『カメラを止めるな!』

ポプテピピック』が二度繰り返され、『わたしたちの家』が一つの家を舞台に二つの話を行き来する。廣瀬純スピルバーグ評をなぞれば、『レディ・プレイヤー1』はゲーム内部と外部とプレイヤーの話を二度繰り返す。『カメラを止めるな!』は確信犯的に三度始まる。一度目は長回しゾンビ映画、二度目は舞台裏を明かしての辻褄合わせ、三度目は上映が終わってから。

監督夫妻が出演を決めるまでも、撮影を中断されてしまうんじゃないかという危機も、解決までの時間を使わない。事態が動き始めたから止まらないというニュアンスとしてより、おそらく必要ないものとして葛藤する時間を切り捨てる。代わりに舞台裏と切り離されて、前半のゾンビ芝居に割かれた時間を、観客として見ながら記憶とともに繋ぎ合わせる。プロデューサーの「視聴者はそこまで見ない」に対する監督の「見てますよ!」といった返しは正しいかもしれない。「生放送」という割にオンエア時の視聴者の様子は一度も見せず、しかし退屈になったら画面を見ずに携帯をいじる制作陣が観客として映る。一回の映像に集中はしないが「見ている」姿勢(突き詰めると『季節の記憶(仮)』の激しい手ブレによって集中して見たら酔ってしまうから、聞こえてくる声と付き合う時間になる)と本作は通じるんだろうか。

夫・監督、妻・元女優、娘・助監督という家族構成や、アル中の役者まで(息子ではなく)娘の写真を見る、舞台裏におけるドラマの薄さを補うために家族を持ち出すという酷い事態に驚くけれど、ほとんど「クセモノ揃い」と言いつつ単なる情報と化した薄っぺらいキャラクターたちの関係性を語り合うために、第一幕と第二幕を脳内において繋ぎ合わせて広げる、上映後の第三幕が存在するかもしれない。Wikipediaの漫画やアニメの登場人物たちに割かれるページ数の多さは、作品のディテールを保障しているかもしれないが、「キャラクター」の細部をめぐる読者の楽しみに近い。そんな答え合わせや解釈のようにレビューを書く人はいるし(自分だってそんなものかもしれないが)みんなの心の中にある第三幕では一幕と二幕を繋ぎ合わせられる「よく出来た」細部の巧みさ(?)について語られ、ついでに現実の製作の舞台裏へ踏み込む話題が浮上してくる。

わたしたちの家』や『ゾンからのメッセージ』をいくら語っても細部は繋がりあうわけがないけれど、『カメラを止めるな!』は手足が飛んできた程度で納得させるくらいには脳内で繋がりあう。「どっちが学生映画だよ」と言われそうな『怪談 呪いの赤襦袢』がわざと放棄する繋がりのほうが、これまで感じてきた映画の力について考えるきっかけにはなるだろうし、『ミッション:インポッシブル フォールアウト』の破綻した展開へのこだわりのほうが「それでも観客は気にしない」という試行錯誤において映画を作る上で重要だと思う。

イムリミットに対する鈍感さなのか、姑息さなのかわからないが(その意味で「自主映画」としては松江哲明入江悠と比べても抜きん出て「生産性」がある)、それでも終盤クレジットの組体操だけ15秒とか時間を言わせるあたり、合間合間に「何かを見て笑っている人」の顔を挟む編集とともに「繋がり」「絆」の映画だと感じて腹立たしい。一致団結を組体操で表すのは最低最悪だ。ここまで何もかも口にすることを要請する映画と会って、どんだけ素晴らしい映画でもゴミのような映画でも「語られなかった」ことのあるほうがマシだ。

