『呪怨 呪いの家』(脚本:高橋洋・一瀬隆重、監督:三宅唱)

『未来の巨匠たち』より「三宅唱監督について」(田中竜輔)

http://blog.livedoor.jp/mirai_kyosho/archives/cat_50040450.html

「楽しい三宅唱」(工藤鑑)

http://blog.livedoor.jp/mirai_kyosho/archives/51401613.html

「ワンピース!新旧バトル」について

https://pff.jp/39th/lineup/one-piece.html

 

 

霊的ボリシェヴィキ』の流木を見下ろす「釈然としない」感じこそ近年の高橋洋の本領発揮だとしたら、今回もスッキリした解決もなく話そのものは終わった。だがその終わりは『やくたたず』はじめ三宅監督の映画らしく、この後もいくらでも続けられそうな「始まり」の予感を残した(実際「シーズン1」と書かれてはいるが)一応の終わりでしかなく、その意味で『呪怨』の前日談(?)に相応しい監督かもしれない。穴を掘っていた彼女が消されて終わりではなく何となく平然と7話へ続いてもおかしくない(『Playback』のラストカットか、もしくは不動の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか何となく『ファンタズム』とか)。

それでももうしばらくホラー映画は見なくていい、新しく作られても興味は湧かない気がした。無理して幽霊らしきものを出したり消したり幻視したりする様を演出するのなんか無意味だったかもしれない。少なくともある時期までは映画に幽霊は出せたかもしれないが、実はもう撮れなくなってしまったのか、それか誰も人と幽霊の見分けがつかなくなってしまったのか。それくらい、いま目の前にあるものへの関心に振り切っている。いま映っていない何かの予感というのを排除する。かつての『呪怨』以上に、人が扉を開けて入るシーンを撮る。ただしそこから抜けられない。おそらく脱出という概念がない。『果てなき路』がよぎるのは三宅唱監督がモンテ・ヘルマンの家に行ったという話があるからだろうか(『キューブリックの恋人』なんか実話怪談っぽい)。急な人物の消滅も(すぐ連想してしまうのは『ツイン・ピークス』シーズン3の電撃だが)そこに叫びと振動と焼け焦げた跡を残す(ただこれも実話か?)。本当に突然消えるなんてことはない。ディスコの女の子二人も消えるというより、扉を開けて先へ行っただけのように、いつか姿を見せるだろう。『スパイの舌』第三部のようにモノクロ映像との切り返しもあり、窓の内と外が時空を超えて現在として結び付けられる(『マイムレッスン』の段階で少なくとも繋ぎは意識される)。あの家の時空が捻じれて、鏡が目につくのは(監督自身が映画秘宝インタビューに『マリアンヌ』を出しているように)ゼメキスをどうしても連想させる。

ゼメキスの映画は怖い。『ロジャー・ラビット』オープニングのアニメさえ怖いかもしれない。だが『呪いの家』は恐怖以上に、いやな感じが上回る。それはディスコなら渡辺護、若い娘の犠牲者ならウェス・クレイヴン、肉体と物体の融合ならクローネンバーグ(いや受話器ならウルマーか?)、窓ならジョン・カーペンターとか、あてもなく思い浮かべたところで答えになるかわからない。なにげにこの胸騒ぎが収まらない家庭は『王国』(草野なつか)に近く(足立智充も酷い目に)、問題の電話機と胎児を抱える松嶋亮太(『恐怖』『呪怨 黒い少女』『スマホを落としただけなのに』)は濱口竜介に見えなくもない(と知り合いが言っていた)。それでもこれは恐怖なのか宙づりにする感じは三宅唱×高橋洋だからこそ辿り着いたものに違いない。

やはり驚くほど(当たり前か?)三宅唱監督の要素は詰まっている。三宅監督の作品が増えるほど、ようやく何か言えた気になれるかもしれない。『スパイの舌』からはモノクロの窓だけじゃなく妊婦の腹(『ミュンヘン』?)も電話のコードも出てくる。交霊のシーンさえ三宅唱ならワンピースシリーズの焚火を囲む『2067年、東京』を思い出す(鈴木卓爾監督が「三宅監督はワンピースが1カットではなく、タイトルと映像の2カットの繋ぎによるものだと知っている」と評していた)。そもそも西暦のタイトルも、このいつまでも学生服の人物が動き続ける繋ぎを見るのも『Playback』どころか『1999年』(工藤くんが見たという噂の『ランニング・ショウ』?)から始まっていた。

