ジャームッシュ『デッド・ドント・ダイ』。「これは人生のベストになるんじゃないか」というくらい期待していたので我慢できず。
予想以上に変な映画だったが、これはこれでいま見るのに相応しいかもしれない。何より黒い煙がいい。攻防が始まると、さすがの距離感で一気に引き締まる。もう少し長くビル・マーレイたち以外の戦いを見ていたかったけれど、その短さも映画全体の救いのなさを考えたら、たぶん正しい。
既に良くないことが起きると、もう映画の内も外も、誰も彼もわかっている。アダム・ドライバーも『SHARING』や『デッドゾーン』みたいな予知能力か、もしくはすでに死んだ人々(それはこれまで映画で死んできた人々かもしれないが)の霊かもしれないし、それ以上に他人事のように振舞っているようにしか見えないがスマホを片手に不安を抱えて生きる態度なのかもしれないが、いずれにせよ単なる楽屋オチやジャンルの解体に済ませられない、この映画の明日の無さを思えばシリアスな設定だ。さすがにトム・ウェイツはうるさいが、この観客をバカにした感じもまた惹かれる。クソみたいな、出来の悪い「まずい結末」へ向かって、たいして頭も使わずに向かうことを嫌というほど繰り返してきたのかもしれないし、スマホSNSで「まずい結末」を今日も繰り返すのだろう。ゾンビたちがWiFiを求めて彷徨い、豪華役者陣はゾンビにも人間にも見えない時がある。そして親を知らない子どもたちの未来は誰にもわからない。ただビル・マーレイが「見たことある」という、これまた生きていたころを知らない少年少女のゾンビたちを見ながら大人たちは何を思うか、映画でも言葉にされない。そしてビル・マーレイの過去でさえ、観客は知ることができないが、現実だってそんなものだろうし、知ったところで何も変わらない。過去を知らない死者たちの情報ばかり。

『金魚姫』(演出:青山真治)

www4.nhk.or.jp

たぶんテレビ画面内で一々寄ったりしなくても出たり消えたりを楽しめる大きさが水槽内の金魚くらいのサイズかもしれない。

一寸先は何が起こるかわからない。志村けんだって死ぬし、見たことも聞いたこともない人々が毎日のように死んだり罹患したりという報せばかり届き、そもそも「見る」最後の習慣かもしれないテレビだって何年もまともに見ず、見る気も起こせず、ネットとスマホばかりで、それもtwitterなら見出しだけ見てRTやいいねしてお終いで中身も読まず、集中力が削られていくなか、『金魚姫』の今さっきまで見ていた何かが不意に消えてしまう、ぼんやり見ていると思った以上に展開はあっという間に過ぎてしまう……そういう「映画」というか、今やテレビを一番まともに見ていない人間にとって「映画」と安易に言っていいのかわからないが、その90分がなければ失われるかもしれない時間がある。

『警視K』や実相寺昭雄とかに比べても、テレビに暗闇のことをどれほど期待できるか、いま見た画面は暗かったのか、美しい色だったのか判断する能力が自分にあるのかわからないなら(序盤の赤を「美しい」と言っていいのか自分が判断していいのか不安になる……、これは最近鈴木知史『暗い部屋の記憶』を見た時も感じた)、あとはカットと繋ぎと記憶への揺さぶりなんだろうか。

