『WATER MARK』(中川ゆかり)@海に浮かぶ映画館

船に乗せられた人々についての舞台。客席と舞台を共有する揺れと寒さについて、「寒くないですか」と聞き続ける。「寒くないですか」という言葉が視点を切り替え、役者が羽織ることになる衣裳が床に、まるですでに脱ぎ捨てられていたかのように落ちていることに気づかせ、誰かがいたという痕跡を印象付ける。誰か。からゆきさんたちだ。これは、からゆきさんについての芝居だ。客席と舞台との視線の行き来は、衣裳からの眼差しに切り替わり、衣裳を身にまとう女性は視線を引き受ける。『LOCO DD』大工原正樹編のFantaRhyme、『南瓜とマヨネーズ』の臼田あさ美、『夏の娘たち』、『エル』。それら別々の異なるアプローチの映画たちを同時に思い出す。

役者が客席に向けて語るように、舞台はストーブによって会場が暖まる頃には終わるという。だがストーブをつける前後、役者は船という場所で水の上を漂う感覚を共有するために「眼を閉じる」よう呼びかけていた。あの間に、もしかするとストーブの火は消されていて、『日本春歌考』(大島渚)のように、一酸化炭素が会場を満ちていくまでの時間と化していたかもしれない。会場を満ちていくのは冷気と揺れ、震えだった。震えが集中力を研ぎ澄ます。しかし頼りなく怠惰な自分はまだからゆきさんたちについて語るために学ぼうとしていない、彼女の朝鮮訛りの言葉を記憶できない。確信犯的に、運動する役者と客席との間に温度差ができる。役者が「あたたまってきた」という時に、客席はまだその地点に立てていない自らを問われているのかもしれないが、挑発的なものとして捉え過ぎかもしれない。あくまで自らのいる地点を各々が捉え直すものとしての舞台かもしれない。

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『ある惑星の散文』(深田隆之)@海に浮かぶ映画館

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これほど船に乗って見るために作られた映画はないと思う。深田監督は自らの作品の上映に最もふさわしい場所を知り尽くした戦略家なのかもしれない。だがそんな狙いだけじゃなく、作品のそこかしこに見え隠れする別の作品たちが「海の上の映画館」にて上映されてきたことを思い出す。そしてあらゆる映画が船の上で上映される可能性をひめていると気づく。まるで「海の上の映画館」にいるかのように、脱出できない緊張と、酔ってしまうんじゃないかという不安とともに、揺れと雑音を包容しながら、漂うように、自らにとっての船出として、または停泊所として、常に映画は見られるべきなのかもしれない。
実際、『ある惑星の散文』は漂うように時間が過ぎていく。映画の人物たちは距離を打ち消そうとスカイプをしているのかもしれないが、スカイプの待ち時間は焦りとも期待とも不安とも関係なくパソコンの前に存在する。客の忘れ物を届けるために走り出せば、彼女の走る距離と走る時間とが存在する。急ごうとする人物たちに対して、時間も運動も早くも何ともなく、ただ過ぎていくことを示すようなショットが続く。

舞台挨拶にて女優の中川ゆかりさんが言うように、距離に関する映画だった。フレーム内での人物たちの距離は、スカイプ越しだろうが、窓越しだろうが、テーブルを挟んで向かい合っていようが、遠かろうが近かろうが存在する。もっとわかりやすく言えば「すれ違い」だ。

それまで一緒にいた人物たちをカットバックにする時、距離を一層際立たせるとも見える。だが逆に、同一フレームにおいては両者の間に開いていた距離が、カットバックすることで互いを向き合わせているようにも見える。また時折曽根中生の映画などでも見たことのある、人物をフレームに放り込んで突き放したような距離さえある。しかしその距離こそ人物たちに動く可能性を与えてもいる。だから、その突き放しかたはとても優しい。またどれだけ突き放されても、人物はフレームの外にはみ出す余地を多少わざとらしくとも与えられている。
部屋の窓から見える景色。この距離は今までの映画で見てきた、遠方に去った人々を見送るような風景たちを思い出す。だが映画は美しい遠さと同時に、苦しい近さもつきつける。
中川ゆかりさんが兄の前に立つ舞台はただただ素晴らしい。

南瓜とマヨネーズ』は『亀虫』や『シャーリー』のような連作の中・短編のようにも見えて、そこが良かった。別にリンチのように語り切るのを断ち切っていくわけではなくて、男女が別の映画の人物になってしまったかのように変わって見える。そう書くと『ロスト・ハイウェイ』みたいだが、一人の人間が分裂するのでも、分裂した存在が一人になるのでもなく、あくまで別々の男女が存在していて、それが一つのバンドやカップルにもなる。そのバンドやカップルの組み合わせが変わるごとに映画の人物も変わっていく、というわけではない。バンドが解散するわけでも、はっきりしたカップルの別れがあるわけでもない。ただいつの間にか映画の人物は変わってしまっていて、カップルとしての継続が困難になったり、バンドとしての継続を維持していたりする。別の映画を見ていても、以前見た映画の人物が名前を変えて存在し続けているように、もしくは単純に映画同士が似通っているように、カップルもバンドも人の流れも別れも存在する。

