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『季節の記憶(仮)』公式ホームページ

只石博紀監督『季節の記憶(仮)』。カメラを一人称の主観として用いた映像の逆を行くように、複数の人物が覗かずに持ち運び続けた映像。『食人族』『ブレアウィッチプロジェクト』『クローバーフィールド』などカメラマンの身にトラブルが降りかかってからも回され続ける映像のように、カメラは地面に置かれる。しかしカメラマンが倒れたわけではないので、再び手に取られる。カメラは上昇と不時着を頻繁に繰り返す。カットを割らなくても、視点をパスしながら行き交わせることはできるのか。
夏の写真撮影と赤ん坊、秋のモニターと演奏、冬の芝居がかったわざとらしさ、春の人々の行き交う構図。夏秋冬春の四章はそれぞれ異なる試みに挑戦している。
冒頭の『夏』篇は女性のショットから始まる。目の前に立つ彼女へ演出をつける声は、この映画のカメラとは異なる、写真撮影用のカメラとの関係に対して向けられているとわかる。彼女から見つめられていると思っていた視点から振り落とされる違和感。どうしてこの映画のカメラは仲間内で当然のように撮影され続けているのか。単純にそんなカメラのパス回しという遊びをしてみたら面白いと思ったからなんじゃないかと何となく受け入れることもできるかもしれない。少しばかり仲間の輪から距離を置いて二人だけになった男女がカメラを持って行く時はどうなのか。二人の会話はやましいものでも恋愛関係によるものでもないと告げるためにカメラは存在するのか。仲間内を行き交う誰もファインダーを覗かないカメラは、親密な時間を証明するようで、同時に彼らの間に距離を存在させるのでもあり、さらにカメラを回す彼らと、カメラ越しに見るかもしれない人々(パソコンモニターから見る作り手たち、まだ見ぬ観客たち)に対して一線を引いているのでもある。やはり他の誰に対しても見せていいものと見せたくないものがあって、侵してはならない領域があって、その空間を大事にすることで輪は成立する。そして映画は季節が夏から一周めぐって輪になる手前、『春』になって、ますますぎこちなく、初対面どころかすれ違うだけの人々の中をかき分けつつ、ジリジリと撮影は進行していく。

グスタボ・フォンタンの映画を思い出す。ある家を撮影しながら、演じられた人物たちによって画面外から囁かれる声と、断片的に切り取られたフレームによって、音声と映像から記憶を紐解くのではなく、音声と映像によって記憶らしきものを捏造していた。
一方『季節の記憶(仮)』は、映画に登場する彼らと記憶を共有できるのか、楽しげな会話に混じれるのか、同じ輪の中にいれるのか、曖昧だ。こんな30分に関係できなかったことを羨むほど嫉妬すべきものなのか。映画館に映画を見に行くよりは楽しげな30分なのか。そもそもこの輪の中にいながら誰も見れなかった視点と言えばいいのか(しかし揺れ続ける視点なんてあるのか)。
「記憶」として残すために写真撮影、マシマロ焼き、演奏、ラーメン屋へ入るのに都合の良い駐車場探し、酔ってさまよう友人の捜索、ヨガ、バスケなどがスナップ的に切り取られるのではなく、あくまで(仮)としてフレームに収まりきらないよう膨張する。カメラが誰にも覗かれないまま彼らの周囲を行き交っている間、ぼんやりと見続けると酔ってしまう不安定な映像と、ぼんやりと聞き続けることもできなくはない音声とに集中力は引き裂かれる。集中できない映像だが、はたして映像に対して集中とはどれほど向けられるのに値するのか。そもそも映像とは真っ直ぐ揺れずに目線や記憶の代わりとして存在できるのものなのか。友人たちの思い出としては保存しきれない記憶(仮)としての映像が、誰の記憶にも収まらない現在進行形の問いを突きつける。