中尾ミエだ!」と妙な興奮をしたところへ、志尊淳に切り返すかと思ったら、またも中尾ミエに寄って、引く。ストローブ=ユイレで見た画の繋ぎ。もしくはドラマ上の切り返す相手が画面外から消滅して中尾ミエしかいなくなったような気になる編集。または黒ランチュウの、息絶えた男のアップの、そのフラッシュバックは誰の目線なのかはいくらでもいじれるという繋ぎ。『ペコロスの母』じゃないが、酔ったり、ボケたり、記憶と主観の混乱が死者を自分の頭の中でだけでも蘇らせるような経験はあるのだろうが、だからといって映画の幽霊たちを否定することはできない。ここには幽霊たちが、死者たちが映っていた。少なくともカメラの動きや繋ぎの違和感が、いま映っている誰かがもう死んでいるんじゃないかという予感だったのかもしれない(例えば不謹慎だが現実に中尾ミエが死んでも、この予感は消せない)。男女の間に入ってきた誰かによって、ある人情味ある芝居(最近武田一成の『のぞき』を見ながら、ポルノなんて本気にしてはいけない男女関係であっても「情」らしき泣かせる何かの発生する謎を感じていた)を期待し、予感し、しかしぶった切られる。だがそこに寂しさを感じられるだけ、やはりドヤってしまうが「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ」なんだろうか。「生きてるものと死んでるものの違いがわからない」という金魚姫に、『オペレッタ狸御殿』の人と狸の恋がどうにもこうにも重なる(金魚との同棲だから『蜜のあはれ』を鈴木清順が撮るかもしれなかったとか、『散歩する侵略者』も最初は金魚だったとか、見る前から余計な連想はした)。金魚姫は幽霊に「鏡を見ろ」という。どこかからやってくる死への誘惑がはびこる現状で、「幽霊」を演じる人を見てしまう観客(視聴者)へ映像がかけられる言葉の一つかもしれない。

(個人的にはロマンポルノとか見ていた反動からか)全部を見せないベッドシーンにむしろドキドキする(『オペレッタ狸御殿』の山根貞男の指摘もセットで思い出した)。勝手に瀧本美織は『かぐや姫』の声優だっけとか酷い記憶違いもしていた(でも朝倉あきと同い年だった)が、『風立ちぬ』の「来て」から「抱いて」という、違うバリエーションの声を聞けた。なら『ポニョ』と比較できるのか?とか宮崎駿に対する鈴木清順的な批評(ルパンの組み合わせ?)なのかもしれないが、そんなこと考えても退屈で嫌になる。品種改良の世界は『運び屋』のデイリリー?とか、しかし突然変異のランチュウとは結局どこから来たのか?とか、「ザブン」と沈む音と波紋だけがいきなり映るというのの最初は何だっけと思い出せない勉強不足が嫌になるがアスガー・ファルハディの『誰もがそれを知っている』でも見た!とか、キン・フーというか『黒衣の刺客』とか、なぜだか國村準も『ウルヴァリンSAMURAI』に出てきそうに見えてくるとか(この空間を見て、もっと違う映画を思い出すべきなんだろうが)、このままだとラストは『(秘)女郎責め地獄』みたいな光景になるのかな?とか、当然いろいろよぎったことを羅列して書いても何の本質にも触れられない。

上映会を明後日に控えて

https://www.facebook.com/events/1840735979393346/

 

上田真之さんの『FRAGILE DO NOT DROP KEEP DRY』(2016)、早稲田松竹プログラマーでもある上田さんのようにカメラの前に立つことのないはずの人間(決して被写体向きではないという話ではない)が本作では堂々たる主演である。撮影のkaeさんと自らの間の距離を縮めたり広げたりしながら、上田さんは何かからの「逃亡劇」を企てる。他の上田さんの映画からは想像できない、誰のものかもわからない映画が転がっていく様がスリリングである。

https://realsound.jp/movie/2017/01/post-3661.html

白岩義行さんの『気分』(2016)。僕が初めて見た白岩さんは、木下亮さんの映画『旅の口実』の主演としてである。今回上映されない白岩さんの初期作も、白岩さん自ら主演を兼ねている。しかし『気分』に白岩さんは登場しない。だがそのシンプルさは揺るがず、出たり消えたりを繰り返す女と男の「気分」というタイトルが驚くほどふさわしい大した物語もない本作は、白岩さんの消えた白岩さんの映画である。異様な空洞さ。

https://www.youtube.com/watch?v=qlE9rUb4gc8

深田隆之さんの『私のための風景映画2020』。風景映画と呼ぶべきか、それとも日記映画と呼ぶべきか。そして「私のための」ものを私以外に向けて上映するとは。そもそも「私のための風景映画」とは。風景。この始末に負えない映像の厄介さ。深田さんは「海に浮かぶ映画館」の館長であり、『ある惑星の散文』という、まるで船の上で上映されるために作られたような映画の作家である。そして『私のための風景映画』もまた、船と切り離せない映画である。深田さんはカモメでありながら、カーテンにそよぐ風でもある。

