デヴィッド・ロウリー『ピートと秘密の友達』。ピートが交通事故を悲劇と認識する前に冒険の始まりと感じたかのように、自動車は宙を舞う。そして視点は事故を引き起こすきっかけになった鹿へ切り返し、少年のすすり泣きが聞こえてくる。彼自身の主観が悲劇を悲劇と認識させない段階と、むしろ幸運な(しかし以降姿は見せない)鹿からの視点に挟まれ、映画は少年の冒険に対し一定の距離を置く。

彼と出会った竜は、絵本「迷子のエリオット」から名付けられる。それは映画の最後まで見ると彼もまた冒険に出た親のいない子どもだったと想像できるが、そのような連想は観客の自由に任せられているのだろう。ただ竜と少年、エリオットとピートが同じ方角を見つめ、森へ向かう。おそらく彼らは同じものを見聞きしている。そう思わせるからこそ胸に迫る演出がいくつもある。

しばしば小津に対し言われるように、並んだ二人が同じ方角を眺める(しかもそこにはっきりとした対象が見えるのか曖昧である)行為と、不意に振り返った相手と見つめ合うことになる、この位置関係が(ややしつこいくらい)繰り返される映画だ。同じ方角を何人かの人々が見つめること自体、映画的な状況だと思うが、その対象、もしくは一緒に同じ方角を並んで眺める相手が透明になれる竜なのだ。竜の姿が消えてしまったかのように見えてしまうときに風は吹く。逆に風さえ吹かない時は透明になっているだけで、実はまだそこにいる。この風が素晴らしい。風は彼とのわかりやすい決定的な別れを、あえてひたすら遅延させ、そのような「瞬間」など映画にわかりやすく用意しない。終盤の、これといった画面の加工もなく、ただエリオットの触れた絵本だけが映るカットには、風さえ吹けば竜の存在を表現できることを(『キャットピープル』のように)意識させてくれる。

どの役者も愛しいが、ロバート・レッドフォードが抜群に素晴らしかった。彼が「(少年が)六年も一人で生きられるわけがない」というように、そんな時間の止まった世界を生きてきたようなピートとエリオットも当然最高だった。竜のエリオットは最初に「NO」と優しく語るように鳴くが(新しい『猿の惑星』を思い出したが、あっちは怒りと抵抗の「NO」だ)、それにしても絵本とエリオットだけで言葉を覚え続けているという、しかも野生児かターザンばりに動き回るという、ありえないといえばありえない、どちらかといえば古典映画的な設定を現代の映画に移植したときに生じるズレを意識させつつ、ユーモアある演出でもって見せている(ドラゴン狩りに出た大人たちのうち一人が絵本の存在に気づくまでの間を挟んで、彼らが銃を撃つ間などなかったかのように逃げ惑うコミカルな展開へ一転させる演出の批評性も面白い)。ピートの両親の死についてブライス・ダラス・ハワードが彼と語ろうとする時の、すでに少年が両親の死を知っているために、安易な親子関係が築かれるのを避けていくようにすれ違う会話も良い。

たえず視点の替わっていく追いかけっこの映画でもあって、ピートの行方を追うエリオットのもとへ、不意に少女の歌声が重なるあたり涙なしに見れない。(そういえばデヴィッド・ロウリーは影響を受けた映画たちの話で、モンテ・ヘルマンの映画についても触れていた。)

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