『ひかりの歌』

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第一章に『牯嶺街少年殺人事件(A Brighter Summer Day)』の「この世界は僕が照らしてみせる」という言葉(自転車に乗った後姿もエドワード・ヤンから切り離せないのだろう)、第二章のジョギングする女性の足、『緑の光線』の選ばなかった男達のことがどうしてもよぎる。ここまではやはり闇の中で泣く女性の映画という印象で、闇から照らそうとする光ほどしか(男性は)女性の輪郭を掴めない。第二章に緑の光が浮かんでも、それは彼女の輪郭をぼんやりと包みながら、むしろ彼女にとって逃れることを望んでいるネオンに見え、闇の中をもがくようにも、そこで声を上げ続けることを望んでいるようにも見える(というよりも彼女のことは見えなくなる)。
第三章になり、うどん屋とライブハウスから雪の小樽へ舞台が移って、女性を照らす光の映画としては色彩豊かにも見えて、特に笠島智が歌手として立つ時、夜明けの船上で風に吹かれる時、電車に乗って窓を見ながら口ずさむ時、どれも顔も声も違う。男性が修理中のカメラは光らない。終盤、彼女は光の中から現れる。厨房には男性がいて、並んでうどんを食べる相手は女性だ。
第四章は夫婦の話になるが、一見すると最も視界から闇を奪われたエピソードであって、同時に夫の松本勝が突然登場したように、次のカットから急に消えてしまうのではないかという妻の並木愛枝の不安も闇が少ないからこそよぎる(彼が店番をする書店に飾られた『PORTRAITS』の黒い肌が気になる)。ここでは二人が光に照らされる写真撮影以上に、運転中の夫婦に後部座席から影を見ることのできたシーンが充実する。「許してあげないほうが」という妻の台詞が、闇の中へ沈むこともできない男女にとって必要な影に思える。夫を演じる松本勝が『ひかりの歌』の他の男たちと何かが違うと強調されるわけではないが(第二章の「キモい」バイカー、ハグして別れる同僚、下ネタ交えて歌うミュージシャンが各々違うように)、それでも最初は刑務所から出てきた設定かと勘違いしたが(自動車事故でもあったのかと思った)、映画の女たちと並んで照らされ、闇をまとう存在になるとワケありな佇まいになるのか。

2018年新作ベスト

蝶の眠り』(チョン・ジェウン
犬ヶ島』(ウェス・アンダーソン
『草の葉』『それから』(ホン・サンス)※『川沿いのホテル』は見逃した。
『いかにしてフェルナンドはポルトガルを救ったか』(ウジェーヌ・グリーン
フィフティ・シェイズ・フリード』(ジェームズ・フォーリー
レディ・プレイヤー1』(スティーブン・スピルバーグ
15時17分、パリ行き』(クリント・イーストウッド
つかのまの愛人』(フィリップ・ガレル
『女と男の観覧車』 (ウディ・アレン)

