朝から仕事のことで怒られ、PFFを見にフィルムセンターへ行けば、思ったより殺伐とした光景を見てしまい、この場所には悪い気が漂っているんじゃないかと思う。

 

『帰って来た珈琲隊長』(佐々木健太)は物語上の虚構性よりも、役者が演じきれないかもしれない役柄を演じ、作り手が語り切れないことを語ろうとしていていることを撮った映画だと思った。綻びを生じさせているところが面白かったと思う。ソファに置かれたかのようにカメラの傾いているところなど、ますます効いていると思う。

二人の会話に登場する「丸太」の女が、携帯電話越しのはずがフラットな音で聞こえてくる彼女の声とともに、偶然その場にやってきてしまったように姿を現す(音のズレは室外から響いているらしき子どもたちの歌や、ラストカットまで響いていく)。外気に晒され彼女の髪がわずかに揺れる。この密室で交わされる二つの話、どこか芝居の稽古にも見える「珈琲隊長」と松葉杖の男の会話と、その後始まる男女のいざこざとの合間に挟まれた、どちらにも属してないかもしれない時間がいい。こうした二つの劇のどちらでもない瞬間として、猫の顔のアップなど挟まれる。

特に「丸太」と松葉杖の切り返し、彼女が鏡を反射させた光を当てることに始まり、鏡の傍に立っているショットまで持続する、二つの劇の時制が滲み合うシーンで、役者たちの映画の顔になっていく過程に引き込まれる。

やや軽薄に「コッカ」という言葉が交わされ、彼女の歩く後ろ姿は外へ出ていくのかと思いきや、ただ室内の別の空間へ移動している。室内に射す光と風以外は、音さえも、外から聞こえてくるようで本当はどうだか疑わしい。四人の登場人物たちのうち、三人は外からやってきたのだという。そしてここから出る選択肢を自ら放棄している。名前を出すべきではないかもしれないが、『絞死刑』の「この外が国家だ」が見ていて観念などではなく訴えてくる「外」は、どこか想像させないようにしている。

 

『いさなとり』(藤川史人)は良い映画とか素晴らしいとか言っていいのかわからないけれど、監督が老いることなく透明になっていくようだった(ただ編集に作家の存在ははっきり感じる)。三人いる少年の一人は声変わりの時期なのか、一人だけ年長のようで、三人以外の誰か(それこそもしかすると監督)が語り掛けているのかと思った。その声の違う彼が東京へ行くという話を博物館?でする。三人組というバランスが傾いてから(わりとすぐに三人は再び遊びに行くのだが)、何度も目にするもの、耳にするものに泣きそうになった。そして映画は誰かのものでなく、あの場にいたみんなのものになっていったように見える。祖父の見舞いに行った後、日が沈んでから橋にたたずむ少年を見て、物語の人物としての彼への感情が一気にこみあげてきた。ラストカットに震える。