「死」にとりつかれているという一点で、作劇の歯車に巻き込まれる。後戻りのできなさや運命、業を感じさせるあたりが泣かせるのかもしれないが、そんな話を切り離しても、画面には映されない物事を話して聞かせる(マイクを前に歌うようでもある)芝居に心動かされる。
霊的ボリシェヴィキ』の人物たちはあくまで泣かせようとして語るのではなく(そもそも森崎の人物だって泣き落としを狙っているわけではない)、「恐怖」として語る。たしかに体験した側は恐ろしかったのだろうが、あくまで恐怖体験は簡単に共感できるわけではないという地点に戻してくれる。笑い声の音声や、伊藤洋三郎のズームの途中でピントが外れるのも作り手たちの狙い通りに恐ろしいかわからない。しかしそれまで視覚化されてこなかった話が進むうちに、裸足が見えるカットにはゾッとする。単純に回想が映像化されたわけではなく、あの裸足が誰の見たものかも複数の解釈が可能になっていて、やはり見ていて宙づりにされる気分に変わりはない。さらに場の持続のためだとわかっても、長宗我部陽子から始まる笑いには、いわゆる「感情移入」をここまで拒んで見ることを求められるのも久しぶりだと思うし、高橋洋監督は一貫していると感動する。
人殺しが霊を見て怯えている時(『東海道四谷怪談』)と、私刑に参加した自らの顔が映写されて叫んでいる時(『激怒』)、人が恐怖する姿には妙に見ていて恐ろしいとも言えるし、同時にスカッとするものもある。『霊的ボリシェヴィキ』の数珠は、『エクソシスト2』を思い出すから感動したのか、先の映画の殺人者たちに通じる報いを見る快感なのか。
やはり何かに触れてしまった人たちの、「何か」を共有することはできない。恐怖の対象以上に怯える姿が映されることによって映画を先へ進めようとしていて、同時に怯える姿そのものが恐怖の映像なのかもしれない。だが映像にならなかった、見失ってしまった、去ってしまった(窓越しに去ってしまった光のようなものなのか?)、もしくはこれから訪れるかもしれない「何か」が存在している。スクリーンから向けられる眼と、「おかあさん」の声が耳に残り続ける。
(追記:高橋洋とは「早大シネ研」以来の付き合いである井川耕一郎による渡辺護監督ドキュメンタリー『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』も、一人の人物の語りを中心に、スクリーンから向けられた瞳と記憶が交錯する映画であったことを思い出す。『霊的ボリシェヴィキ』はこれまでの高橋洋監督作品の中で最も井川耕一郎と近いかもしれない。)
 
 
堀禎一監督が「中央評論287号 特集:映画の詩学」に寄稿したジャン=クロード・ルソー論『「ここに手が、ほら、顔が!」』を読み直した。
 
【「映画の詩学」を語ろうとすることは「不完全な心霊写真」を手に「幽霊の実在」を証明しようとする姿、またそれを目の当たりに動揺しながらも、その不完全さを根拠に否定しようとする姿に似ているのかもしれない。問題は、映画という得体の知れない未知のものが未知の姿のままで現実に実在し続けて来たという信じがたい事実そのものにあるような気もするが、淀川長治はかつてオリバー・ストーン監督作品『プラトーン』がテレビで放映された際、番組最後にこのようなことを言った。
 
戦死した兵士たちが泥の中に並べられています。ヘリコプターが下りて来ます。パタパタパタ。すごい風で死体に掛けてある毛布がめくれますね。怖いですね。おそろしかったですね。また次週、お会いしましょう。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ
 
この言葉を聞き茫然自失、ブラウン管の彼に笑顔で「サヨナラ」された時、ぼくは生まれて初めてはっきり「映画の詩学」なるものがこの世に歴然と「実在」していることを知った。ぼくは『プラトーン』という「不完全な心霊写真」に写った「風にめくれる毛布」を注意深く「見て」いなかった。】