『さいなら、BAD SAMURAI』『ウルフなシッシー』(大野大輔)

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映画を見る時間によって意識をリセットさせる。もしくは睡眠によって設けているはずの意識の休息ではなく、覚醒しながら夢を見るような(どことなく不健全な)時間。

大野大輔監督の『さいなら、BAD SAMURAI』『ウルフなシッシー』を見終わって、何か憑き物が落ちたような、自分の中のこじらせているものを洗い落としてもらったような気がした。見終わって2,3時間のうちにその爽やかさを残念ながら忘れてしまったが、それは自分が映画鑑賞をドーピングと間違えて注射して馬鹿になってしまったからだと思う。

『さいなら、BAD SAMURAI』は100万近く費用のかかった自主映画を製作したものの、そのまま費用を回収できるでもなく、受賞するでもなく、次回作を撮れるでもなく、偏屈になって愚痴をこぼし続ける男を監督自ら演じる、私小説的な、もしくは自虐的な映画。別段、目新しい試みではない。しかしおかしいのは冒頭30分近く続く問題の監督作『BAD SAMURAI』の抜粋であって、中身は(事実なら「アダルト作品はNGだ」という女優側の訴えによって「唯一映画々々しているパート」を削られてしまったのが原因かもしれないが)ただただ監督本人演じる男が次々と女を犯し続ける。座頭市のパロディみたいなシーンは好きだし、寝たきりの男との三回ほど繰り返される切り返しのナンセンスさには笑ってしまったが、監督自ら脱いで演じるセックスシーンの連続を見ているうちに気が滅入ってくる(もしくは気が遠くなる)。エロ映画として売るつもりだったからかはわからない。もしかすると屈折したオタク的な欲望からジョー・ダマトや『スナッフ』の世界を目指したのかもしれないが(そしてそんな映画たちに確かに似通った負のオーラを放っているが)、わざと下手な出来を装ったもの、もしくは学生時代の荒削りの映画を見せられているのとは違う魅力がある。劇中での『BAD SAMURAI』上映が終わってからも、監督自ら露出してのホテトル嬢を呼んでのベッドシーンが何度か挟まれる。それは監督の実生活に由来するものかもしれないが、『BAD SAMURAI』の弛緩したシーンが次々と始まっては断ち切れていくというリズムを崩さず持続させている。そして見たくもない映画の抜粋と代わって、あまり目の前の相手から楽しんで聞きたくはない愚痴が入ってくる。「さいなら」という題をつけるように『BAD SAMURAI』へ別れを告げるための映画と呼べばいいのかもしれないが、『BAD SAMURAI the return』とも言いたくなるような、存在自体知らなかった『BAD SAMURAI』という映画が帰ってきたのだと言われている気がする。大野大輔監督が2017年ベストにあげる『ツイン・ピークス the return』とは『さいなら、ツイン・ピークス』なのだと解釈したくなる。

『さいなら~』劇中での『BAD SAMURAI』が切られるタイミングは次作『ウルフなシッシー』のオーディション場面や、AVの撮影や、不釣り合いなのかお似合いなのかわからないカップルの回想へ、何より映画の大半を占める愚痴の数々へ引き継がれる。そして『ウルフなシッシー』は芝居のリズムに『さいなら~』と同じく気を配りつつ、『BAD SAMURAI』の終わりの見えない時間へ、今度は肌を晒すことなく、しかし飲酒によって再挑戦する。女優との肉体的な絡みではなく、愚痴のこぼし合いによって。そんな夜そのものは、何か答えが出たような錯覚だけ残して、映画がいつかは終わるように呆気なく明けてしまう。『フューリー』のデ・パルマとカサヴェテスが一緒にいたことを思い出すような後味。

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2017年、とにかく自分の中に残った映画として
ツインピークス リターン』
西遊記2 妖怪の逆襲
アウトレイジ 最終章
『ファンタスティック・ライムズ!』(『LOCO DD』大工原正樹)
『夏の娘たち ひめごと』

同時に他の人と全部被っているようなものだが、真っ当な選択として
20センチュリー・ウーマン
『ローガン』
希望のかなた
『ラビング』
『ミス・ペレグリン
散歩する侵略者
『ライフ・ゴーズ・オン』
『ゲットアウト』
『潜熱』
という具合にしたいのだが。
どっちが素直に好きなものなのか、他人様の目を気にして選んでいるのか、相変わらず真似してしまっているのか、よくわからなくなってきた。