蝶の眠り』序盤の女子マラソンとか、結構くだらないギャグから助走をつけていって一時間くらいしてからの、神社デートから涙が止まらなかった。キム・ジェウクがとにかく良かったのに比べて中山美穂はじめ他の役者に関しては誰が良かったとか言いにくいけれど、どの人も気にならなくなる。『マディソン郡の橋』みたいな別れも素晴らしかった。
ホン・サンスは『川沿いのホテル』を見逃したが、特にこの二本からどちらかは選べない(『正しい日 間違えた日』は2016年のTIFFで見たから何となく外してしまった)。『それから』の、これ以上登場人物の誰にとっても何も語る言葉は出て来ないという締めくくりが凄まじい。『草の葉』はまるで人生において最後に思い出せるいくつかはこんなことじゃないかという映画だった。
犬ヶ島』は(最近山下耕作を見ながら思ったことだが)単純な分け方かもしれないが、同時代の他の映画を積極的に取り込み続ける作家と、何らかの原点を求めるように映画を撮る作家がいるとして(本当に分けていいのか怪しい)『犬ヶ島』はホン・サンスやガレル(『つかの間の愛人』よりは『現像液』だが)と並んで後者の映画だと思う。『博奕打ち いのち札』のラストと共に悪夢から醒めるか、それとも見られなかった美しい夢想へ逃避するのか、どちらとも取れるような映画であって何か重なるように(勝手に)感じる。犬を毒殺できるならば次は人間を殺すのだという現実を予知する悪夢と、子どもたちが阻止する美しい夢想の合間を、神社で眠る犬に(やはり勝手に)感じる。単なる印象だが、ほぼ同じことを『15時17分、パリ行き』にも(やっぱり)感じる。少年時代に泣く。
フィフティ・シェイズ・フリード』は大半は集中できなかったが拳銃と誘拐事件からは何度か見返す必要ある。シリーズを締めくくる台詞が良かった。
ウジェーヌ・グリーンの『いかにしてフェルナンド~』は映画祭関連で見た新作の中では(ホン・サンス除いて)素直に面白かった一本。
『女と男の観覧車』見ながら「映画とは火遊び」という言葉が思い浮かんだ。

『奈落』(監督:高橋洋 脚本:郷淳子)

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少しだけ映画美学校映画祭。万田邦敏監督作は見逃す。

高橋洋監督『奈落』は演習だから映画美学校内で撮影されて当たり前だろうけれど、舞台上での場面転換のように背景のイントレが移動して、男がスタジオ内を歩いて彼の自室とされたベッドの空間へ進んだ後、幽霊の現れる展開に痺れる。溝口『雨月物語』を参照しているのだろうけれど、『狂気の海』や『霊的ボリシェヴィキ』と並んで(赤坂太輔氏の言う)「上演の映画」の探求の一つかもしれない。

『奈落』は「泣ける映画」の設定に挑戦している。2007年のSTUDIOVOICE378号にて「いま、真に泣ける映画とは何か?」というテーマでの高橋洋井土紀州両氏の対談から引用する。「サークの『悲しみは空の彼方に』なんかの絶対泣けるラストの設定があるじゃないですか。今までひた隠しにしてた自分の正体を吐露してしまうことを承知で駆けつける、みたいな。これは泣ける作劇ではあるんですけど、今それを設定だけ模倣して泣けるかって言うと、難しい。既成の物語枠の中で人物が動かされているだけ、という風になりかねない。人間から物語が立ち上がると同時に、その人間の行動に外側から襲いかかって来る物語がある、作劇というのは単に設定というだけではなく、そういううねりを作り出すことだと思いますね。」「うねりを作り出すこと」が演出家としての高橋洋の挑戦という解釈は安易かもしれないが、10年以上前の記事で最も印象深いフレーズだ。

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「あの世」をめぐって、恐怖する人々についての映画が『霊的ボリシェヴィキ』だとすれば、『奈落』は涙がキーになる。幽霊の登場が「泣かせる」として、なぜ泣けるのか。まるで映画での涙の機能について受講生の脚本を通して探求するきっかけになるような(それでいて涙も乾くような展開へ行き着く)興味深い一本だった。

「泣いているの?」、そう聞かれた時に本当に男は泣いていたのか、宙づりにされる。人前では涙を見せるように思えない男の佇まいが素晴らしくて、女二人と違って台詞を奪われたような(良くも悪くも後輩の女学生による「○○さんの時計だ」という台詞が幽霊の登場をわざとらしく告げる)、吸わない煙草を咥えた彼の感情の読めなさが何より良かった。幽霊以上に、彼への演出に賭けられた映画かもしれない。涙を画面にはっきり映すより得られる効果があって、幽霊との会話へストレートに感動しつつ、一つの解釈を許さない。