それでも高橋洋の映画にどう言っていいのかわからないし、三宅監督の映画は感想がなかなか言えない。『一度も撃ってません』酔っぱらった殺し屋の夜を、もしくは『デッド・ドント・ダイ』闇に浮かぶゾンビの顔を、あと何度新作として見れるだろうとか、まだまだ若い癖に背伸びして感想を書きたくなるが、三宅監督の映画はそんな決定的な最初に立ち会えたような勘違いはさせない。あくまで現在。誰が『密使と番人』を見て「最後の時代劇」とか言って決定的瞬間に立ち会った気になるだろうか。『無言日記』のそれは一回限りか何度も繰り返させてきたことかは誰にもわからない。映画は荒川良々の研究者のようで、そうでもないのか、わからない。自分がなぜこのような「行っちゃいけない」場に選ばれ、立ち会う運命の中に生まれたのか、答えを言っていたのか思い出せない。そんなことにいつまでも興味を繋ぎとめない。毎週我慢する必要もなく暇さえあれば一気にラストまで見せてくれるネットだから、熱しやすく冷めやすいかもしれない。そして夜がそんなに怖くないのも、ここにはやはり霊と人間を、闇と光を、色彩の存在を見分けられる人間こそ消滅しつつあると、「映画とはこういうものだ」みたいに若者の悩みなんかどこ吹く風とばかりにやってきたことを、さらっと「それはできなくて仕方ないんじゃない?」と優しい声で絶望に突き落とすようにささやいているのかもしれないが、いや違う、見分けられないのは他でもない「これを見ているお前なんだ」ということだ。

映画秘宝高橋洋インタビューも読んだ。一番興味深かったのは「天皇崩御はあえて触れなかったのですか」という問いに「霊的国防」にまで話を広げると収拾がつかなくなる、そういう背景に触れないと単なる時代区分の記号みたいにしか思われないのではないかと外したという点だが、これは結構引っかかる。霊的国防版『呪怨』もぜひ見てみたいが、それは『共食い』ラストがラジオなら、こちらはテレビに文字が出てからの女子高生コンクリ詰め報道を経て禍々しい平成の連鎖は十分にアリかもしれないし、それこそつまらない発想なのかもしれないが。ただ「時代区分」というのを何としても避けたかったと解釈すべきなんだろうか。

ジャン=クロード・ビエット『Le Champignon des Carpathes』(1988)

