『共想』(監督:篠崎誠)

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渋谷某所にて篠崎誠監督『共想』。初見。
『死ね!死ね!シネマ』の、映画を不定形のものにしたい、そもそも映画には見返すたびに異なる姿になってしまう、形のないものであってほしいという欲望と、そうであっても一度見たら忘れられない傷跡が残る、確かな存在であってほしいという欲望。見る側としては、二つの欲望の間には忘却とショックがあるのだろう。絶対に忘れられないことがあったはずなのに、正確に覚えていないという体験(はたして自分は映画にそんな経験をしたことが本当にあるのか? 他人の文章から植え付けられた偽の記憶じゃないか)。
もしくは未知の存在との不意打ち。初めて見たはずなのに、何度も繰り返したことがあるような出会い。かと思えば、どうせまた同じようなものを見るかと勝手に想像していたら、そんな予想を平然と裏切る何かと遭遇する。
数多くの映画たちの記憶があったはずなのに、映画によって警告されてきた過去を繰り返してしまった、予期できたかもしれない事態を避けられなかった、そんな後悔の念がよぎり続ける。その念は『SHARING』を2バージョンに分裂させ、映画の全体像を見た人はこの世に一人もいないような気にさせる。それでもなぜだか見た人たちが「共有」できる、だれも見ていない映画が存在しているのかもしれない。
共有と分裂。上映後の監督自身による解説では『共想』に複数のバージョンができることはないという(しかし関連性のある短編が存在しているらしい)。それでも『共想』の同じ場所に並んでいるのに、同じ場所に生きているように見えない二人は、ひとつの定まった完成形に触れているという安心感を与えてくれない。捧げられるキアロスタミフーパーのように、なかなか気持ちは落ち着かない。この心のざわつきは『王国』(草野なつか)の台風を並べたくなる。
同じ時間・空間を共有しているはずなのに、それぞれ別のものを見ているような二人。同じショットの中にいるのに、異なる時間を生きているような映画の力。ある時点をめぐる記憶が、それぞれの人物によって変化してしまって、いまや異なる時空を生きるようになってしまう。2011年3月11日の震災に関して「被災地」にカメラを向けるかどうかという問題も年月の経過が宙づりにしてしまったかのように、千葉の台風被害の記憶も新しいからか、もはや「どこ」が被災地だったかが曖昧になっていくような「忘却」の恐怖さえ感じる。そもそも『共想』を見ている自分たちは、いまどこにいるのか。
もの凄く危なっかしいものを見ている不安さえある。迂闊に「共感」でもしたらアウトなんじゃないかというくらい危うい。インタビューシーンで語られる「3月11日」の経験を聞きながら、彼女の芝居にどれほど距離をもって見るべきなのかと不安になる。濱口竜介『親密さ』から『なみのおと』など東北を記録した作品の、ドキュメンタリーとフィクションの間をさまよわせる試みの一つとしての正面からの切り返しから、よりフィクションの(「芝居」というべきか)側へ傾いたようなシーン。映像の力を通して「共感」を呼ぶために使われてもおかしくないような、役者本人の経験がいくらかでも混入されているんじゃないかという、即興的な芝居。アルトーの『ヴァン・ゴッホ』を読むショットから、赤坂太輔氏によってジャック・ロジエと対比して語られる「自然さ」の作家としてのモーリス・ピアラの名前をすぐに連想していいのかはわからない。
ほとんど「悪しき」映像に傾きかけない力に触れつつ、映画とともに闘っているようだ。即興的な芝居の「自然さ」と、いくつもの作り込み(野球部の音声が断ち切れて外の人物がいきなり消滅してしまったような音響面での操作)。何らかの一線を引くように、映画は感傷的になることを避ける。演劇の道へ進むのか、生徒と教師の微妙に互いのリズムがズレ続ける、特に笑ってしまいたくなる先生の返し方には「自然さ」が、映画がどこへ向かうかわからない不安と同時にユーモアも貫かれている。
北野武の映画に出てくる、どこを見ているのかはっきりしない人々が、ときに画面の構図に収められてしまった印象から解かれて、どこへ向かっているのか(進めているのか)わからなくても歩き続けているようでもあった(歩く人を正面から捉えた映像)。または『悪魔のいけにえ』の覚めても覚めない悪夢のような現実の連続と近い、非常に「何を見た」のか共有することが困難な展開。ヒロインの身体表現をめぐるオーバーラップや、同一人物か謎めいた声が重なって『あなたはわたしじゃない』はじめ七里圭監督作品の身体と音声をめぐるスリリングな瞬間がよぎったりもした。
いろいろ名前を出してしまったが、それでも手袋をめぐる終盤のリアクション、あのホッとさせる、いろんな力みから解かれる瞬間に尽きる。これこそ本当の温かみじゃないか。