https://fukatakamovie.jimdofree.com/about-me/

解説というには抽象的な紹介で申し訳ないが、どこへ行っても映画の感想を語り合うことになればピントのずれたことしか言えず誰の参考にもならず、誰からも相手にされない、誰からも興味をもってもらえたことも、誰からも面白がられたこともなく、どうせ何も感じないくせに賢そうに振舞ってはさらに陰でバカにされるような(こう言ってしまうのが『悪しき習慣』である……こんな自作紹介でいいのか?)僕からは今日のところはここまで。

http://nakayama611111.hatenablog.com/entry/2020/02/23/224957?fbclid=IwAR0k13L7PCtsg9YL6zYdHsurljR6gf47Q76hhZ02MTN3Q4UivbSPOu43Zn0

上映会告知『知らぬ間に、あなたの隣に映像が!』(仮)

久しぶりに上映会を開催します。

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www.facebook.com

予約ご希望の場合はイベントページの「参加予定」にチェック、もしくは下記連絡先まで連絡をお願いいたします。

nkh_irotaka●yahoo.co.jp(●を@へ変更して送信してください) 


日付 3/21(土)17:30~21:00予定

会場 キノコヤ(多摩市関戸4-34-5)
開場 17:30
上映 18:00~20:00(仮)

料金:500円 ※プラス1ドリンク注文制

※上映直前のドリンク注文は混雑のおそれがあるため、イベント終了までにご注文お願いいたします。
上映後の作家4名によるトーク 
中山洋孝・上田真之・白岩義行・深田隆之

【これがいったいどんな上映会なのか、何か書こうとするたびに「風景」という言葉が出てきて、その響きの恐るべき退屈さにつまづいて先に進めないまま一週間近く過ぎた。
「風景」この死ぬほど退屈な文字。その文字と、窓の外に見える「風景」を眺めながら、何も思い浮かばない日々が続く。無力感と、ここに座っているだけでは何も変わらないという焦燥感。
何事も現場任せで責任など一切取る気はない無能のくせに、やれ迷惑だ帰れだなんだ、少しでも目下と判断した相手には怒鳴り散らす自民党パワハラ精神論が災いして、どれほどコロナウイルスが蔓延しているかも怪しい、マスクと除菌グッズの手放せない、でもどこもかしこも売り切れの日々(そもそも開催できるのか?と書いてしまうほど当事者意識を欠いた態度もないだろうが)。
はたして今回上映する映画は、目の前の光景にどれほど見えない何かが存在していること、それがついに可視化される(かもしれない)予兆に向き合っているのか?】 
(文:中山洋孝)

 


上映予定作品:計6作品 2時間予定

※上映順になります。

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中山洋孝『メモをつけられない習慣』



『悪しき習慣』(2020年 撮影・編集:中山洋孝 30分)

『メモをつけられない習慣』(2019年 撮影・編集:中山洋孝 5分)
何も書けない、何の解決策も思い浮かばない。そこへ猫やカラスや、小動物たちがやってきて「この人間は何の主義主張もせず横になっている。なんと怠惰な生き物なのか」と思い思いに嘲りだす。
※ほか中山監督作品一本予定。

 

 

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『FRAGILE DO NOT DROP KEEP DRY』(2016年 監督:上田真之)



『FRAGILE DO NOT DROP KEEP DRY』(2016年 監督:上田真之 31分)
ドイツで活動するアーティスト:kae sugihaとの共作。kaeの主催したダンス、音楽、映画のイベント「三-san-」のために作られ、イベント以外で上映するのは今回が初。
兆候(サイン)を見いだした男が、発見から発見へと少しずつ確信していく使命(ミッション)。巻き込まれながらも、忍びやかに加速していく、あまりにも無謀、あまりにも頼りない逃走型スパイアクション。

 

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『気分』(2016年 監督:白岩義行)


『気分』(2016年 監督:白岩義行 17分)
2016年に、kumagusuというバンド(

https://kumagusujp.tumblr.com

)のMVをつくった流れで彼らのイベントで短編映画の上映をしないかとの話を受け、バンドのgt.vo 井上Y を主演とし制作した作品、上映はそのイベント以来となる。
日々を無為に過ごす男と時折男の前に姿を現しては消える少女。少女は気紛れに現れては消え、男は気紛れに少女のあとを追う、そして気紛れに流れていく映画、日々。