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堀禎一監督の『夏の娘たち』は『天竜区』における映画製作が反映された劇映画であって、これまで見たことのない映画を見ていると興奮した。デヴィット・リンチの『ツイン・ピークス The return』にも『インランド・エンパイア』その他の作品(どう名付けるべきか言葉にできない)が反映されていた。堀禎一監督の『天竜区』における試行錯誤(なんて言葉を僕が使うことは許されるのだろうか)が『インランド・エンパイア』と比べられるわけがない。むしろ『インランド・エンパイア』には可能性らしいものはなく、映画監督に戻ることはないとしか思えなかった。映画監督としては死んだと思った人間が『ツイン・ピークス』の続き(として求められている作品)を撮る。絶対に無理だろうと期待していなかった。しかし信じられないことに『ツイン・ピークス The return』は作り上げられた。しかも『インランド・エンパイア』のように何も新たなものなど期待できない搾りかすのような画面の気配を残したまま。
新作が『ツイン・ピークス』の続きということは、リンチからもう新しい劇映画を語ろうという欲望はなくなってしまったのかもしれない。しかし25年前を知らないとよくわからないとか、話の全体像がよくわからないとか、そんな見る側も作る側も記憶がはっきりしない輪郭の中で、リンチの物語は弾け飛ぶ。これまでになく何かを語ろうという意思があるのかないのか不明のシーンが始まっては途切れて、複数の空間を行き来する。ファンを味方につけて自らを守る、せこい作戦かもしれないが、しかし何から始まって、何をもって終わるのかもわからない、この作品に本当に付き合いきれる人間などいるのだろうか(その自堕落な日々こそファンのファンたる所以かもしれないが)。何が思い出されたように回収されて、何が答えを出す気がなかったかのように捨てられるか、見る側の集中力をはぐらかして驚かすための演出以上の、先の見えなさがある。ただ単純に本作の雲や霧の中を抜けようとする映像のような語りといってしまえばいいのだろうか(行儀良すぎるか)。同時にリンチには、いま映っているもの以上を語ろうという欲望は失われていず、その答えへ映像が追い付けなくても、17話冒頭のようにリンチ自らが長い説明台詞でもって語ってしまってでもいい、むしろちょうどいいくらいかもしれない。
役者への眼差しが関係しているのか。本作の25年の時を経た役者たちと、それ以外の前作にはいたのかいなかったのか(それどころか本シーズンの第何話に出てきたのかわすれそうになるくらい)よくわからない人物たちにも向けたドキュメントのような視点は、少しトッド・ソロンズのような悪趣味さがなくはない。しかしそんなことより感動するのは、前シーズンよりも役者としてのデヴィット・リンチが本作のトーンを一貫させていることだった。彼が自らを画面に放り込んでいなかったら、本作は成り立たなかったかもしれない。

 

2017年の大工原正樹監督作品『ファンタスティック・ライムズ!』『やす焦がし』は新しい境地を切り拓いていた。
演出・脚本ともに大工原正樹監督にしか撮れない映画であって、同時に『ジョギング渡り鳥』『ゾンからのメッセージ』など近年の鈴木卓爾監督作品における撮影・照明・録音スタッフが参加しながら、その製作方法を一部分引き継いだということだと思う。タイトな現場になればなるほど、そのジャンルの作品(アイドル映画だとか)が必要としている予算を満たしていないような画面の中で、ドキュメンタリーとドラマを行き来しようが、いきなりきつね憑きの話が始まろうが、テンションは断ち切らずに持続され高まっていき、映っている男女が芝居をしている、踊っていることに生々しさが増していく。映画となったライブに本番もリハーサルもない。公園だろうがステージだろうが、パフォーマンスはそれぞれ一回限りの、その場でしか見られなかった輝きを獲得する。いわゆる「ドッキリ」のような演出まで多幸感に満ちている。どちらも冬に撮られただろう作品だが、空気の寒さを画面に呼び込み、男女の求める熱が上昇して、芝居と物語の密度を増す。
そして何より30~40分という尺の短さが軽くて、タイトで、見やすい。この時間が男女の感情が高まって、駆け抜けていくまでを無理なく引き延ばし過ぎず、縛りを感じさせない。

 

 

『ツバメ号とシジュウカラ号』

 

