『遠い明日』(監督:神代辰巳)

三浦友和の実の父(金子信雄)は無実の罪で服役中。真犯人は彼の身元引受人である若山富三郎だった。そんな事件の解決まで、神代辰巳の映画だから真っ直ぐ進むことはない。『アフリカの光』や『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』の、同じ場所をグルグル回ってどこにもたどり着けないような印象は通じる(あまり好きではなく、見直す必要があると思うが)。ただこの二本以上に、冤罪事件が題材だから重苦しいかと思っていたら、どんどん愉快に、やがてたまらなく寂しくなってくるから驚く。
三つ数えろ』や『ロンググッドバイ』のような探偵映画の傑作に近いのかもしれないが、それ以上にやはり青春映画である。お願いだから「明日」なんか来ないで、この戯れを繰り返していてくれと、死を選ぶ若山富三郎に「かぶりつく」三浦友和のように切なくなってくる。宮下順子のウザさも、地井武男の無意味さも、憐れな金子信雄の醜さも、神山繁が君臨していることも、浜村淳が死んでいることも、各々の役割が容赦なく存在する。そんな世の中の仕組みに抗うのでも諦めるのでもない。その仕組みの陰謀論めいた怪しさが探偵映画らしくもあり、学園映画らしくもあり、何より各々が役割と戯れているようにしか見えず、大変愉快でおかしい。
何かが面白味もなく終わって、あの遠かった「明日」が来てしまう予感に満ちた「今日」を繰り返してる感覚が幸せなのだ。でも、そんな「うまくやっていけそう」がいつのまにか終わるのではなく、目の前で血を流しながら若山富三郎とともに倒れる。その残酷さは強烈だ。若山富三郎になぜだか『ビューティフルドリーマー』の温泉マークもよぎったが、彼は三浦友和にとっての役割をわかっているのかいないのかともかく、彼は彼自身の地獄を生きている。停滞してほしい時間、それは笑うしかない反復であって(エンドクレジットの三浦友和)、『鍵』の全く時間を意味しない針の形でしかない時計と同じだ。現実とも人生とも異なる映画にしかない時間だ(いしだあゆみのことはうまく言葉にできず)。