「死ぬ価値のある人間になりたい」、死んでからも誰かの記憶に残り続け惜しまれる人物になりたいと話してから本当にこの世を去ってしまった元恋人の霊が姿を現す。彼女からの成人祝いの目覚まし時計は、私のことを思い出してくれるために毎日見るモノとしてプレゼントされた。いかにも男は彼女を失ってから停まった時間を生きているようだが、いざ目覚まし時計をベッドへ向ける時、彼女の願いと男の行動は決定的にすれ違ったようにも見える。おそらく「奈落」というタイトル通り、死んでしまった彼女の向かう先は闇だ。時計のラストショットが『霊的ボリシェヴィキ』の眼と呼応する。「死ぬ価値」とは何だったのか。

水下暢也『忘失について』

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水下暢也『忘失について』を買って、自分にはこんなに読めない漢字、意味を知らない単語が多いのかと驚く(大変失礼ながら作者の名前さえ最初は読めなかった)。現代詩手帖朝日新聞に掲載された作品を読もうとした時も漢字にぶつかった。それでも『忘失について』は別に読みにくくない。帯に書いてある言葉に読めない漢字は何一つない。そもそも読めない漢字、知らない言葉も躓くなら辞書を引けばいいんだろう。文字が頭の中で画になって浮かぶのを漢字が阻むのではない。むしろ「頭の中に思い浮かぶことさえできない画」、僕の貧しい体験がまだイメージできない「不可視」、あの映画や絵画を見る度に感じる「驚き」「不意打ち」を喰らうために、漢字が登場し、道を指し示す。それともタイトルにあるように、まだ見ぬではなく、忘れてしまったこともしれない。二度目三度目に見た映画の覚えていなかったカットに驚くことに近いのだろうか。

『狙撃者の灰色』というタイトルに惹かれて読んだ、やはりこれも3ページしかない短い作品であっても緊張感ある場面、家に入り込んだ誰かと、家にいた誰かとの出会いが、最後には不安とユーモアの入り混じった少年のアクションによって締めくくられる。映画で見たような緊張、アクション、サスペンスの1カット先の不意打ちとして、非凡な傑作でしか味わえないような時が待っている。

『草の葉』(ホン・サンス)

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フィルメックスに間に合いホン・サンス『草の葉』だけとりあえず。終盤のキム・ミニによるモノローグを聞くと、このカフェにいて盗み聞き(見)た人々の会話の数々が、わりと本気でプルーストの社交生活への視線と通じるんじゃないかと思った(まともに読んでないくせにかっこつけたいだけだが)。またはベルンハルトの、たとえば『私がもらった文学賞』や、クリスチャン・ルパ演出の舞台になった『伐採』のディスっているレベルの辛辣さをもって描写される作家たちが段落の変わった途端に愛すべき(ということでいい?)記憶と化すのに近いんだろうか。カフェの裏側でコスプレして記念とも言い難い撮影を繰り返すカップル、そもそもそんな背景の壁となるカフェ、何となく原宿のようだった。盗み聞きできるくらいの声の大きさ、アップルのノートパソコン、すべてが「スノッブ」なのかもしれない。しかし誰もいない静止画になってから、まるで貴族の時代の終わりでも語った映画のように、時間が一気に飛んだように感じる(それからの短い時間が感動的なんだけれど、とりあえず省く)。

まともにプルーストを読んでいないくせに、短いというだけでジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』は先に読んでしまった。『収容所のプルースト』にて語られる『失われた時を求めて』の描かれる、いくつもの「むなしさ」。自らの余命を知ってしまったスワンが、しかしそれを告白しようとした公爵とその夫人からは晩餐会の時間が迫っているのを理由に「ご冗談でしょう?」「大丈夫、元気そうだ」としか返せず、その場を夫妻は去ってしまうが、移動中に妻の靴が服の色と合わないことに気づけば、15分間遅刻してでも靴を替える方を選ぶ。「社交生活のむなしさ」。その「むなしさ」が社交生活とほど遠い収容所にて語られる。たかがブログだからこのくらいで安直に自分の中で結びつけてしまうけれど、ホン・サンスの映画が短編集のように編み込むやり取りも、いずれ誰かの死と近づく時に語られるかもしれない(Twitterの感想を読むとみんな本作と次作『川沿いのホテル』から強い死の匂いを嗅ぎ取っている)。

