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中川信夫紀州の暴れん坊』を遅い松方弘樹追悼のついでに見たが、『三四郎』とならぶ青春映画だった。そしてまたもホイット・スティルマンとアイヴァン・パッサーがよぎった。石川啄木天一坊のように、吉宗を題材に愛すべき人々の行き交う、そして若き日々が儚く花のように散るまでを追う傑作。

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そうは言っても真に清順の言葉を形にしているのは清順の映画だと『暗黒の旅券』で思い知った。まあ、勘違い、思い込みばかりで無茶苦茶書くくらいしか自分には脳がないので、清順の発言のほぼほぼ何一つ瀬田なつきの映画には当てはまらないとわかって書いているから……。そして、やはりオカマの映画である。「『けんかえれじい』を語る」(『夢と祈祷師』)にて語られる主人公と脇役との関係は、かなり本人の言葉と映画そのものが一致しているように思える。『暗黒の旅券』は主人公とされる人物が事件そのものからことごとく置いていかれ、影だけが、声だけが、ずれたように残っていく。頻繁に繰り返されるリアルな時間経過を無視したようなオーバーラップの使い方が、ますますその感覚を助長する。麻薬中毒者の女性の声が凄まじい。彼以外の人物が殺し合う終盤。そしてオカマと姉の物語。

夜勤明けのため正直字幕がうまく頭に入らなかったがシャンタル・アケルマンもまた『No home movie』で、一周して若返る境地に達していたと思う。カメラを持つ手が震えようが、フレームが四角いということと同じくらい、映画は揺るがない。二階から見下ろす先にある椅子だってヴァロットンのようだ。スカイプ越しの画面さえ醜くなく窓になっている。荒野と家を行き来するうちに『アメリカン・スナイパー』がよぎる。そして靴紐を結び直す。明らかに映画は母も娘も消えてしまっても、あの家と窓と同じように残る。どこか辛辣な面こそ受け止めるべきなんだろうと思いつつも、ただただ爽やかな気分で向き合いたい。

瀬田なつき『PARKS』、やはり良かった。死者が絡むとグンと響く。明らかに条件が悪くて駄作になってる吸血鬼のTVドラマもみーくんまーちゃんも死者が絡んできそうなスレスレで寸止めになる。そのこと自体、映画が真に死者と絡もうとすると諸々の圧力を受けるんじゃないかと思いたくなる。
「夢と祈祷師」に収録された、鈴木清順が『けんかえれじい』について大学生の質問に答える講演を読み直したら、映画が運動なわけがない、人間が事件をきっかけにして変わろうにも変わりようはない、変わらせるとしたら幽霊にするしかしようがない、というようなことを言っていた。正確には違うんだが、なぜだかそのことを思い出しながら見た。
3月11日をきっかけにして(それからの安倍晋三と取り巻きの現状も含めて)変わるというよりも、『SHARING』や『息の跡』がそうだったように、瀬田なつき監督の映画も『5windows』の水辺の幽霊に続いて、死者が絡み、人の言葉を想像する。『PARKS』はついに死んだ人たちも生きている人たちも、そしてやはり訪れる死んでいるかも生きているかもわからない、おそらくは世代のズレを観客にばらしながら時空の歪みから登場したような少女も現れて、同じ公園で歌う。しかし彼ら彼女らが全員同一フレームにおさめてしまいそうなところで、とどまるか、なくなるか、わからないが後は観客に託すかのように、あえて切り返す。その倫理に心動かされる。瀬田なつき監督の映画は、いつもそのように終わるのだが、今回はさらにその先の最後の最後の車窓に惹かれる。
最初に橋本愛がギターを久々に弾くところに一番感動した。自分の感覚を思い出すということが何よりも良い。

『潜熱』

映画を見るたびに覚醒を促される。目覚めるために映画を見る。スクリーンに向けて目を開くために、もしくはスクリーンの外へ、現実へ目を向けるために、映画を見る。しかし現実は映画を見ながら寝てしまってばかりだ。もしくは映画だけ見ていれば満足と言わんばかりに夢を見続ける羽目に陥った。

『潜熱』(三毛かりん)は、事故によって目覚めることのない女性の周りで、彼女の目覚めを待っているような男女の映画だ。しかし彼女が眠り続けている限り、彼、彼女は現実に目を背け、夢を見続けているようでもある。

おそらく彼女は二度と目覚めない。そして目覚めない彼女に対しても、彼女が目覚めないことに対しても、映画はあまり現実的な態度は向けていないようでもある。むしろ映画が、もしくは(くだらない推測だが)映画の作り手が、眠り続ける彼女そのものに重ねられているような気がしてしまう。成瀬以上にあからさまな交通事故の存在。どことなくこっぱずかしくもなるモノローグ。自らの感性に忠実な音楽の使い方。『潜熱』もまた映画の男女に、観客に、覚醒を促す。登場人物は眠りの誘惑と、彼女を断ち切って目覚めることとの間で葛藤している。同時に映画そのものが目覚めなきゃ、目覚めなきゃと葛藤している。夢と現実の境界で、多少の恥ずかしさは隠すことなく、情熱は内に秘めながら、料理をし、酒を飲み、愚痴をこぼすことを繰り返す。そして夢も現実も、どちらも愛しく見ようとする。まさしく映画そのものだ。そして映画から正しく学ぼうという(僕自身には足りなかった)真っ当な姿勢を感じる。今すぐ劇場から飛び出して、陽の光を浴びたくなる。

森はるか監督『息の跡』と、小森はるか・瀬尾なつみ監督『波のうえ、土のした』を見て、ペーター・ネストラーのことを自分が少しもわかってないことを改めて思った。この映画に出てくる人たちの、もう土に埋められてしまう場所に花を植えようという彼女の、夫に何を言われようと「やらなければいけないことなんだ」と言うことについて、佐藤貞一さんから話しかけられるように「わかるか」と問われたら、適当な返事をしてお茶を濁してしまうのだろう。ただネストラーの映画から受ける感触とはこれだったんだ、と図々しく言いたくなった。ネストラーの映画では言葉が重要だとわかるのに、しかし言葉をほぼまったくわかってなくても良いと思う。当たり前だ、映画とはそういうものだ。しかし自分はまだ、ネストラーの言葉も、佐藤貞一さんの言葉も、小森さん瀬尾さんの言葉もわかっていないのだ。佐藤貞一さんが言語を学び、小森さん瀬尾さんの映画に言葉が記されることと、ネストラーが人々の語る姿を撮りながら、同時に自らの言葉を重ねていくこととが繋がっている。

青山シアターの『二羽の鳥、徹夜祭。』(菊沢将憲)と、DVDの『悪魔の棲む家PART3』(リチャード・フライシャー)。どちらも幽霊屋敷映画。ありきたりな感想だが今は『二羽の鳥~』の現実にあったような記憶だか、実感だか、それとも映画で見たような記憶だかが曖昧に思い出されるようなやり取りよりも、『悪魔の棲む家~』の友人たちとボートに乗って湖へ向かう娘と、それを別にたいしたこともなく偶々すれ違うように帰ってきた母親との距離の、見た時よりも思い返して悲しさのこみ上げてくるカットは、これぞ映画でしか見られない演出なんだと思う(篠崎誠『SHARING』の取り返しのつかない感情が徹底されたような)。そういえば同じく3Dの『さらば、愛の言葉よ』(ゴダール)終盤のロングショットの船出みたいに、これまで見てきた映画の美しい瞬間を思い出すような別れと旅立ち。『禁断の惑星』(ジョン・ブアマン)と結びつけたジョー・ダンテ『ザ・ホール』も3Dだった。