南瓜とマヨネーズ』は『亀虫』や『シャーリー』のような連作の中・短編のようにも見えて、そこが良かった。別にリンチのように語りを断ち切っていくわけではなくて、男女が別の映画の人物になってしまったかのように変わって見える。そう書くと『ロスト・ハイウェイ』みたいだが、一人の人間が分裂するのでも、分裂した存在が一人になるのでもなく、あくまで別々の男女が存在していて、それが一つのバンドやカップルにもなる。そのバンドやカップルの組み合わせが変わるごとに映画の人物も変わっていく、というわけではない。バンドが解散するわけでも、はっきりしたカップルの別れがあるわけでもない。ただいつの間にか映画の人物は変わってしまっていて、カップルとしての継続が困難になったり、バンドとしての継続を維持していたりする。別の映画を見ていても、以前見た映画の人物が名前を変えて存在し続けているように、もしくは単純に映画同士が似通っているように、カップルもバンドも人の流れも別れも存在する。

いくつかの視線の繋がらなさや、鏡の存在や、誰が見ているわけでもないが視線と欲望に晒された足や、または再生動画や、消える音や、それらがどれもわかりやすいほどに視線を送る側と受ける側との間にあるものとして心情や愛こそ曖昧であってすれ違うと示す。ただ送る側が欲望を向けて、相手が受け取ったとして、それは金銭とコスプレの関係にもなる。体操着を身に付けた相手が吹奏楽部出身だと聞けば満たされないものが、スクール水着を用意させ、水着を着るだけじゃ満足できるお金は渡せないから、それ以上のことを要求する。そのあたりのことは頭が僕も追いつかないので、うまく書けない。ただ臼田あさ美だけでなくカップルにバンド、それぞれが相手を多少なりとも裏切る反応をする細やかさに力を入れているから刺激的だった。

しかし死んだ子どもから見つめ返されているような気がしてくる。移動中の車内において楽曲への言い合いから不意にドリルが取り出されそうな気がする。問題はそんなレコード会社へ向けたような妄想ではないのだろうが。

中川信夫『影法師捕物帖』、西部劇、ソ連映画ドイツ表現主義をワンカットごとに横断し、アラカン田沼意次に刀を突き付けては何事もなかったかのように次の場面へ移って、また田沼に説教を繰り返し、どっから屋敷へ入ってきたかわからない相方がインしてくるあたり、完全にコメディ映画と化しているけれど、たびたび決着の映されない立ち回りの繰り返しの果てに伊藤大輔へのリスペクトが炸裂するクライマックス、アラカンはきっとまた観客の見ぬ間に切り抜けてくれるに違いない。

 

北島敬三のポートレイトに引き込まれた。撮られたのがどんな人なのかどころか、撮ったのかが誰なのか、いつ撮られたのか、などなど様々な情報が一掃されて背景が見えなくなって初めて、わずか3,4点の写真が強度を発揮する。そして3、4枚のショットの間を隔てる何かがあり、写真そのものは誰のことも何も物語らないということを突き詰めた先に、写真によってしか辿り着けなかった、目に見えない世界の存在を予感する。去年のトーマス・ルフを見ておそらく初めて本気で写真を面白いと思えた。やはり写真も文章も映像も今は腐るほど溢れかえっているという事実と向き合ってこそなのだと思う。

 

レニー・ハーリンの『スキップ・トレース』、かなり良かった。初っ端の相棒が殺されるまでは「あ、これ乗り物酔いみたくなるやつだ……」と嫌な予感までしたけれど、すぐ後のドミノ式に倒れる水上家屋といい(ブラジャーが良い)、ボウラーターミネーター率いるロシアンマフィアたちに追われながらのベルトコンベアーといい、以前ほど動けないジャッキーでも、むしろそれがすごく気持ちよく見ていられるようにアクションが撮られ、繋げられていると思う(この辺を具体的に言う記憶力と語彙と、丁寧に書く努力が足りない)。
マカオと香港の登場人物を行ったり来たりしながら、いまいち整合性がとれていない気もするうちに、主要人物二人が一人の女性によって同じ空間の壁ひとつ挟んだ場所にいる。この見ている人の疑問が膨らみ過ぎないうちに話をもっていく力と早さが最高だと思う。
モンゴル着いたあたりが少々タルいとか、はっきり言って敵も味方も脇も本当にどうでもいいのばかりとか、いろいろ素直に好きになれないところはあるけれど、なんだかんだで最後まで持ってかれてしまった。ジャッキーがキートンとロイドを使っているというのを教科書レベルで何となく知っているくらいだけれど、育ちは悪くとも映画を面白くするための技能が詰まっている気がする。軽い高所恐怖症のせいか、マジで見ながら手から汗がダラダラ出てしまった(『ザ・ウォーク』以来か)。
あとジョニー・ノックスヴィルとかジャッキーの娘の強いんだかそれほど強くないんだかよくわからない加減もよかった。