また訳者解説(岩津航)にて触れられる「収容所へ持って行く一冊を選ぶとしたら」という問いが喚起する「無人島に持って行く一冊」とは別種の胸騒ぎ。引用すると「あるいはその問い自体が無効になるかもしれない。政治的な理由で収容所送りになった場合、どんな本でも読めるわけではないからだ。さらに言えば、たった一冊の本さえ許されないかもしれない。ではどんな書物にも触れることができないとき、人は自分を支えてくれる言葉を失ってしまうのだろうか。そんなことはない。それまでに読んだ本の記憶のすべてが支えてくれるはずだ。問題は、その記憶をたどり、現在と結びつけ、あるいは現在と切り離しながら、収容所のなかで生きた言葉につくりかえていくことにある。」「プルーストの文学にはスノッブな匂いがつきまとう。定職に就くこともなく小説を書こうとして一生を過ごしたブルジョワ男性の物語であり、しかも社交界や恋愛が主題である。こんな小説を収容所で思い出したとしても、せいぜい安逸な日々へのノスタルジーをかきたてるだけではないか、と思われるかもしれない。しかしチャプスキの講義は、そのようなものではなかった。むしろ、社交界の華やかな話題に終始していると思われがちなプルーストが、実際には誰よりも冷静に、そして孤独に現実を直視していたことを思い出す機会となったのである。」

はたしてホン・サンスを収容所にいながら思い出せないかもしれない。ただ『草の葉』を見ながら、もっと個人的な事情からだとしても、誰かが映画を見ることができなくなり手放さざるを得なくなった時が来て、彼らの記憶に残るのはこれだといういくつかに思えた。食器の立てる音が仏様を呼び出してしまったような影の使い方から、ひどく美しく人々の横顔を捉えた瞬間の数々へ、ほとんどあざといくらい平然と変わる。バカバカしいくらい誰の耳にも聞き覚えのある、もはや「BGM」と呼ばれるしかなさそうな「クラシック」たちは、会話の声と曖昧にぶつかり、やがて窓の向こう側の様々な物音や、他所から聞こえてくる歌へ替わっていて、また飲みの席においてさらに聞き覚えのある曲になって帰ってきて、むしろ煽ってきてくるくらいだ。この場にキム・ミニの切り返される顔はちょっとやり過ぎなんじゃないかと思ったけれど、弟にいきなりキレるところがおかしくてどうでもよくなる。



『憐 Ren』

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中央評論 270

 

 

『憐』を見直して、「中央評論」270号「特集:日本映画」掲載、堀禎一小津安二郎監督の『技術』入門編」に「待ちポジ」の話が出てきたことを思い出した。

 

そして小津監督がことあるごとに好きな映画監督として挙げる名前にジョン・フォード監督がある。 (略) フォード監督と小津監督が好んで描く共通した題材に「報われることのない恋愛」というテーマがある。『秋刀魚の味』で岩下志麻が結婚したいくらい好きな相手は、ゴルフクラブを売りつけにくる兄の会社の後輩、「三浦」である。 (略) 『荒野の決闘』で女性教師が好きだったのはドク・ホリデーである。「恋愛」は「情熱」である。しかし両監督ともその「情熱」を無条件で良しとはしない。そして、「職人」であるふたりは共に「待ちポジ」(役者が画面にフレーム・インしてくる際、カメラを動かさず、そのままのポジションで「待っている」ところから付けられたと思われる呼称。通常はまずい技術として忌み嫌われる)と言われる「技術」の名手である。ふたりの「待ちポジ」は、それぞれの方法で、いわゆる「待ちポジ」ではないのだが、この話は長くなる。またの機会にしたいと思う。今はただふたりの映画の物語上のモチーフに重要な共通点があると指摘するにとどめる。

