川田真理監督の『タクシー野郎 昇天御免』は「種馬」の映画だった。主人公は「種馬」でも、この映画に馬は出てこない。代わりに、窓の外は合成された風景となって運動性の排除されたタクシーを舞台に、移動と性交が行われている。向かい合った夫婦の悲劇と、一部始終を目撃した夫の同僚との境に窓があるように、あえて組み込まれた枠や仕切りによって、映画から意図的に「馬」の持ちうる運動が奪われる。そこに『ホーリー・モーターズ』後の映画という批評性があると思う。

ギャグというギャグは不発気味で(異なる志の監督とわかっていても中野貴雄のほうが素直に楽しめると思う)、オタク趣味からも遠い、この映画の寒々しさが見ているうちにクセになる。その一方で素早い拳と共に、不意に人物の動きを停止させる、血飛沫の舞うカットが異様に決まっている。

同一人物かも、そこに本当にいるのかもはっきりしない妻を追って、急に夫が車外へ駆け出す時、または車内へ異なる時制にいるはずの妻(と同一人物かと思われる娼婦)が姿を現す時、この映画を仕切っているはずのフレームがゆらぐ。完全に、この映画から「笑い」を求めるのはやめた。終盤の死闘(主演男優の顔に別ジャンルを思い出していたから納得した)の最中も、画面外との連動を拒むような車内のカットを挟むことで、そもそものパロディ的なおかしさからも、ある寒々しさからも距離が置かれていく。

留置場での範田紗々の登場には、この映画のフレームを文字通り破壊する運動として爽やかな感動を覚えたと同時に、対比されるような特撮の用い方には、この映画のもつ細部へのこだわりと手段と選択が刺激的だった。

スクリーンを占める人工物たちの一方、乳房のアップに、『ザ・ウォーク』の綱渡りよりも激しく映画の奥行きを狂わせるようなものを見たい。