 

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『ツリメの』

kumagusu 『ツリメの』(2016年 監督:井上Y 撮影・編集:白岩義行  3分)
「クソ怠い暑い夏にはスカッとするようなツリメの女に会いたい」という曲、のMV。本作をつくったのち、バンドのイベントで短編映画の上映をする事となり『気分』を制作した。

 

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『Thirsty』

片岡フグリ『Thirsty』(2017年 監督:白岩義行 5分)
MVをつくる際は、元来の自身の映像とは趣の異る映像をつくる事が多いが、本MVは自身の映像の趣に近く、短編『気分』とも通ずる所の多い作品。

 

 

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『私のための風景映画2020(仮)』深田隆之

『私のための風景映画2020』(仮)(2020年 監督:深田隆之 20分予定)
※近日中に解説掲載予定。

 


プロフィール

 

中山洋孝
1986年生まれ。映画同人誌『DVU』編集(~2012年まで3号発行)。ブログ『誰も呼んでくれない夜』http://nakayama611111.hatenablog.com/
監督作『省エネ生活党宣言』(2011年)『私ももうじき三十歳』(2015年)

 

上田真之
名画座早稲田松竹でプログラム編成をしながら、インディペンデント映画の製作・配給に携わる。『携帯電話はつながらない』『五月のこと/部屋の中の猫』監督、『祖谷物語~おくのひと~』脚本・制作・配給、『泳ぎすぎた夜』助監督。

 

白岩義行
1984年生まれ。大学卒業後、会社員を経て、2012年、28歳より映像制作を開始、同年、イメージフォーラム映像研究所の講座を受講、8ミリフィルムにて短編、中編映画を数本制作。
2013〜16年 塚本晋也監督作品『野火』にスタッフで参加
以後、時折小規模、自主等の映画に参加しつつ、音楽関係の映像、写真を中心に、活動中。

 

深田隆之
1988年生まれ。
2013年、短篇映画『one morning』が 仙台短篇映画祭、Kisssh-Kissssssh 映画祭等に入選。2018年、『ある惑星の散文』が第33回ベルフォール国際映画祭(フランス)の長編コンペティション部門、国内では福井映画祭にてノミネート。2019年4月アメリカ、ポートランドで行われたJapan Currents、日本映画特集にて上映。また、2013年から行われている船内映画上映イベント「海に浮かぶ映画館」の館長でもある。iPhoneを使用した日記映画『私のための風景映画』を日々制作しvimeo上で発表している。

 

2019年ベスト

『アド・アストラ』(ジェームズ・グレイ
『ダンボ』(ティム・バートン
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ
『運び屋』(クリント・イーストウッド
『さらば愛しきアウトロー』(デヴィッド・ロウリー)
『ある女優の不在』(ジャファール・パナヒ)
ポルトガルの女』(リタ・アゼヴェド・ゴメス)
『イメージの本』(ジャン=リュック・ゴダール
『8月のエバ』(ホナス・トルエバ
『ドール・メーカー』(トム・ホランド

 

次点『ミラリ』(ジョー・ダンテ)※『マスターズ・オブ・ホラー』の一編
『カツベン!』(周防正行

 

演劇『しがさん、無事?』(青山真治

 

『ミラリ』。オムニバスのどれも半端に過剰にはしゃいでいる愚策凡作の中で、唯一落ち着いた演出で見るに値する映画をジョー・ダンテが作る。あまりにも先の読める話で退屈かもしれないが、それでもリチャード・チェンバレンに今更マッドサイエンティストを演じさせるという発想も、ヘンテコな夢のシーンで首を傾けてニコニコ笑いながら手を振らされているのも(もはや「悪夢」と呼んでいいのかもわからない)ジョー・ダンテの映画でしか見られない光景か。夜中にヒロインの悪夢の続きか現実か曖昧なまま廊下に出るとカメラが傾く。『マチネー』の避難訓練や、母親がフィルムを映写しているシーンを思い出すが、その傾きで映像に複数の意味を持たせるのがジョー・ダンテの魅力なのか。

