南瓜とマヨネーズ』は『亀虫』や『シャーリー』のような連作の中・短編のようにも見えて、そこが良かった。別にリンチのように語りを断ち切っていくわけではなくて、男女が別の映画の人物になってしまったかのように変わって見える。そう書くと『ロスト・ハイウェイ』みたいだが、一人の人間が分裂するのでも、分裂した存在が一人になるのでもなく、あくまで別々の男女が存在していて、それが一つのバンドやカップルにもなる。そのバンドやカップルの組み合わせが変わるごとに映画の人物も変わっていく、というわけではない。バンドが解散するわけでも、はっきりしたカップルの別れがあるわけでもない。ただいつの間にか映画の人物は変わってしまっていて、カップルとしての継続が困難になったり、バンドとしての継続を維持していたりする。別の映画を見ていても、以前見た映画の人物が名前を変えて存在し続けているように、もしくは単純に映画同士が似通っているように、カップルもバンドも人の流れも別れも存在する。

いくつかの視線の繋がらなさや、鏡の存在や、誰が見ているわけでもないが視線と欲望に晒された足や、または再生動画や、消える音や、それらがどれもわかりやすいほどに視線を送る側と受ける側との間にあるものとして心情や愛こそ曖昧であってすれ違うと示す。ただ送る側が欲望を向けて、相手が受け取ったとして、それは金銭とコスプレの関係にもなる。体操着を身に付けた相手が吹奏楽部出身だと聞けば満たされないものが、スクール水着を用意させ、水着を着るだけじゃ満足できるお金は渡せないから、それ以上のことを要求する。そのあたりのことは頭が僕も追いつかないので、うまく書けない。ただ臼田あさ美だけでなくカップルにバンド、それぞれが相手を多少なりとも裏切る反応をする細やかさに力を入れているから刺激的だった。

しかし死んだ子どもから見つめ返されているような気がしてくる。移動中の車内において楽曲への言い合いから不意にドリルが取り出されそうな気がする。問題はそんなレコード会社へ向けたような妄想ではないのだろうが。