『怪談 呪いの赤襦袢』

記憶を失ったヒロイン浜崎真緒の夢見る女同士のSMから始まって、幽霊になった彼女と性転換した恋人(小坂ほたる)とのベッドシーンに至る。夫を名乗る男(野田博史)との行為は監視されていて、精神科医を名乗る女(加藤絵莉)が彼女の表情を分析、快感より苦痛を覚えているという。一方、夫と精神科医は裏で繋がっていて「男の喘ぎ声なんか聞きたくないから」と第四の壁を意識しながらセックスしている。ヒロインの「分間宮」というヘンテコな名字は「間宮」(黒沢清の『CURE』の記憶喪失の萩原聖人とか)の分家らしい。
なぜか抜け出せない空間、一人二役、二転三転する真相(?)。映画につきまとう雑さ、強引さが作劇に与える影響を、ある種の贅沢さが期待できない状況で二重三重に捻じれながら呼び込もうとする。野田博史が山城新伍のアレをやるのは『スウィートホーム』現場のエピソードが当然連想されるけれど、芸の継承なんてものじゃなくて、やはり無理があるんじゃないか、もはや悪ノリと何が違うんだとツッコまれかねない傷を残すと同時に、加藤絵莉が床の臭いをかぐ本気さと同じく記憶にも残る。小坂ほたるの声が男女の間を行き来して、登場人物たちの不安定な設定をさらに歪ませる。ただ確信犯的に破綻したどんでん返し(それこそ学生映画のノリかもしれない捻り)に引きずられて話が動くというより、赤襦袢を前にどうしたものか動けない『皆殺しの天使』的な置いてけぼりを喰らう。『ミッション:インポッシブル フォールアウト』の「アイム ウォーカー」も相当にブレていて最後はケロイドになるから浜崎真緒と通じているかもしれない。

『ゾンからのメッセージ』

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鈴木卓爾監督の映画の人物たちは、ある場所に集まっていて、その場所は喋り声や楽器や映写機か何かの機材の音やらが常に響いていて、廃墟のようで光が差し込んでいて、各々に目的や志の程度の差異や悩みがあったりして、何かの感覚や記憶を共有していて、そこから一歩を踏み出そうとしたり、逆に理由をつけて踏みとどまっていたりする、微妙な時期を過ごしている。
『楽隊のうさぎ』の吹奏楽部の否応なく過ぎ去っていく時間のなかで、どの程度の達成があったのか、あえて曖昧になっているのが良かった。『ゲゲゲの女房』が一応は実在する人物たちの話であっても、あの家に住む彼ら彼女らは現在の風景の延長に妖怪たちと映り込む存在であって、家に入れた人物のひとりは力尽きて砂となって散る。
『ジョギング渡り鳥』の撮影機材がどんどん映り込み、いつ終わるかもわからない、どこへ向かって飛び立てばいいのかわからない時間さえ、ひどく親密に思えて驚く。特殊さでいえば「ワンピース」シリーズの1カットの製作スタイルさえ、訓練のための制約という以上に、その1カットのフレームの中で何が乱入してきても消えても、どこまで動けるか、どんな時間を過ごせるかであって、しかもカットがかかってから彼ら彼女らがどうなったかは、たぶん誰も知らない。
また鈴木卓爾監督の映画では役者は人間というよりも、自分を大人だか子供だか決められないように、妖怪であったり宇宙人であったりスタッフと化していたり(『ゾンからのメッセージ』のある人物を指した台詞のように)境界線上を歩いている。自分が何をしたい人かわからないと同時に、何かやりたいと言っている。同時にフレームを出入りするのが役者だけでなく虫や猫もいて、特に『私は猫ストーカー』の、猫にカメラを向ける上での礼節が問われるのは素晴らしかった。