 

小津・フォードはどちらも「待ちポジ」の名手だけれど、「ふたりの『待ちポジ』は、それぞれの方法で、いわゆる『待ちポジ』ではない」と続いて、謎をかけられたような気分にもなる。結局「待ちポジ」の話の続きは読めず終いだったと思う(どこかに書かれているのを読んでないか忘れてしまっていたらごめんなさい)。「技術」とカッコに括っているのが、当然「入門編」の忘れてはいけない点だとは伝わる(それでも『妄想少女オタク系』の阿部みたく「それってどういうこと?」と千葉に聞いて「わかんねえだろうな」と返されて終わりかもしれないが)。

秋刀魚の味』の「報われない恋愛」の一つ、岩下志麻吉田輝雄の駅でのシーンについて書かれている。

 

「撮影する側」は「路子」と「三浦」が結ばれないことを知っている。だから東急池上線「石川台」という、今も現存する、少し「高台」にある駅で撮影されたであろう岩下志麻吉田輝雄のくだりは確かに何気ない言葉のやりとりがふたりの間でなされるだけの短いシーンだが、お互いに好意をもちあいながらも決して情熱的には結ばれることのない目線の関係が、厳しくも美しいリリシズムの原理にしたがって撮影されている。ふたりがホームに入ってきた電車にふと目をやる時、ふっとそれまでの緊張がほんのわずかに緩み、ふたりはもしかしたら将来結ばれるのではなかろうかと思うその時、そのシーンのラストカット、カメラはさらりとロングでふたりの背に入る。ふたりがホームに立つ背姿をとらえたロングショットに「電車」が入り込んでくる。その美しさ。「技術」である。しかもこのシーンの撮影は「撮影効率上」、間違いなく「順撮り」ではない。誰もが「うまい!」とうなると同時に、ああ、やっぱりふたりは結ばれないのだと思う瞬間である。小津監督の背姿のグループショットは厳しくも優しい。バック・ショット(人物の背姿をとらえるショット)のロングに万感が込められる。そしてホーム上でなされる会話。「野田=小津」コンビの脚本。 

 

「電車」が「技術」のようにカッコで括られて不意をつかれるけれど、「高台」と同じく、画面に映るイメージとして単に『秋刀魚の味』だけではなく映画にとって外してはならない要素の一つに間違いないということか、それとも、もしかするとこれまた謎をかけられたようで「おかしい」と感じるべきなのか。2分間しかない『天竜区水窪町 山道商店前』の会話から聞こえてきて、黒画面の後に、音声が消えた画面へ入り込んでくるのも「電車」とカッコで括るべきなのだろうかと、余計なことも連想して広がりのない脱線をしかけるが、ついでに「入門編」終盤も引用する。

 

正解なんてない。「技術」があるだけだ。「映画」があるだけだ。「表したい」ことがあるだけだ。そして、あたりまえだが、「技術」はその裏に隠された「気持ち」に、「想い」に裏づけられている。

 

『憐』は堀禎一監督にとっての(いわゆる「待ちポジ」ではない)「待ちポジ」という「技術」についての映画のひとつということでいいんだろうかと思いながら見た。

教室に誰かがいない。いないはずの誰かが教室にいる。

クラスメイトが休んでいても、休んでいるなりに盛り上がっている。そこへ平然と遅刻してクラスメイトが入ってきたら、「遅えよ」とか言われながらも、もう教室に溶け込んでいる(それとも、たとえば自分がいない間に、いつまで欠席してるかなんてトトカルチョは悪趣味だとキレずに笑ってみせる馬場徹の佇まいというかリアクションが特別素晴らしいということなのか)。

