『奈落』(監督:高橋洋 脚本:郷淳子)

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少しだけ映画美学校映画祭。万田邦敏監督作は見逃す。

高橋洋監督『奈落』は演習だから映画美学校内で撮影されて当たり前だろうけれど、舞台上での場面転換のように背景のイントレが移動して、男がスタジオ内を歩いて彼の自室とされたベッドの空間へ進んだ後、幽霊の現れる展開に痺れる。溝口『雨月物語』を参照しているのだろうけれど、『狂気の海』や『霊的ボリシェヴィキ』と並んで(赤坂太輔氏の言う)「上演の映画」の探求の一つかもしれない。

『奈落』は「泣ける映画」の設定に挑戦している。2007年のSTUDIOVOICE378号にて「いま、真に泣ける映画とは何か?」というテーマでの高橋洋井土紀州両氏の対談から引用する。「サークの『悲しみは空の彼方に』なんかの絶対泣けるラストの設定があるじゃないですか。今までひた隠しにしてた自分の正体を吐露してしまうことを承知で駆けつける、みたいな。これは泣ける作劇ではあるんですけど、今それを設定だけ模倣して泣けるかって言うと、難しい。既成の物語枠の中で人物が動かされているだけ、という風になりかねない。人間から物語が立ち上がると同時に、その人間の行動に外側から襲いかかって来る物語がある、作劇というのは単に設定というだけではなく、そういううねりを作り出すことだと思いますね。」「うねりを作り出すこと」が演出家としての高橋洋の挑戦という解釈は安易かもしれないが、10年以上前の記事で最も印象深いフレーズだ。

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「あの世」をめぐって、恐怖する人々についての映画が『霊的ボリシェヴィキ』だとすれば、『奈落』は涙がキーになる。幽霊の登場が「泣かせる」として、なぜ泣けるのか。まるで映画での涙の機能について受講生の脚本を通して探求するきっかけになるような(それでいて涙も乾くような展開へ行き着く)興味深い一本だった。

「泣いているの?」、そう聞かれた時に本当に男は泣いていたのか、宙づりにされる。人前では涙を見せるように思えない男の佇まいが素晴らしくて、女二人と違って台詞を奪われたような(良くも悪くも後輩の女学生による「○○さんの時計だ」という台詞が幽霊の登場をわざとらしく告げる)、吸わない煙草を咥えた彼の感情の読めなさが何より良かった。幽霊以上に、彼への演出に賭けられた映画かもしれない。涙を画面にはっきり映すより得られる効果があって、幽霊との会話へストレートに感動しつつ、一つの解釈を許さない。

「死ぬ価値のある人間になりたい」、死んでからも誰かの記憶に残り続け惜しまれる人物になりたいと話してから本当にこの世を去ってしまった元恋人の霊が姿を現す。彼女からの成人祝いの目覚まし時計は、私のことを思い出してくれるために毎日見るモノとしてプレゼントされた。いかにも男は彼女を失ってから停まった時間を生きているようだが、いざ目覚まし時計をベッドへ向ける時、彼女の願いと男の行動は決定的にすれ違ったようにも見える。おそらく「奈落」というタイトル通り、死んでしまった彼女の向かう先は闇だ。時計のラストショットが『霊的ボリシェヴィキ』の眼と呼応する。「死ぬ価値」とは何だったのか。