ゾンからのメッセージ』は2014年の映画美学校映画祭で見た時と画も音も編集も変わっているんだろうと思う。初見以上に、「インタビュー」が入ってくるまでは驚くくらいテンポよく物語られている気がする。演説する男へ向かってフレーム外からゾンビのように人々が出てくるカットがかっこいいし、そこから訓練中の人々を撮ったカメラの画に切り替わるのもいい。最初に『花の街』のコーラスが聞こえてくる空間へ入り込む時の高揚も、人物が何か話している最中に虫が割り込んでくるのも、「ワンピース」シリーズにて発揮されたフレームを使った出し入れが完全に映画にとっての武器になっている。
そして元バンドメンバーの二人が喧嘩に終わってしまったあたりから、映画の印象が変わるくらい停滞するけれど、そのことが決して退屈さを意味しない。たんに自分に想像力がないだけかもしれないが、やはりゾンから抜け出す仕組みがまるでわからない。どうして彼ら彼女らがゾンから抜け出せるようになったかもわからない。既にインタビューが「ゾン」から抜け出すまでもなく、外部を見つけたからなのか。作品の構造上の問題ではなく、おそらく意図的に誰かの力を感じさせない。一組のカップルの話として進むのではなく、後景にいるかと思っていたBAR湯の二人の女や、バンド三人組の話が前景に来たりもする、この入れ替りが「映画」なんだと思う。脚本のページが何枚か破られても映画が出来上がってしまうという逸話を信じたくなるような、彼ら彼女らの心情や動きが削られたり、もしくは見ている僕の集中力が切れてスッポリ抜け落ちてしまっても、ゾンから先へは進める。破れたページの合間に製作風景が、インタビューが、自転車に乗って回したカメラが紛れ込んで、何となくのゾンからの前進よりも、停滞した時間を共にした時に何を見聞きしたかが問われているような。長尾理世の手が視界を覆って、カメラは奪われたのか、次のカットでは男女がまた自転車に乗ってカメラを回している。振り返ると映画の調子が変化した時だったように思う。
青年が最初にカメラを向けた溝(『にじ』をすぐに思い出す)、「湯」、川の字、水のイメージたちが残る。最後の海に対してゾンを見出すのも、空を反射した水辺にまで描きこまれたゾンとは異なる波模様に感動もするけれど、どこか住民へのインタビューが切り返されてくるようにも見えた。

『独房X』(監督・脚本 七里圭)

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伯林漂流東京

 

泉浩一生前追悼上映会へ。『伯林漂流』ほか監督作は見逃す。

出演作の七里圭監督『独房X』。近未来を舞台にしたエロ版『羊たちの沈黙』のはずが、まるで収容所が舞台のアングラ劇を記録しているようだった。『サロメの娘』シリーズ、特に複数の舞台を行き来しながら(おそらく)娘が母のことを語っている『あなたはわたしじゃない』を思い出す。ひまわりも出てくる。未見の新作『入院患者たち』への期待も高まる。

原サチコの登場にはクリストフ・シュリンゲンズィーフ特集との縁に驚く。だが『独房X』はシュリンゲンズィーフのパフォーマンスの記録とは真逆の、何一つ気持ちの休まらない視線の迷宮と化していた。

鑑定する側が視線に晒され、相手の記憶を探るはずが自らの過去を晒す。モニターに映された女囚の映像に挟まれる、彼女の回想ともつかない謎のフラッシュバック。誰が見ているイメージかわからない。写真が誰の記憶を証明してくれるかわからない。牢の手前か、中か、どちらにいるのか不安になる、格子が張り巡らされたような画面。ビデオに記録された「2003」という数字が製作年とズレている。本作よりパフォーマンスの記録だと割り切って見やすい『あなたはわたしじゃない』にはない不穏さが満ちている。彼女が収容所をさまよう映画として、安心して謎を追うためにも明確にさせたい時制や記憶や視線が揺さぶられ続ける。

それにしても女性の身体が目に焼き付く。格子や窓越しに見える女囚たちから漂う倦怠感。縛られた肌に食い込む糸。女装した看守(今泉浩一)。彼に鞭うたれる、もう若くない所長の肉体。何よりヒロインの濡れた肌をタオルで拭う時間の長さは(上映後のトークによれば尺の都合もあったらしいが)省略の無さが生々しい。映画の観客として彼女の裸体を眺めれば眺めるほど、本作の視線に自らも巻き込まれていく怖さがある。彼女たちの肉体へ視線がまとわりついているようで、いきなり女たちが画面から消える時、彼女たちの収められていた空間の魅力に気づかせる。誰も座っていない椅子に彼女たちの痕跡を見て興奮するわけでもなく、椅子は椅子としてエロティックに見える。

七里圭監督の映画から『独房X』の女たちの裸体と視線の複雑な絡み合いが弱まって、代わりに音を残すように感じる。山本直樹の『のんきな姉さん』から三浦友和梶原阿貴にセックスをさせず、「同じことは繰り返さないんだよ」という声の優しさを残す。『眠り姫』から寝れば寝るほど膨らむ肉体を映さず、眠れずにやせ細る肉体をFAXされてきた線として見せ、男女の絡み合い喘ぐ声が官能的なイメージを呼び起こし、目覚めの叫びが逆に何かを思い浮かべようという時間を断ち切る。『あなたはわたしじゃない』の青柳いづみの身体と声の繋がりには、どちらが先にやってきたのか、どちらが置いていかれて消えてしまうのかと緊張もする。そして彼女の身につけた花柄のワンピースが記憶に残るように、ひまわりによって舞台と模様が繋がっている。『独房X』のバーコードをつけた囚人服とは違って、彼女たちの衣装は身体への視線を空間に散らす。