転校生がやってくれば、彼のためのように誰も座っていない席が用意されている。そしてクラスメイトのひとりは彼に一目惚れしてデートを申し込む。

さすがにクラスメイトの一人が家族に何の連絡もせず帰ってこない、登校もしてこない、となれば背景に「事件」を想像してしまう。それはクラスメイトの不在が、彼・彼女の戻ってくるための席はまだちゃんとあるということかもしれない。最悪なことが起こってしまってからも(むしろだからこそ)彼らは、明日も普段通りにしようね、という言葉を残して一人、また一人と帰っていく。

久しぶりに登校したら、見たことのないクラスメイトがいて、彼女の名前も顔も知らないのは自分だけだった。放課後、友人たちとのバスケ中に彼女の名前を出したら、誰も彼女のことを知らなかった。しかし彼女本人をその場へ連れてくれば「珍しいね」とか言われようと、バスケに交ぜてもらえる。

堀禎一監督の映画では告白が肝心の男女の間だけではなく、休み時間のクラスや、みんなの見ている前でおこなわれ、それを「勇気あるな」「大胆」とか「いまそんなことしている場合かよ」なんて言われながらも、冷やかすというよりは、まず一通り見守るといえばいいのか、これまたよくある言い方だけれど、映画とはそういうものだ、そんな隠れてやればいいことを人前でおこなうのを受け入れると言わんばかりに。たとえば人前でなく二人だけでの告白は、それを見守る人々がいないからか、より場違いというか、唐突というか、受け止めるポジションを見失ったもののように感じる。だからなのか、『妄想少女オタク系』の夜の駅でのキスは「わからない」ものでドキドキする(これはもう「待ちポジ」とほとんど関係ない)。

それとも誰かが窓から駐輪場を見ている主観ショットのような画に、自転車をひいた朝槻憐がフレーム・インしてくる、常に下校中の彼女を先回りしているようなカットのことこそ「待ちポジ」と言うべきなんだろうか。

 

はたして「待ちポジ」のことを、そんな妄想してお喋りすべきなんだろうか。たとえばジョン・フォード『幌馬車』のベン・ジョンソンハリー・ケリー・ジュニアがワード・ボンドたちへ合流する時、来ると思ってたよ、なんて交わすシーンは「待ちポジ」と呼んでいいのか。小津安二郎なら『麦秋』での原節子に対して「あんパン」の話を杉村春子がした時の、どこか待ってましたというか、駄目なら駄目で仕方ないけれどよかったよかったというか、収まるべきところへ収まっていくというか、そんな抽象的な話でいいんだろうか。やっぱり違うだろう。たとえば冒頭の一家が各々のリズムで朝食をとり、身支度を済ませ、外出するまでの居間や洗面所、鏡台のある部屋など様々なフレームへの出入りを繰り返すショットたちのほうが「待ちポジ」かもしれないし『憐』の休み時間の教室とも似通って見える。それとも単に「おまえにはまだわかんねえだろうな」って千葉君から返される話かもしれない。

 

影響を受けやすい、人の真似ばかりで恥ずべきかもしれないが、9月22日『天竜区』シリーズ上映後の葛生賢・岡田秀則トークにて「ジル・ドゥルーズの『アベセデール』」の話になったので、ようやく見始めたら「C」で「襞」の話が出てきたけれど、同時に「待ち伏せ」という言葉も出てきて「そういえば『待ちポジ』の名手という話があったな」と思い出した。

ドゥルーズの話によれば、もしも(うまい例えではないかもと言いつつ)「第二のベケット」というべき誰かがいたとして(プルースト失われた時を求めて』第一稿の出版が拒否されたことを揶揄して「我々はガリマール社の過ちを繰り返しません」というコピーの新聞広告を目にして呆れたという話を踏まえて)スカウト業者がヘッドハンディングできる存在ではない。あくまで今の段階では「いなくても困らない」のだ。絶対的に新しいものは、まだいなくても誰も困っていない。