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広島国際映画祭のディアゴナル特集でビエット『物質の演劇』を見たとき、上映前の新田孝行さんが解説されていたが「バケット……、このバケットが実によくて」と繰り返していたのを、なぜか映画で見たバケットよりも覚えている。はたしてバケットを食べるシーンがあったのか記憶力が弱く思い出せない。だが本作ではホットミルクらしきものを入れたカップが出てきて、それを飲む。
ディアゴナル特集のほぼすべての映画にハワード・ヴァーノンが登場するのでジェス・フランコやマブゼ博士の手下や『海の沈黙』『アルファヴィル』のインパクトを通り越して「何にでも出てくれる人」として有難みも無くなったが(同じくほぼどの映画にも出てきたミシェル・ドラエのほうが味のある脇役として外せなかったし、石井輝男の映画に出てくる由利徹大泉滉くらい安心感さえある、というようなことをみんな言ってたはず)『物質の演劇』にもハワード・ヴァーノンがいたのは間違いないが、この演劇集団にマブセ的ないかがわしい印象を与えていた気がする(見直したい)。
今回のハワード・ヴァーノンは、最初は舞台上で照明を当てられてドラキュラ顔に陰影をつけられたりしていたが、いつになく人間らしい穏やかな光が差している。彼の家へトニー・マーシャルが訪ねてきたとき、トイレ掃除でもしていたのか、黄色いゴム手袋をして出迎える。彼はゴム手袋を外しながら彼女と席を共にする。この黄色いゴム手袋がいい。彼が何の掃除をしていたかもわからないが、(先の何が入っていたのか見えないカップと同じく)決して生活感を与えるためだけではない。黄色のゴム手袋もカップも、むしろ彼ら彼女らを現実にいる人間と、そうでない映画にしかいない存在との合間にいる忘れがたい何かへ変えてくれるからだろうか記憶に残る。
蓮實重彦インタビューに影響を受けて引用するなら「もっと見ていたいという気持ちを起こさせる」映画で、どのショットも「もっと見ていたい」。言い方を変えるなら、本作も『物質の演劇』も、物語がどこから始まって、どこで終わったのか、謎めいている。すでに何かが始まっている。初っ端から男は走っている。病院ではいつの間にか患者らしき女が、ふだんは横になっているのかもしれないがベランダで立って、どこを見ているのかもよくわからないが景色をボンヤリ見ている。単にフランス語を僕がわからないだけで、そこに字幕をつければわかる理由や時制はあるのかもしれない。しかし大事なのは理由や動機ではない気がする。カットが変わるたびに、ショットは繋がっていても、動きはあえて繋がっていないことがある。そして画面外の映っていないものの多さを意識させる切り返しと、舞台が始まる前になったかのように突然訪れる静寂。画面外はどうなってしまったのか、不自然な無音状態、そして選ばれた音たち(ハワード・ヴァーノンの唸り声以上に心地よい猫の鼾)。
以前、堀禎一監督の『魔法少女を忘れない』の最初のカットと最後のカットはどれと言えばいいのか、あの「月」ということにしていいのか謎めいていると感じた。それはまさに「恣意的な介在」(蓮實インタビューより)を意識させるものであった。『天竜区』シリーズの「冬」編では、すでに動きを止めているとも、これから動き始めるともつかない物たちが見え、聞こえていたのだろうか。ビエットの映画は『物質の演劇』も『Le Champignon des Carpathes』も、春の訪れる前のように、冬の海で唐突に終わる。

kangaeruhito.jp

『金魚姫』(演出:青山真治)

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たぶんテレビ画面内で一々寄ったりしなくても出たり消えたりを楽しめる大きさが水槽内の金魚くらいのサイズかもしれない。

一寸先は何が起こるかわからない。志村けんだって死ぬし、見たことも聞いたこともない人々が毎日のように死んだり罹患したりという報せばかり届き、そもそも「見る」最後の習慣かもしれないテレビだって何年もまともに見ず、見る気も起こせず、ネットとスマホばかりで、それもtwitterなら見出しだけ見てRTやいいねしてお終いで中身も読まず、集中力が削られていくなか、『金魚姫』の今さっきまで見ていた何かが不意に消えてしまう、ぼんやり見ていると思った以上に展開はあっという間に過ぎてしまう……そういう「映画」というか、今やテレビを一番まともに見ていない人間にとって「映画」と安易に言っていいのかわからないが、その90分がなければ失われるかもしれない時間がある。

『警視K』や実相寺昭雄とかに比べても、テレビに暗闇のことをどれほど期待できるか、いま見た画面は暗かったのか、美しい色だったのか判断する能力が自分にあるのかわからないなら(序盤の赤を「美しい」と言っていいのか自分が判断していいのか不安になる……、これは最近鈴木知史『暗い部屋の記憶』を見た時も感じた)、あとはカットと繋ぎと記憶への揺さぶりなんだろうか。