『カツベン!』。接吻シーンと、それからのあれこれに深く感動。周防正行監督の映画は物凄くエロティックな逸脱をしそうになる時が一番いい。

ポルトガルの女』。ジョン・フォードの映画に出てくる居留地を思い出す舞台、ほぼフィックスのワンショットで撮られた空間を人物たちがそれぞれ予期せぬ方へ行き来し、人間たちに比べてどれほど演出されたのか謎めいた動物たちが移動する。戦地の夫を待つ妻の日々はまるで時間の停まった世界のようで、どこへ向かおうとしているかわからない停滞感が凄まじい。妻はETに見える猫の像を作っているかと思えば、予想外の切り返しでもって復活した夫は狼を殺す。動物不在のショットで語られる「時間」についてのやり取りにおいて、戦争と男女の時間に対する感覚の相違が語られる(と思う、うろ覚え)。クライマックスは男女がベッドインしカーテンの閉じられるまでに至るという、わずかなドキドキへ行きつくのがいい。

『8月のエバ』。ロメールの諸作のように日付が記される。しかし夜中のシーンで日付が映され不意を衝かれる。単に夜中に日付を跨いだだけかもしれないが、ホン・サンスの反復する夢のようではなくても、時間感覚を乱してくる。窓の外から音や光が入り込み、様々な人物の話も入り込んできて、それをもしもすべて映したら2倍の260分くらいに平気で伸びていたかもしれない。しかし『8月のエバ』はダラダラ過ぎていく時間としてではなく、密室におけるヒロインの肉体に光を反射させる。130分と決して短くないが、それぞれの場面が光と音の極めて密度の高い結晶と化している。

『ドール・メーカー』。『サイコ2』の脚本家によるリメイクのようだが、常にどちらとも解釈できる曖昧さが一時間ほど溜まった結果、ついに弾け飛んでからのヘンテコな展開の連続。ラストショットの悲鳴とナイフが忘れられない。

『香港パラダイス』(90年 監督:金子修介)

www.youtube.com

www.shogakukan.co.jp

本作の助監督の片島章三は『カツベン!』の脚本・監督補でもあるが、90年にできていたことを2010年代の締めにやる意義を確かめるためにも両方とも見るべきなんだろう。バブル特集が、たとえば国定忠治特集を控えているような名画座で上映される最後の時代の日本映画であって、これより後はさらに歪な映画たちになっていくのかもしれない(非常にいい加減な推測だが)。
小林薫が死んだかもしれないという場面が一時停止したように見え、絶体絶命かもしれないピンチの合間に「ちょっと何(スカートのなか)見てるんですか!」の一声でリセットされたように前後がどうでもよくなる。小林薫の嘘と斉藤由貴の記憶喪失に何度も振り回される映画だが、ついには「何度も何度も……」という台詞でもって、それが斉藤由貴でなく淡路恵子の過去であってもかまわないと言わんばかりに、時をこえて二組の男女は結ばれる。
事態をかきまわす脇役のなかでも内藤陳は斉藤由貴に催眠をかけた瞬間はあいまいだが、本当に解いているのかはさらに不明にされるくらいいかがわしいが、小林薫が見送る合間にバタバタ動いている姿はなぜか感動的である。さらに催眠術を使えているのか怪しい天本英世はスクリーンを煙幕と火花で覆う怪人として活躍する。「俺の責任だ」という台詞も、あまりに遠回りな目的達成のための本当に必要かわからない役にふさわしい一言だ。シャークもどきの我王銀次もなかなか面白かった。阿藤海ふくめ、この5人が既に亡くなっているだけで、世の中だいぶ変化しただろう。

