『わたしたちの家』(清原惟)

急に娘が母親にじゃんけん勝負を提案する。どちらか勝ったほうの家になって、負けたほうは出ていかなければならない、と言って娘は即座に始める。しかし切り返すとパーを出した母が「勝った」と自ら広げた手を見ている。「セリの負けだよ、どうするの。」一方、娘は拳を振り上げたまま、グーを出した後なのだろうけれど、その敗北は拳を振り上げてからチョキを出そうと思えば出せたかもしれないのに、その前の段階で既に勝敗はついてしまっていたかのように、拳を振り下ろす以前に決着のついてしまったじゃんけんを見ているような顔をしているようでもある。母は後出しじゃんけんならぬ、先出しじゃんけんでもして勝負することなく勝利を宣言したのかと言えば、パーを出してしまった母の顔はそうは見えない。母は自分がパーを瞬間的に出して娘に勝利してしまった、というより娘が敗北してしまった結果の取り返しのつかなさにショックを受けているのか。娘の仕掛けた勝負のルールが、提案した彼女自身の敗北でもって生々しくなる。というよりも結果を見ている母の顔だけが映されて生々しさを増す。じゃんけんのカットバック。そこに勝負を仕掛けた側も、勝利した側も、どちらも操作できなかった、しかし予め決められた誰にも避けられない運命、というよりも娘の口にしたじゃんけん遊びのルールが、言葉だけでなく、夢から現実へと娘だけでなく母を覚醒させるように彼女たちの目前に訪れたような顔をしている。遊びの時間が終わってしまったかのように。しかし、あくまで娘の拳が振り下ろされるのを見ていない私たちにとっては、じゃんけんの結果を自分の手に見たのは母だけであって、そして夢からの覚醒、遊びの終わり、我が家からの追放は母の「セリの負けだよ、どうするの。」という台詞と声によって響く。しかしその声に娘がショックを受けているのかはわからない。娘の顔は母の声と言葉によって引き起こされたものだと断定できない。やはり彼女は母に関係なく覚醒しなければならず、じゃんけん遊びの時間も終わって、家からは出ていかなければならないのだ。それが今すぐではなくても、今日のところは母が続けて言うように馬鹿なことはやめて、もう寝なければならないのだ。夢からの覚醒、それは馬鹿なことはやめてもう寝ること。そして、自分のものだと思っていた家が、実は自分のものではなくて出ていかなければならないのだということを、まさに彼女が拳を振り下ろす以前に、容赦ない母の掌の勝利を先に見てしまうことによって彼女は気づいた。じゃんけんの勝負はつながっているのか、つなぎ間違っているのかわからない。いつか、母と娘は離れ離れになる。それだけでなく家は彼女にとっての夢でもなく、何の繋がりがあるのか全くわからないヨソモノのオバケの家かもしれない。そのオバケたちにとっては彼女たちこそ幽霊であるかのように別次元の存在かもしれない。母でも娘でもない記憶を失った女性がいて、なのに彼女は覚醒してから何もかも色褪せた光景を目にしているようだ。記憶を失った女と水をめぐる陰謀と闘っているような少女との世界は、どちらかといえば母娘の話よりもずっと荒唐無稽で不条理なのかもしれないが、それでも色褪せてしまって見えるのだ。母娘の血の繋がった、捨てたくない記憶に包まれた「わたしたちの家」のほうが夢のようであるという容赦なき未来を見てしまったようだ。わたしたちが経験してきたかのような出来事は全て覚醒を恐怖しながら見た夢だったのかもしれない。じゃんけんの勝敗の判定をすべく全体を目視することはできない。カットバックによって母娘の見たもの、聞いた声との間にズレが生じる。作り手の「才能」という言葉によって、このショックを共有したくない。

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