中尾ミエだ!」と妙な興奮をしたところへ、志尊淳に切り返すかと思ったら、またも中尾ミエに寄って、引く。ストローブ=ユイレで見た画の繋ぎ。もしくはドラマ上の切り返す相手が画面外から消滅して中尾ミエしかいなくなったような気になる編集。または黒ランチュウの、息絶えた男のアップの、そのフラッシュバックは誰の目線なのかはいくらでもいじれるという繋ぎ。『ペコロスの母』じゃないが、酔ったり、ボケたり、記憶と主観の混乱が死者を自分の頭の中でだけでも蘇らせるような経験はあるのだろうが、だからといって映画の幽霊たちを否定することはできない。ここには幽霊たちが、死者たちが映っていた。少なくともカメラの動きや繋ぎの違和感が、いま映っている誰かがもう死んでいるんじゃないかという予感だったのかもしれない(例えば不謹慎だが現実に中尾ミエが死んでも、この予感は消せない)。男女の間に入ってきた誰かによって、ある人情味ある芝居(最近武田一成の『のぞき』を見ながら、ポルノなんて本気にしてはいけない男女関係であっても「情」らしき泣かせる何かの発生する謎を感じていた)を期待し、予感し、しかしぶった切られる。だがそこに寂しさを感じられるだけ、やはりドヤってしまうが「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ」なんだろうか。「生きてるものと死んでるものの違いがわからない」という金魚姫に、『オペレッタ狸御殿』の人と狸の恋がどうにもこうにも重なる(金魚との同棲だから『蜜のあはれ』を鈴木清順が撮るかもしれなかったとか、『散歩する侵略者』も最初は金魚だったとか、見る前から余計な連想はした)。金魚姫は幽霊に「鏡を見ろ」という。どこかからやってくる死への誘惑がはびこる現状で、「幽霊」を演じる人を見てしまう観客(視聴者)へ映像がかけられる言葉の一つかもしれない。

(個人的にはロマンポルノとか見ていた反動からか)全部を見せないベッドシーンにむしろドキドキする(『オペレッタ狸御殿』の山根貞男の指摘もセットで思い出した)。勝手に瀧本美織は『かぐや姫』の声優だっけとか酷い記憶違いもしていた(でも朝倉あきと同い年だった)が、『風立ちぬ』の「来て」から「抱いて」という、違うバリエーションの声を聞けた。なら『ポニョ』と比較できるのか?とか宮崎駿に対する鈴木清順的な批評(ルパンの組み合わせ?)なのかもしれないが、そんなこと考えても退屈で嫌になる。品種改良の世界は『運び屋』のデイリリー?とか、しかし突然変異のランチュウとは結局どこから来たのか?とか、「ザブン」と沈む音と波紋だけがいきなり映るというのの最初は何だっけと思い出せない勉強不足が嫌になるがアスガー・ファルハディの『誰もがそれを知っている』でも見た!とか、キン・フーというか『黒衣の刺客』とか、なぜだか國村準も『ウルヴァリンSAMURAI』に出てきそうに見えてくるとか(この空間を見て、もっと違う映画を思い出すべきなんだろうが)、このままだとラストは『(秘)女郎責め地獄』みたいな光景になるのかな?とか、当然いろいろよぎったことを羅列して書いても何の本質にも触れられない。

上映会を明後日に控えて

https://www.facebook.com/events/1840735979393346/

 

上田真之さんの『FRAGILE DO NOT DROP KEEP DRY』(2016)、早稲田松竹プログラマーでもある上田さんのようにカメラの前に立つことのないはずの人間(決して被写体向きではないという話ではない)が本作では堂々たる主演である。撮影のkaeさんと自らの間の距離を縮めたり広げたりしながら、上田さんは何かからの「逃亡劇」を企てる。他の上田さんの映画からは想像できない、誰のものかもわからない映画が転がっていく様がスリリングである。

https://realsound.jp/movie/2017/01/post-3661.html

白岩義行さんの『気分』(2016)。僕が初めて見た白岩さんは、木下亮さんの映画『旅の口実』の主演としてである。今回上映されない白岩さんの初期作も、白岩さん自ら主演を兼ねている。しかし『気分』に白岩さんは登場しない。だがそのシンプルさは揺るがず、出たり消えたりを繰り返す女と男の「気分」というタイトルが驚くほどふさわしい大した物語もない本作は、白岩さんの消えた白岩さんの映画である。異様な空洞さ。