いくつかの視線の繋がらなさや、鏡の存在や、誰が見ているわけでもないが視線と欲望に晒された足や、または再生動画や、消える音や、それらがどれもわかりやすいほどに視線を送る側と受ける側との間にあるものとして心情や愛こそ曖昧であってすれ違うと示す。ただ送る側が欲望を向けて、相手が受け取ったとして、それは金銭とコスプレの関係にもなる。体操着を身に付けた相手が吹奏楽部出身だと聞けば満たされないものが、スクール水着を用意させ、水着を着るだけじゃ満足できるお金は渡せないから、それ以上のことを要求する。そのあたりのことは頭が僕も追いつかないので、うまく書けない。ただ臼田あさ美だけでなくカップルにバンド、それぞれが相手を多少なりとも裏切る反応をする細やかさに力を入れているから刺激的だった。

しかし死んだ子どもから見つめ返されているような気がしてくる。移動中の車内において楽曲への言い合いから不意にドリルが取り出されそうな気がする。問題はそんなレコード会社へ向けたような妄想ではないのだろうが。

中川信夫『影法師捕物帖』、西部劇、ソ連映画ドイツ表現主義をワンカットごとに横断し、アラカン田沼意次に刀を突き付けては何事もなかったかのように次の場面へ移って、また田沼に説教を繰り返し、どっから屋敷へ入ってきたかわからない相方がインしてくるあたり、完全にコメディ映画と化しているけれど、たびたび決着の映されない立ち回りの繰り返しの果てに伊藤大輔へのリスペクトが炸裂するクライマックス、アラカンはきっとまた観客の見ぬ間に切り抜けてくれるに違いない。

 

北島敬三のポートレイトに引き込まれた。撮られたのがどんな人なのかどころか、撮ったのかが誰なのか、いつ撮られたのか、などなど様々な情報が一掃されて背景が見えなくなって初めて、わずか3,4点の写真が強度を発揮する。そして3、4枚のショットの間を隔てる何かがあり、写真そのものは誰のことも何も物語らないということを突き詰めた先に、写真によってしか辿り着けなかった、目に見えない世界の存在を予感する。去年のトーマス・ルフを見ておそらく初めて本気で写真を面白いと思えた。やはり写真も文章も映像も今は腐るほど溢れかえっているという事実と向き合ってこそなのだと思う。

 

レニー・ハーリンの『スキップ・トレース』、かなり良かった。初っ端の相棒が殺されるまでは「あ、これ乗り物酔いみたくなるやつだ……」と嫌な予感までしたけれど、すぐ後のドミノ式に倒れる水上家屋といい(ブラジャーが良い)、ボウラーターミネーター率いるロシアンマフィアたちに追われながらのベルトコンベアーといい、以前ほど動けないジャッキーでも、むしろそれがすごく気持ちよく見ていられるようにアクションが撮られ、繋げられていると思う(この辺を具体的に言う記憶力と語彙と、丁寧に書く努力が足りない)。
マカオと香港の登場人物を行ったり来たりしながら、いまいち整合性がとれていない気もするうちに、主要人物二人が一人の女性によって同じ空間の壁ひとつ挟んだ場所にいる。この見ている人の疑問が膨らみ過ぎないうちに話をもっていく力と早さが最高だと思う。
モンゴル着いたあたりが少々タルいとか、はっきり言って敵も味方も脇も本当にどうでもいいのばかりとか、いろいろ素直に好きになれないところはあるけれど、なんだかんだで最後まで持ってかれてしまった。ジャッキーがキートンとロイドを使っているというのを教科書レベルで何となく知っているくらいだけれど、育ちは悪くとも映画を面白くするための技能が詰まっている気がする。軽い高所恐怖症のせいか、マジで見ながら手から汗がダラダラ出てしまった(『ザ・ウォーク』以来か)。
あとジョニー・ノックスヴィルとかジャッキーの娘の強いんだかそれほど強くないんだかよくわからない加減もよかった。

 

『新感染』見た。やっぱり列車とか移動の限定された細道でのアクションとかは盛り上がる。しかし『カーズ』三作目とか『トイ・ストーリー』とか見て思った、別に良く出来た映画(伏線を回収してくれるとか、「道徳的」というか良き人間像を示してくれるとか、そりゃ遥かに『シン・ゴジラ』よりはマシで面白くても微妙な『シン・ゴジラ』臭が気になるとか)なんか本当は見たくないんだという物足りなさがある。単に文句言って批評家みたいな気分になりたいだけかもしれないが……。あと頭部破壊がないのも気になる。そりゃ銃がないなかでどう戦うって話なのかもしれないけれど、特に最後の最後がまさに頭部への狙撃を避けるだけに。「切株」という言葉は馬鹿にできない気がした。