いつか会いたいと望んでいた、しかしまだ会ったことのない「母親」(原サチコ)の写真は、『サロメの娘』シリーズの長宗我部陽子にも通じていて年齢不詳だ。記憶の核になるようで、最も危うい地盤であり、映画内の時間を狂わせる物体になる。女性そのものでありながら、彼女たちの座っていた椅子でもあるような、既に痕跡と化しているような、「母親」と「娘」とは「時」を意識させるものであって、七里圭監督の映画では空間における女性の身体とぶつかり合う、不安を呼ぶ仕掛けかもしれない。

 

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『エリーゼを解く』(松本恵)

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彼女は恋人を友人に奪われたから傷ついているのか、元ボクサーは何に挫折したのか、ひとまずそれが見ている僕にとってどれほどどうでもよくても、映画は良かった。電話越しの元ボクサーの話が止まらなくなった時、まともに聞いたらウザいかもしれないのに、それを何も返せず(返さず)しばし黙って付き合う時間が充実したものになる。そんな時間が訪れるまでの何を見せて、何を見せないか、映画の演出だと思う。『王国』の「密度の濃い時間」という言葉を思い出した。終盤、元ボクサーが「高所恐怖症なんで」と唐突に言ってからの、フルサイズの彼女とのカットバック、まだ彼の辿り着いていない空間と切り返すところも、階段を駆け上る音が聞こえてくるのも、そこから手を繋ぐまでも良かった。大事なものを自ら手放して落としてからの上昇。あえて彼女と彼の興奮を緊張込めて抑制していても、見ている側は最高に興奮出来て幸せだ。

https://aoyama-theater.jp/pg/3450

『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)

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見直さずに印象で書くと後悔しそうだけれど『螺旋銀河』は、創作行為のプロセスを丁寧に追ったように思わせてくれた気がする。別に時計を見ながら体験したわけではないのに、分数ごとに、二人の主人公を行き来しながら、感情の変化や、すれ違いや不意打ちを喰らったような気がする。今となっては73分という数字を見て、時計が一周してから朗読の続く13分があったような、うろ覚えから書いた印象に過ぎないが。
一人の夢に自らを重ね合わせるのではなく、ただ二つのズレを見聞きすることが映画であって、『王国』も『螺旋銀河』も二人の人間が同じものを見ているわけではないズレが解消されずに渦が出来上がった(気がする)。ただ『王国』は「台風の目」にあって、『螺旋銀河』の二つの「対義語」となる人物が作る渦から更にズレているかもしれない。
いまはまだ見ていない約60分の『王国』が気になる。およそ60分の『王国』たちが複数存在する可能性とともに、それぞれの渦と渦がぶつかり合ってか、どの渦からも弾き飛ばされてかわからないし、そんな話は妄想に過ぎないが、どうやって150分の『王国』が出来上がったのか。愛知まで行かない自らの怠慢をまずは呪うべきか。
時間を刻む音が「裁き」のように、処刑台のギロチンのように響き、シナリオ読み上げのシーン番号は60を回って時間を刻むようにカウントされる。ジャンプカットがある。黒がある。ストローブ単独作、クリストフ・クラヴェールと組んでの映画のジャンプカットの話をするのは、中途半端にシネフィルぶった振る舞いであって間違っているかもしれない。それでも謝辞にあった堀禎一・葛生賢、両氏の名前から切り離せない。ただ、ストローブの映画(おそらく『コルネイユ=ブレヒト』だった。ちなみに『王国』を見ながら『コルネイユ=ブレヒト』の三回繰り返すのは間違いじゃないんだと改めて思った)を見終わってから桝田亮さん(数少ない面識のある「シネフィル」に相応しい一人)が言ったことを思い出した。クラヴェールは役者に視線の指示を出してるんじゃないかと。本当か? 調べようとしない自分は怠け者だが、冒頭、彼女は自分が書いたらしき言葉を前に視線をさ迷わせた。カメラに向かってか、言葉に向かってかはわからない。そのどちらでもないかもしれない。ただ視線と背景の光を見ているうちに、不意に画が飛んだ。瞬間、映画の中で自分がどの位置にいるのかわからず迷子になった気がした。
彼女は夫婦を前にゴダール『うまくいってる?』のタイプライターを打つ目線のように、文書の右から左へ読むように目線を移す。『王国』は、まるで子どもを見下ろすように台本を読む。子どもを死なせる、事故か他殺か、それは告白する人間次第かもしれない状況において、見下ろしていた言葉が他人の声から視界に現れてしまったように外部が出来上がっていく。読み上げる言葉から解き放たれる「アイコンタクト」の映画、「王国」の映画であって、同時にそれを目の前にすることの恐怖のような。それでも彼女が読み上げる姿は力強かった。台本の読み上げが、それぞれ声の聞こえる時、発声していない時、黙読なのか朗読なのか切り離しがたい時間と空間を作り上げていた。