https://www.youtube.com/watch?v=qlE9rUb4gc8

深田隆之さんの『私のための風景映画2020』。風景映画と呼ぶべきか、それとも日記映画と呼ぶべきか。そして「私のための」ものを私以外に向けて上映するとは。そもそも「私のための風景映画」とは。風景。この始末に負えない映像の厄介さ。深田さんは「海に浮かぶ映画館」の館長であり、『ある惑星の散文』という、まるで船の上で上映されるために作られたような映画の作家である。そして『私のための風景映画』もまた、船と切り離せない映画である。深田さんはカモメでありながら、カーテンにそよぐ風でもある。

https://fukatakamovie.jimdofree.com/about-me/

解説というには抽象的な紹介で申し訳ないが、どこへ行っても映画の感想を語り合うことになればピントのずれたことしか言えず誰の参考にもならず、誰からも相手にされない、誰からも興味をもってもらえたことも、誰からも面白がられたこともなく、どうせ何も感じないくせに賢そうに振舞ってはさらに陰でバカにされるような(こう言ってしまうのが『悪しき習慣』である……こんな自作紹介でいいのか?)僕からは今日のところはここまで。

http://nakayama611111.hatenablog.com/entry/2020/02/23/224957?fbclid=IwAR0k13L7PCtsg9YL6zYdHsurljR6gf47Q76hhZ02MTN3Q4UivbSPOu43Zn0

上映会告知『知らぬ間に、あなたの隣に映像が!』(仮)

久しぶりに上映会を開催します。

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www.facebook.com

予約ご希望の場合はイベントページの「参加予定」にチェック、もしくは下記連絡先まで連絡をお願いいたします。

nkh_irotaka●yahoo.co.jp(●を@へ変更して送信してください) 


日付 3/21(土)17:30~21:00予定

会場 キノコヤ(多摩市関戸4-34-5)
開場 17:30
上映 18:00~20:00(仮)

料金:500円 ※プラス1ドリンク注文制

※上映直前のドリンク注文は混雑のおそれがあるため、イベント終了までにご注文お願いいたします。
上映後の作家4名によるトーク 
中山洋孝・上田真之・白岩義行・深田隆之

【これがいったいどんな上映会なのか、何か書こうとするたびに「風景」という言葉が出てきて、その響きの恐るべき退屈さにつまづいて先に進めないまま一週間近く過ぎた。
「風景」この死ぬほど退屈な文字。その文字と、窓の外に見える「風景」を眺めながら、何も思い浮かばない日々が続く。無力感と、ここに座っているだけでは何も変わらないという焦燥感。
何事も現場任せで責任など一切取る気はない無能のくせに、やれ迷惑だ帰れだなんだ、少しでも目下と判断した相手には怒鳴り散らす自民党パワハラ精神論が災いして、どれほどコロナウイルスが蔓延しているかも怪しい、マスクと除菌グッズの手放せない、でもどこもかしこも売り切れの日々(そもそも開催できるのか?と書いてしまうほど当事者意識を欠いた態度もないだろうが)。
はたして今回上映する映画は、目の前の光景にどれほど見えない何かが存在していること、それがついに可視化される(かもしれない)予兆に向き合っているのか?】 
(文:中山洋孝)

 


上映予定作品:計6作品 2時間予定

※上映順になります。

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中山洋孝『メモをつけられない習慣』



『悪しき習慣』(2020年 撮影・編集:中山洋孝 30分)

『メモをつけられない習慣』(2019年 撮影・編集:中山洋孝 5分)
何も書けない、何の解決策も思い浮かばない。そこへ猫やカラスや、小動物たちがやってきて「この人間は何の主義主張もせず横になっている。なんと怠惰な生き物なのか」と思い思いに嘲りだす。
※ほか中山監督作品一本予定。

 

 

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『FRAGILE DO NOT DROP KEEP DRY』(2016年 監督:上田真之)



『FRAGILE DO NOT DROP KEEP DRY』(2016年 監督:上田真之 31分)
ドイツで活動するアーティスト:kae sugihaとの共作。kaeの主催したダンス、音楽、映画のイベント「三-san-」のために作られ、イベント以外で上映するのは今回が初。
兆候(サイン)を見いだした男が、発見から発見へと少しずつ確信していく使命(ミッション)。巻き込まれながらも、忍びやかに加速していく、あまりにも無謀、あまりにも頼りない逃走型スパイアクション。