『カツベン!』

http://www.shinwasha.com

『ワンスアポン』や寅さんの亡霊がやってくる年に『変態家族 兄貴の嫁さん』の作家が『カツベン!』を撮るのは、もう何の驚きもない必然に見えてくる。
もう渥美清はいないということを映画館にわざわざ確認しにいく意味は所詮かつての輝きにすがるだけだろうが、それよりも『カツベン!』の竹中直人を見るほうが、そこに映画を引っ張るに相応しいコメディアンが存在しないことを嫌というほど意識させられる。おそらく映画を監督できなくなってからか益々悪化している竹中直人の本当にどれほど笑えるのか面白いのかも非常に怪しいアドリブが(はじめての組み合わせではないのはわかっているが)、何十年かしたら誰だかよくわからない漫才師がゲスト出演したみたいか(『化け猫御用だ!』の中田ダイマル・ラケットだって、正直もう僕にはよくわからない)、もしくは永瀬正敏のアル中弁士の役を竹中直人のほうが演じてしまっていたかのように、あえて残される(それでもフィルムを荒らされてから嘆くシーンは殴り込み直前みたいで悪くない)。
すっかり『フレームの外へ』(赤坂太輔)にかぶれた言い方をするなら「限界」を示す映画かもしれない(『冷たい血』の石橋凌と比べて本作の永瀬正敏に清順・宍戸錠がよぎるのは、指摘しやすいオマージュの一つくらいかもしれないが、あの水筒が撃たれるのはいい)。かつての日本映画たちと同じものがやってくることなんか誰も期待していない。そんな時に、見れなかった『ジゴマ』の代わりに少年が少女に弁士の真似を演じる映画、もしくは映画そのもの以上に、上映の場にいる弁士と観客の反応こそ見る映画が試みられるのはふさわしい「歴史の流れ」かもしれない。しかしそんな映画を本作の環境で叶えることはなく(本当に舞台上で貫禄を出すのは渡辺えりくらいというのが阪本順治と比べたくなる)、むしろその「できなさ」に感動する映画になっている。ただその「できなさ」を意識してるかわからない成田凌はじめ若いキャストほど美しい。
追記:映写中の闇に隠れた存在としての弁士のはずが、おそらく作家が求めたほどの闇が許されなかったのか、弁士と観客が互いを見えているのかいないのかが曖昧になる。その曖昧さは映画館の闇から離れて、少年時代から数年の時を経て再会した男女(さらには竹野内豊)が互いの顔を認識できたのかどうかへとズラされる。そこに「限界」への意識を感じる。
何よりの「限界」は守られない約束についての映画としてシナリオレベルにも反映される。『変態家族 兄貴の嫁さん』の作家にふさわしく、感動的なパロディである。そこに小津は当然よぎるが(笠智衆らしきエキストラたちと三人組の戦争帰り)、『折鶴お千』のように苦しむ成田凌からの溝口のパロディとしてよりも、本来食い合わないはずの映画たちを結びつけた結果、男女の別れが「守られない約束」として残ったようだ。フィルムの切れ端を繋げての上映以上に(ラストシーンは正に自らのキャリアの切れ端を繋ぎあわせたようだった)、それが男女間のボタンの掛け違いとして「男なんかどれも同じ!」という接吻で極まるところが何より泣かせる。
弁士の映画だからか、「これ以上の説明は映画を殺す」と言わんばかりの、ギリギリの親切さ。成田凌がトラックの荷台で悪漢の手を放したり、札束入りトランクをわざと交番前に置いてこうとしたり、それがギリギリ説明過多にならない心理描写なのか(だがそれはかつて弁士たちの担った役割とは別の話だろう)、どれほどなら喋りすぎでないのか、そんなの説明しなくてもわかるくらいなのをスローに確認しているようでもある(「スロー」といえば高良健吾の喋りに合わせて映写の回転速度を落とすシーンもあった)。あのクライマックスの、壊れた自転車と人力車の追いかけっこという、降りたほうが早いし、それを観客も突っ込みながら見れるシーン。どちらもが同じフレームにいたのが、成田凌が降りてくるときになってようやくフレーム外から転がってきて不意をうつ。そもそも冒頭、少年がなぜ撮影現場へ犬を放したのか、単に引っ掻き回したかったのかもわかったようでわからない。その曖昧さは映画完成後に永瀬正敏活弁により代弁されるが、勿論真実の動機ではない。この種の曖昧さは映画を生かすギリギリの蘇生ラインなのか、何をもって映画ならではの偶然なのか、ご都合主義なのか(あのピストルは弾切れじゃないのか)。それを疑問に思える人のためなのかは非常に怪しい。ましてや『カツベン!』を見て「現代映画」に目覚める可能性はさらに低い。ただ、どこか「これで受け入れられなければいよいよ日本映画は死ぬ」というラインを記録したようでもある(周防正行ジブリが引き受けてたラインを継ぐのだろうか)。