『BLEACH』(佐藤信介)

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いぬやしき』は不快感が勝ってしまったが『BLEACH』には感動した。杉咲花福士蒼汰の過ごす原作序盤の日々のあれこれが、自主映画時代の『寮内厳粛』『月島狂奏』『正門前行』を連想させるくらいに膨らんでいった(WOWOWで見れた)。
原作を読んでいなかったら追いつけないんじゃないか(特にクインシーがどうの言う台詞とか)という心配が余計なお世話だと言わんばかりに、もう説明台詞以外何物でもない会話も繰り出され、早乙女太一とMIYAVIのコスプレは気持ち悪いくらいだが、そんな諸々が原作と読者たちの間に交わされたかもしれない夢想を(批評になっているくらいに)掬い取っている気がした。これは堀禎一監督のライトノベル原作映画、特に(今からちょうど10年前の)『憐』を思い出した。転校生、異世界の話題を繰り返す学生たち、誰かが記憶から消える終わりなど共通点はある(堀禎一監督はコスプレはさせないけれど)。『憐』の「未来からの流刑者」という設定をルールのように自らに課して周りと距離を置くヒロインの姿は原作の再現としてよりも、空想を日常に浸み込ませて生活する日々の繰り返しと化している。『憐』のルールが一体何のためにあるのか、なぜ彼女は何者かから命じられたルールを、自らを守るバリアにも用いているのか。そのバリアを『BLEACH』の、死神の力を失ったという杉咲花から感じられたことに動揺した。屋上の杉咲花と、彼女について少し離れて「普段どうしているのかな」などと噂しているクラスメイトたちのシーンが印象に残る。
何より『秋刀魚の味』のジョークが使われていることには、本当に佐藤信介監督は堀禎一監督のことを意識しているのではと思った。ただし、あの「あいつなら死んだよ」というジョークは『憐』のほうが批評になっている。『憐』は現在の学生たちの悪ふざけに移植することで、はっきりと笑えないこととして見せている。
杉咲花福士蒼汰の特訓は繰り返されるほど微笑ましい。押し入れとベッドでの会話に漂う寂しさは忘れられない。夜の部屋でノートの落書きを使って解説するシーンさえ、原作の再現という以上の、漫画として描かれた居候を恋愛描写にも傾けず、若者が空想を部屋で語っている。『万引き家族』も漫画かライトノベルが原作だったのではと思った(悪口ではない)。『万引き家族』のリリー・フランキー達だって死神たちの云々と同じくらいに夢を引きずっているようだ。
霊魂を既に喰われ、霊にさえならない母親の長澤まさみ肖像画のような遺影として登場する。あの写真の大きさは「漫画原作」という縛りとは別の、原作に対する距離を感じる。死後の世界なんか本当はない。あるのはただ、生きている人間と同じくらいの大きさの写真だけ。
個人的には吉沢亮が一番良かった。弓矢ひいたり壁に隠れたり、いきなり転校生としてわけのわからない話をしだしたり、何よりマクドナルドにいる姿がとてもしっくりきた。この映画のマクドナルドにはリアリティがどうの、スポンサーのことなど関係なく惹かれる。
ただ霊の登場する予感を味わう魅力はない(『ウィンチェスターハウス』にもそんな怖さはなかったが)。バスの横転には興奮した。竜巻と呼ばれるのが面白いけれど『ピートと秘密の友達』見直したくなる。

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