 

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『気分』(2016年 監督:白岩義行)


『気分』(2016年 監督:白岩義行 17分)
2016年に、kumagusuというバンド(

https://kumagusujp.tumblr.com

)のMVをつくった流れで彼らのイベントで短編映画の上映をしないかとの話を受け、バンドのgt.vo 井上Y を主演とし制作した作品、上映はそのイベント以来となる。
日々を無為に過ごす男と時折男の前に姿を現しては消える少女。少女は気紛れに現れては消え、男は気紛れに少女のあとを追う、そして気紛れに流れていく映画、日々。

 

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『ツリメの』

kumagusu 『ツリメの』(2016年 監督:井上Y 撮影・編集:白岩義行  3分)
「クソ怠い暑い夏にはスカッとするようなツリメの女に会いたい」という曲、のMV。本作をつくったのち、バンドのイベントで短編映画の上映をする事となり『気分』を制作した。

 

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『Thirsty』

片岡フグリ『Thirsty』(2017年 監督:白岩義行 5分)
MVをつくる際は、元来の自身の映像とは趣の異る映像をつくる事が多いが、本MVは自身の映像の趣に近く、短編『気分』とも通ずる所の多い作品。

 

 

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『私のための風景映画2020(仮)』深田隆之

『私のための風景映画2020』(仮)(2020年 監督:深田隆之 20分予定)
※近日中に解説掲載予定。

 


プロフィール

 

中山洋孝
1986年生まれ。映画同人誌『DVU』編集(~2012年まで3号発行)。ブログ『誰も呼んでくれない夜』http://nakayama611111.hatenablog.com/
監督作『省エネ生活党宣言』(2011年)『私ももうじき三十歳』(2015年)

 

上田真之
名画座早稲田松竹でプログラム編成をしながら、インディペンデント映画の製作・配給に携わる。『携帯電話はつながらない』『五月のこと/部屋の中の猫』監督、『祖谷物語~おくのひと~』脚本・制作・配給、『泳ぎすぎた夜』助監督。

 

白岩義行
1984年生まれ。大学卒業後、会社員を経て、2012年、28歳より映像制作を開始、同年、イメージフォーラム映像研究所の講座を受講、8ミリフィルムにて短編、中編映画を数本制作。
2013〜16年 塚本晋也監督作品『野火』にスタッフで参加
以後、時折小規模、自主等の映画に参加しつつ、音楽関係の映像、写真を中心に、活動中。

 

深田隆之
1988年生まれ。
2013年、短篇映画『one morning』が 仙台短篇映画祭、Kisssh-Kissssssh 映画祭等に入選。2018年、『ある惑星の散文』が第33回ベルフォール国際映画祭(フランス)の長編コンペティション部門、国内では福井映画祭にてノミネート。2019年4月アメリカ、ポートランドで行われたJapan Currents、日本映画特集にて上映。また、2013年から行われている船内映画上映イベント「海に浮かぶ映画館」の館長でもある。iPhoneを使用した日記映画『私のための風景映画』を日々制作しvimeo上で発表している。

 

2019年ベスト

『アド・アストラ』(ジェームズ・グレイ
『ダンボ』(ティム・バートン
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ
『運び屋』(クリント・イーストウッド
『さらば愛しきアウトロー』(デヴィッド・ロウリー)
『ある女優の不在』(ジャファール・パナヒ)
ポルトガルの女』(リタ・アゼヴェド・ゴメス)
『イメージの本』(ジャン=リュック・ゴダール
『8月のエバ』(ホナス・トルエバ
『ドール・メーカー』(トム・ホランド

 

次点『ミラリ』(ジョー・ダンテ)※『マスターズ・オブ・ホラー』の一編
『カツベン!』(周防正行

 

演劇『しがさん、無事?』(青山真治

 