大雑把にまとめれば「出会う」ために映画館に通って「待ち伏せ」しているというドゥルーズの姿勢と「待ちポジ」の話を繋げていいのか、全然違うよとツッコまれてお終いな気もする。

 

エンディングテーマの「食い逃げリーダー」(『ひき逃げファミリー』とか『万引き家族』とかよぎる)の『空色のミライ』が流れた途端(バンドと、そのファンには大変申し訳ないけれど)ズッコケそうになる猛烈な違和感にはいつも驚く。『妄想少女オタク系』のエンディングは、やっぱり曲そのものだけ聞いて好きになるか相当に怪しくても、映画の最後に流れてくると、それまでのあれこれ思い出して余韻に浸りながら、とても素晴らしく聞こえる。甲斐麻美が海辺に立って、こちらを見ているラストショットが本当に愛しいから大好きなエンディングだ。しかし『憐』のエンディングテーマは余韻をぶった切る。別にこれは堀禎一監督の与り知らぬところで用意された音楽かもしれない。それでも決して『妄想少女』は素晴らしくて『憐』の音楽は残念ということではない。むしろ『憐』のエンディングテーマが流れる瞬間は、映画の無意識に触れているんじゃないかという気さえする(そんなのよくあること、という点も否定しない)。ここには(貶めるつもりはないけれど)『寝ても覚めても』のtofubeatsにはない何かがある。方向性は全く違っても、虹釜太郎の音、『天竜区』シリーズの割れた時報の素晴らしさと、おそらくエンディングテーマと堀禎一監督の映画の間にある溝は通底している。映画と音楽の出会いに幸福も不幸もなく、それぞれが本来出会うことさえ唐突で違和感を覚えるべきなのだろうか(比べて『魔法少女を忘れない』の音楽は王道という印象はある。あくまで印象に過ぎないが)。

ついでに『夏の娘たち』に出てくるシーラ・Eやデヴィット・ボウイの名前が何だか納得させてくれない音楽と映画の間の溝は何なのか。特にボウイの音楽と映画を見る度に出くわして食傷気味になったことを思い出すと、この溝は痛快にさえ感じる。デヴィット・ボウイに似ているという「旅の人」とともに、どこか本来あるべき位置へ旅立たせてしまったかもしれない。音楽が割れたまま響く時報のように、もしかしたら「いなくても困らない」けれど存在してしまっているというような。


妄想少女オタク系』の四人組(に加えて先輩)がこのままずっと見ていたいくらい愛しくても、その他のクラスメイトたちが混じったカットに関しては、もしかするとまだまだやれることがあるという段階だったのかもしれない(授業中に男女二人が叱られて立たされてから微笑み目線を交わすロングなんか本当に大好きだけれど)。それくらい『憐』の休み時間のカットは誰がフレームに入ってきても、誰が出ていっても、どちらにしろ当たり前の変わらない光景を見ていたような気にさせるくらい、みんなの動きがさりげない。『魔法少女を忘れない』の、まだ誰が主人公かもわからないけれど、その後に活躍するかどうかもまだわからない人物たちが次々と登場するオープニングの授業は、丁寧に作り込まれていて、それでいてこれまたグイグイと映画の世界へ引き込まれる。

放課後に繰り返されるバスケをしながら交わされるやり取りなんか(一度だけ賭けの話になるが)パスやシュートがさりげなく決まりながら繰り返す会話はどうやったらあんなに平然とできるのか(単にみんなの運動神経がいいのだろうか)。『夏の娘たち』の本当に言い間違えたんじゃないかという会話が紛れても、ふたりは笑って話を続けるカットのことも思い出した。