アンドレ・アントワーヌの『ツバメ号シジュウカラ号』、6時間のラッシュは見つかり監督自身の指示書はあった、一度は試写も行われた可能性がある、しかし当時は完成まで辿り着かなかった映画。おそらく古びることをまだ知らない映画。「リアリズム演劇」の演出家による映画に対して周囲の向けた、当時の「あまりに記録映画的すぎる」といった意味の見解も、おそらく間違っていない。たとえば今年ようやく公開される『季節の記憶』(仮)や、家の歴史をめぐる風景を切り取ったドキュメンタリーかと思いきや役者たちによって演じられていたグスタボ・フォンタンの映画や、大工原正樹の『ファンタスティック・ライムズ!』での彼女たちから引き出された芝居の力が監督による演出の入っていないはずのライブシーンにさえ響いて見える迫力や、陸前高田の人々による朗読が劇映画とドキュメンタリー映画の垣根など無意味にする小森はるか+瀬尾夏美『にじむ風景/声の辿り』と比べても、いまだに新たな映画の可能性として存在していると思う(あげた名前がほとんど日本映画のため偏っている自分に語る資格はないかもしれないが)。
船の上から撮られた景色の数々は、横移動を繰り返すステージでもある。通行人と動物たちがカメラ以上に船を見て立っているような光景が過剰になれば、セルゲイ・ロズニツァの撮った通行人たちのようになると思う。ラッシュの6時間のままなら、どれだけ船上の移動ショットを繰り返し見れたのかと気になってくる。テーブルを囲んで視線を交わし合う男女のシーンを見ると、横移動の数々はもしかすると清水宏に近いのかもしれない。
製作から時を経て、字幕は映像の説明に過ぎなくなってしまっているかもしれない。しかし序盤ほど字幕が語るエピソードと、映像が捉える役者たちも参加した作業の数々の間の微妙に生じる距離が、とても野心的に思える。「記録映画的すぎる」本作は犯罪映画として見ようとしたら、船の作業に従事する役者たちに対して距離を感じて、そこが滅法面白い。そのズレはロッセリーニの映画と別の価値を見出せると思う。それでいて不意にポートレイト的な印象を受けるくらいのアップもあって、あまりに現代の映画として編集されてしまったのかもしれないが、この生々しさが完成させられなかった映画の記録と化しているとも思う。
そして水中に隠されたダイヤモンドをめぐって、逆に人物の欲望が暴かれる。闇をバックにした酒場も、唐突に始まる女性の着替えも、(アントワーヌの演出した舞台の筋については知らないが)おそらく演劇におけるリアリストとしての本領が発揮されていると思う。そして夜になって本性を露わにした男は争いの結果、水に沈められる。ラストの字幕と川と、そして幕切れ。映画は何年経っても、人間の感情も欲望も断ち切るように存在し続ける。マリオ・バーヴァ『血みどろの入江』や、昨年亡くなったウリ・ロメルの『Prozzie』のことも思い出す。川は無数の死者の沈む物語の装置でいながら、まるで独立するように流れていた。

『やす焦がし』(大工原正樹)

https://aoyama-theater.jp/pg/3465

大工原正樹監督『やす焦がし』、またしても女二人男二人の映画だった。女二人の踊りもある。そして勘違い男が情緒不安定な女と出会って恋に落ちる映画だと思って見ていると(実際そんな話でもあるが)、それぞれに異なるパートナーが登場して(既に存在していて)、明らかに結ばれるわけのない男女の恋愛を結ばれないままハッピーエンドに見せてしまう。母の死のショックから「きつね憑き」になったという女に向けて男は「真っ直ぐに俺を見るんだ!」と目を覚まさせようとする。その一声によって彼と彼女の関係そのものは感動的に結ばれるどころか、逆に別の男女を呼び寄せて明らかに別れさせる。しかし話がこじれてわけがわからなくなってくるほど、むしろ役者たちは真っ直ぐにこちらを見つめてくる。『ジョギング渡り鳥』撮影・音響コンビが『ファンタスティック・ライムズ!』に続き、役者たちと見つめ合っているよう距離を縮めてくれる
彼女はもう一人の男を最初から選んでいて、あなたは勘違いしているご近所さんなんだと言う。それならどうしてご近所さんが別の女に連れられて消えてしまってから、耳が聞こえなくなるほどのショックを受けたのか(本当に聞こえなかったのか)。旦那になる男が彼女を気遣ってみせる微妙な身振り手振りは滑稽だけれど愛しく、彼にそんなことをさせながら何もかも聞こえてるようにしか見えない彼女には感動する。きつねによって、男たちは旦那とご近所さんの役割を入れ替えてしまったのかもしれない。しかし関係のねじれが映画にとって混乱を招くのではなく、あくまで「結ばれない」ということが互いの何かを瞬間的で、邪かもしれないが一時だけでも疑いようのないものにさせるから素晴らしい。