『ミラリ』。オムニバスのどれも半端に過剰にはしゃいでいる愚策凡作の中で、唯一落ち着いた演出で見るに値する映画をジョー・ダンテが作る。あまりにも先の読める話で退屈かもしれないが、それでもリチャード・チェンバレンに今更マッドサイエンティストを演じさせるという発想も、ヘンテコな夢のシーンで首を傾けてニコニコ笑いながら手を振らされているのも(もはや「悪夢」と呼んでいいのかもわからない)ジョー・ダンテの映画でしか見られない光景か。夜中にヒロインの悪夢の続きか現実か曖昧なまま廊下に出るとカメラが傾く。『マチネー』の避難訓練や、母親がフィルムを映写しているシーンを思い出すが、その傾きで映像に複数の意味を持たせるのがジョー・ダンテの魅力なのか。

『カツベン!』。接吻シーンと、それからのあれこれに深く感動。周防正行監督の映画は物凄くエロティックな逸脱をしそうになる時が一番いい。

ポルトガルの女』。ジョン・フォードの映画に出てくる居留地を思い出す舞台、ほぼフィックスのワンショットで撮られた空間を人物たちがそれぞれ予期せぬ方へ行き来し、人間たちに比べてどれほど演出されたのか謎めいた動物たちが移動する。戦地の夫を待つ妻の日々はまるで時間の停まった世界のようで、どこへ向かおうとしているかわからない停滞感が凄まじい。妻はETに見える猫の像を作っているかと思えば、予想外の切り返しでもって復活した夫は狼を殺す。動物不在のショットで語られる「時間」についてのやり取りにおいて、戦争と男女の時間に対する感覚の相違が語られる(と思う、うろ覚え)。クライマックスは男女がベッドインしカーテンの閉じられるまでに至るという、わずかなドキドキへ行きつくのがいい。

『8月のエバ』。ロメールの諸作のように日付が記される。しかし夜中のシーンで日付が映され不意を衝かれる。単に夜中に日付を跨いだだけかもしれないが、ホン・サンスの反復する夢のようではなくても、時間感覚を乱してくる。窓の外から音や光が入り込み、様々な人物の話も入り込んできて、それをもしもすべて映したら2倍の260分くらいに平気で伸びていたかもしれない。しかし『8月のエバ』はダラダラ過ぎていく時間としてではなく、密室におけるヒロインの肉体に光を反射させる。130分と決して短くないが、それぞれの場面が光と音の極めて密度の高い結晶と化している。

『ドール・メーカー』。『サイコ2』の脚本家によるリメイクのようだが、常にどちらとも解釈できる曖昧さが一時間ほど溜まった結果、ついに弾け飛んでからのヘンテコな展開の連続。ラストショットの悲鳴とナイフが忘れられない。

『香港パラダイス』(90年 監督:金子修介)

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本作の助監督の片島章三は『カツベン!』の脚本・監督補でもあるが、90年にできていたことを2010年代の締めにやる意義を確かめるためにも両方とも見るべきなんだろう。バブル特集が、たとえば国定忠治特集を控えているような名画座で上映される最後の時代の日本映画であって、これより後はさらに歪な映画たちになっていくのかもしれない(非常にいい加減な推測だが)。
小林薫が死んだかもしれないという場面が一時停止したように見え、絶体絶命かもしれないピンチの合間に「ちょっと何(スカートのなか)見てるんですか!」の一声でリセットされたように前後がどうでもよくなる。小林薫の嘘と斉藤由貴の記憶喪失に何度も振り回される映画だが、ついには「何度も何度も……」という台詞でもって、それが斉藤由貴でなく淡路恵子の過去であってもかまわないと言わんばかりに、時をこえて二組の男女は結ばれる。
事態をかきまわす脇役のなかでも内藤陳は斉藤由貴に催眠をかけた瞬間はあいまいだが、本当に解いているのかはさらに不明にされるくらいいかがわしいが、小林薫が見送る合間にバタバタ動いている姿はなぜか感動的である。さらに催眠術を使えているのか怪しい天本英世はスクリーンを煙幕と火花で覆う怪人として活躍する。「俺の責任だ」という台詞も、あまりに遠回りな目的達成のための本当に必要かわからない役にふさわしい一言だ。シャークもどきの我王銀次もなかなか面白かった。阿藤海ふくめ、この3人が既に亡くなっているだけで、世の中だいぶ変化しただろう。