『ひかりの歌』

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第一章に『牯嶺街少年殺人事件(A Brighter Summer Day)』の「この世界は僕が照らしてみせる」という言葉(自転車に乗った後姿もエドワード・ヤンから切り離せないのだろう)、第二章のジョギングする女性の足、『緑の光線』の選ばなかった男達のことがどうしてもよぎる。ここまではやはり闇の中で泣く女性の映画という印象で、闇から照らそうとする光ほどしか(男性は)女性の輪郭を掴めない。第二章に緑の光が浮かんでも、それは彼女の輪郭をぼんやりと包みながら、むしろ彼女にとって逃れることを望んでいるネオンに見え、闇の中をもがくようにも、そこで声を上げ続けることを望んでいるようにも見える(というよりも彼女のことは見えなくなる)。
第三章になり、うどん屋とライブハウスから雪の小樽へ舞台が移って、女性を照らす光の映画としては色彩豊かにも見えて、特に笠島智が歌手として立つ時、夜明けの船上で風に吹かれる時、電車に乗って窓を見ながら口ずさむ時、どれも顔も声も違う。男性が修理中のカメラは光らない。終盤、彼女は光の中から現れる。厨房には男性がいて、並んでうどんを食べる相手は女性だ。
第四章は夫婦の話になるが、一見すると最も視界から闇を奪われたエピソードであって、同時に夫の松本勝が突然登場したように、次のカットから急に消えてしまうのではないかという妻の並木愛枝の不安も闇が少ないからこそよぎる(彼が店番をする書店に飾られた『PORTRAITS』の黒い肌が気になる)。ここでは二人が光に照らされる写真撮影以上に、運転中の夫婦に後部座席から影を見ることのできたシーンが充実する。「許してあげないほうが」という妻の台詞が、闇の中へ沈むこともできない男女にとって必要な影に思える。夫を演じる松本勝が『ひかりの歌』の他の男たちと何かが違うと強調されるわけではないが(第二章の「キモい」バイカー、ハグして別れる同僚、下ネタ交えて歌うミュージシャンが各々違うように)、それでも最初は刑務所から出てきた設定かと勘違いしたが(自動車事故でもあったのかと思った)、映画の女たちと並んで照らされ、闇をまとう存在になるとワケありな佇まいになるのか。