 

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『季節の記憶(仮)』公式ホームページ

只石博紀監督『季節の記憶(仮)』。カメラを一人称の主観として用いた映像の逆を行くように、複数の人物が覗かずに持ち運び続けた映像。『食人族』『ブレアウィッチプロジェクト』『クローバーフィールド』などカメラマンの身にトラブルが降りかかってからも回され続ける映像のように、カメラは地面に置かれる。しかしカメラマンが倒れたわけではないので、再び手に取られる。カメラは上昇と不時着を頻繁に繰り返す。カットを割らなくても、視点をパスしながら行き交わせることはできるのか。
夏の写真撮影と赤ん坊、秋のモニターと演奏、冬の芝居がかったわざとらしさ、春の人々の行き交う構図。夏秋冬春の四章はそれぞれ異なる試みに挑戦している。
冒頭の『夏』篇は女性のショットから始まる。目の前に立つ彼女へ演出をつける声は、この映画のカメラとは異なる、写真撮影用のカメラとの関係に対して向けられているとわかる。彼女から見つめられていると思っていた視点から振り落とされる違和感。どうしてこの映画のカメラは仲間内で当然のように撮影され続けているのか。単純にそんなカメラのパス回しという遊びをしてみたら面白いと思ったからなんじゃないかと何となく受け入れることもできるかもしれない。少しばかり仲間の輪から距離を置いて二人だけになった男女がカメラを持って行く時はどうなのか。二人の会話はやましいものでも恋愛関係によるものでもないと告げるためにカメラは存在するのか。仲間内を行き交う誰もファインダーを覗かないカメラは、親密な時間を証明するようで、同時に彼らの間に距離を存在させるのでもあり、さらにカメラを回す彼らと、カメラ越しに見るかもしれない人々(パソコンモニターから見る作り手たち、まだ見ぬ観客たち)に対して一線を引いているのでもある。やはり他の誰に対しても見せていいものと見せたくないものがあって、侵してはならない領域があって、その空間を大事にすることで輪は成立する。そして映画は季節が夏から一周めぐって輪になる手前、『春』になって、ますますぎこちなく、初対面どころかすれ違うだけの人々の中をかき分けつつ、ジリジリと撮影は進行していく。

グスタボ・フォンタンの映画を思い出す。ある家を撮影しながら、演じられた人物たちによって画面外から囁かれる声と、断片的に切り取られたフレームによって、音声と映像から記憶を紐解くのではなく、音声と映像によって記憶らしきものを捏造していた。
一方『季節の記憶(仮)』は、映画に登場する彼らと記憶を共有できるのか、楽しげな会話に混じれるのか、同じ輪の中にいれるのか、曖昧だ。こんな30分に関係できなかったことを羨むほど嫉妬すべきものなのか。映画館に映画を見に行くよりは楽しげな30分なのか。そもそもこの輪の中にいながら誰も見れなかった視点と言えばいいのか(しかし揺れ続ける視点なんてあるのか)。
「記憶」として残すために写真撮影、マシマロ焼き、演奏、ラーメン屋へ入るのに都合の良い駐車場探し、酔ってさまよう友人の捜索、ヨガ、バスケなどがスナップ的に切り取られるのではなく、あくまで(仮)としてフレームに収まりきらないよう膨張する。カメラが誰にも覗かれないまま彼らの周囲を行き交っている間、ぼんやりと見続けると酔ってしまう不安定な映像と、ぼんやりと聞き続けることもできなくはない音声とに集中力は引き裂かれる。集中できない映像だが、はたして映像に対して集中とはどれほど向けられるのに値するのか。そもそも映像とは真っ直ぐ揺れずに目線や記憶の代わりとして存在できるのものなのか。友人たちの思い出としては保存しきれない記憶(仮)としての映像が、誰の記憶にも収まらない現在進行形の問いを突きつける。