 

『新感染』見た。やっぱり列車とか移動の限定された細道でのアクションとかは盛り上がる。しかし『カーズ』三作目とか『トイ・ストーリー』とか見て思った、別に良く出来た映画(伏線を回収してくれるとか、「道徳的」というか良き人間像を示してくれるとか、そりゃ遥かに『シン・ゴジラ』よりはマシで面白くても微妙な『シン・ゴジラ』臭が気になるとか)なんか本当は見たくないんだという物足りなさがある。単に文句言って批評家みたいな気分になりたいだけかもしれないが……。あと頭部破壊がないのも気になる。そりゃ銃がないなかでどう戦うって話なのかもしれないけれど、特に最後の最後がまさに頭部への狙撃を避けるだけに。「切株」という言葉は馬鹿にできない気がした。

 

ジャック・ターナー『ベルリン特急』が日本にはVHSしかないと思っていたら、いつの間にかDVDが出ていた(たいした画質ではないが問題なく見れたと思う)。感動する。たびたび出来事に対し四、五人の人物が数秒の間に立ったり座ったりしながら各々の態度を表明する時、題材がどうだろうと、見ていて一気に豊かな気分になる。誰かが極端に目立つわけではなく、彼らが別々の考えを持っているのに、同じ方向を目指さざるを得ない理由の深刻さの度合いも違うのに、彼らが協力をする。誘拐されるポール・ルーカス演じる教授が「ところがなんだ、君たちの間には信頼も友情も何もない」と、会話の流れとして何となくわかるがギョッとするタイミングで言うのだが、その声が跡を引いていると納得させることもできるが、この信頼も友情も何もないからこそいい。たぶん友情らしきものが芽生えるのだろうが、これは友情というよりも単に「情」なのかもしれない。放っておけない、無視できないというやつか。そして微妙な彼らの間の動き出す時間差がいい。正直『ジョジョ』の諸々を思い出した。彼らそのものより、間を行きかう煙草、一枚の紙が印象に残る。またはっきり言ってロバート・ライアンよりも、事態を好転させるために我が身を犠牲にして道化師に変装するドイツ人が泣かせる。

 

ツイ・ハーク西遊記2』。
初っ端から見世物小屋そのものとしか言いようのない悪夢のような世界(ホドロフスキー石井輝男かという領域)がCGの有無関係なく繰り広げられる。しかし見世物小屋商売をやっている妖怪三人組と三蔵と小人とのふざけているというか殺伐とした掛け合いから一瞬ミュージカルになるところなんか『スキップ・トレース』(好きな映画だが)や『ラ・ラ・ランド』とは格が違う。映画の歴史も香港映画の歴史も全然わかっていないが、何やらそうした蓄積が映画全体に愚劣さを装いつつ気高い三蔵のような風格を与えているのだと思う。エログロ全開になりかねない蜘蛛女たちとの糸まみれの格闘での宙づりになる三蔵とか素晴らしい。
登場する圧倒的な美女全員が人間じゃないという恐るべき状況にあって、『人魚姫』(チャウ・シンチー)のジェリー・リンの披露する踊りは(正確に書けないし思い出せないがサイレント映画期からラング『大いなる神秘』の蛇ダンス、モンテイロ『ラスト・ダイビング』のサロメにまで行き着く系譜のような……、だがそれでいうと『黒衣の刺客』と比べて見劣りしてしまうが)妖艶さと可憐さとを併せ持っていて、その後の彼女の正体をめぐる諍いを三蔵と悟空(作品全体通してのケニー・リンの殺気だった佇まいも本当に素晴らしい)が引き起こすのに十分すぎるほど十分な説得力を与えてくれるほど美しい。彼女の正体を現すことになるCGが最後の最後のギリギリまで使わないよう引っ張るあたり、幽霊譚としての気品も漂う。CG全開の闘いにあって垂直に落下するヤオ・チェンも忘れられない。
そして三蔵法師の「私は本当は頭が良い」が今までいったい何を見ていたんだと眩暈。エンドクレジット後も含めて、舞台をひっくり返されたようなところがジャッキーではなくてジェリー・ルイスみたいにも思えて、やはりとんでもない。