鳴瀬(馬場徹)が憐(岡本玲)を初めて放課後の友人たちのバスケに参加させようとするシーンが素晴らしかった。それがどれほど彼らにとって切実か、映画を見ていない人に伝えられる自信がないけれど、(はたしてフォードの名前ばかり出して監督の掌の上を踊っているに過ぎないかもしれないけれど)『荒野の決闘』のダンスに誘うシーンに見える。憐の祖母(宮下順子)が若いカップルを見送る姿が、そんなあれこれ映画を思い出したなんて言っても陳腐で伝わらないだろうけれど、これまでの結婚を約束された男女の送り出される姿が強烈によぎって、自転車に乗ったカップルの男がすれ違う人々に挨拶を続ける姿は涙なしに見れない。そこへ切り返される、道路の向こう側にいた速水今日子の目線が「死」の予感と、カップルの姿を寄り添わせる(今見ると『イット・フォローズ』を思い出す)。

そして何度もよぎる「人殺し」。「皆殺し」が映画のカタルシスとして強く記憶に残ったことは何度もあるけれど、その解放感への誘惑と恐怖がつきまとう。川辺での男女の散歩が強烈に連想させる殺人(同時にこれは堀禎一監督にとって加藤泰『皆殺しの霊歌』に最も近い映画なのかもしれない)。岡本玲馬場徹にナイフを向けるシーンの、最初は見ていて芝居や展開に入り込めなくても、うずくまって地面に向かって声をあげる馬場徹を見ると、『妄想少女』での彼の台詞なら「マイナスからの反動」として、違和感が切実なものとして受け止めざるをえなくなる。堀禎一尾上史高コンビの映画は、初めの違和感に対する相手のリアクションが「この映画を見れてよかった」という気にさせる(知った風な書き方か)。

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『肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー』vol.2

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『ものかたりのまえとあと』展 青柳菜摘/清原惟/三野新/村社祐太朗 | nobodymag

 

『肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー』vol.2へ。

どちらも「少女たち」の映画かもしれないが『暁の石』の工員らしき男たちは(少なくとも『ひとつのバガテル』以降に見た作品から)消えた存在かもしれない。共同監督クレジットと関係あるかもしれないが、人物たちの佇まいは変わった。ただ音楽の趣味や催眠効果さえあるリズム、物語の行ったり来たりして先へ進めているかわからない停滞感などは引き継がれている。おそらく監督だけではなく複数の役割を(少なくともクレジット上は)負っている作家にとって、同時にユニットの存在は大きく、『暁の石』共同監督の飛田みちるとの「飯田春子」というユニット名や(『暁の石』は監督・脚本・撮影・編集:清原惟、監督・録音:飛田みちるとクレジットされる)、『わたしたちの家』ほか脚本の加藤法子といった名前は気になるし、一方で撮影をイラストレーター(『ひとつのバガテル』出演もする中島あかね)が担当した『網目をとおる、すんでいる』であったり、クレジットから製作スタイルが気になってくる。

『暁の石』の父親も感じ悪いかもしれないが、再見した『ひとつのバガテル』の間借りしている老婆と孫の感じ悪さは結構インパクトある。祖父江慎トークにて「感情を表に出さない芝居」への評価あったけれど例えば『網目をとおる、すんでいる』の女の子二人と『わたしたちの家』の感じ悪いマスターとか、どの作品でも何考えているかよくわからない菊沢将憲とは相当に違う。『わたしたちの家』の喫茶店のマスターも店の雰囲気に対して非常に嫌な感じの存在だったり、逆に母の再婚相手に対するヒロインの敵意は(少し笑えるくらい)大きい。感情を出さなくても伝わる相手、伝わらない相手の距離は大きい。

わたしたちの家』は別に「わたし」だけのものではない点が大きいけれど『ひとつのバガテル』のヒロインが最終的に住処を追い出されてどこへ向かうかは謎めいている。『暁の石』最後の電話は、かなり意味合い違うけれどウディ・アレンのオチがよぎるくらい、「この後どうするんだよ」とツッコミたくなるところもある。