『ゾンからのメッセージ』

www.youtube.com

call-of-zon.wixsite.com

news.ponycanyon.co.jp

 

eiga-b-gakkou.blog.jp

eiga-b-gakkou.blog.jp

eiga-b-gakkou.blog.jp

 

鈴木卓爾監督の映画の人物たちは、ある場所に集まっていて、その場所は喋り声や楽器や映写機か何かの機材の音やらが常に響いていて、廃墟のようで光が差し込んでいて、各々に目的や志の程度の差異や悩みがあったりして、何かの感覚や記憶を共有していて、そこから一歩を踏み出そうとしたり、逆に理由をつけて踏みとどまっていたりする、微妙な時期を過ごしている。
『楽隊のうさぎ』の吹奏楽部の否応なく過ぎ去っていく時間のなかで、どの程度の達成があったのか、あえて曖昧になっているのが良かった。『ゲゲゲの女房』が一応は実在する人物たちの話であっても、あの家に住む彼ら彼女らは現在の風景の延長に妖怪たちと映り込む存在であって、家に入れた人物のひとりは力尽きて砂となって散る。
『ジョギング渡り鳥』の撮影機材がどんどん映り込み、いつ終わるかもわからない、どこへ向かって飛び立てばいいのかわからない時間さえ、ひどく親密に思えて驚く。特殊さでいえば「ワンピース」シリーズの1カットの製作スタイルさえ、訓練のための制約という以上に、その1カットのフレームの中で何が乱入してきても消えても、どこまで動けるか、どんな時間を過ごせるかであって、しかもカットがかかってから彼ら彼女らがどうなったかは、たぶん誰も知らない。
また鈴木卓爾監督の映画では役者は人間というよりも、自分を大人だか子供だか決められないように、妖怪であったり宇宙人であったりスタッフと化していたり(『ゾンからのメッセージ』のある人物を指した台詞のように)境界線上を歩いている。自分が何をしたい人かわからないと同時に、何かやりたいと言っている。同時にフレームを出入りするのが役者だけでなく虫や猫もいて、特に『私は猫ストーカー』の、猫にカメラを向ける上での礼節が問われるのは素晴らしかった。


ゾンからのメッセージ』は2014年の映画美学校映画祭で見た時と画も音も編集も変わっているんだろうと思う。初見以上に、「インタビュー」が入ってくるまでは驚くくらいテンポよく物語られている気がする。演説する男へ向かってフレーム外からゾンビのように人々が出てくるカットがかっこいいし、そこから訓練中の人々を撮ったカメラの画に切り替わるのもいい。最初に『花の街』のコーラスが聞こえてくる空間へ入り込む時の高揚も、人物が何か話している最中に虫が割り込んでくるのも、「ワンピース」シリーズにて発揮されたフレームを使った出し入れが完全に映画にとっての武器になっている。
そして元バンドメンバーの二人が喧嘩に終わってしまったあたりから、映画の印象が変わるくらい停滞するけれど、そのことが決して退屈さを意味しない。たんに自分に想像力がないだけかもしれないが、やはりゾンから抜け出す仕組みがまるでわからない。どうして彼ら彼女らがゾンから抜け出せるようになったかもわからない。既にインタビューが「ゾン」から抜け出すまでもなく、外部を見つけたからなのか。作品の構造上の問題ではなく、おそらく意図的に誰かの力を感じさせない。一組のカップルの話として進むのではなく、後景にいるかと思っていたBAR湯の二人の女や、バンド三人組の話が前景に来たりもする、この入れ替りが「映画」なんだと思う。脚本のページが何枚か破られても映画が出来上がってしまうという逸話を信じたくなるような、彼ら彼女らの心情や動きが削られたり、もしくは見ている僕の集中力が切れてスッポリ抜け落ちてしまっても、ゾンから先へは進める。破れたページの合間に製作風景が、インタビューが、自転車に乗って回したカメラが紛れ込んで、何となくのゾンからの前進よりも、停滞した時間を共にした時に何を見聞きしたかが問われているような。長尾理世の手が視界を覆って、カメラは奪われたのか、次のカットでは男女がまた自転車に乗ってカメラを回している。振り返ると映画の調子が変化した時だったように思う。
青年が最初にカメラを向けた溝(『にじ』をすぐに思い出す)、「湯」、川の字、水のイメージたちが残る。最後の海に対してゾンを見出すのも、空を反射した水辺にまで描きこまれたゾンとは異なる波模様に感動もするけれど、どこか『トゥルーマンショー』のクライマックスというよりは大島渚の『少年』が見た景色のようでもあって、住民へのインタビューが切り返されてくるようにも見えた。

『独房X』(監督・脚本 七里圭)

www.youtube.com

 

伯林漂流東京

 

泉浩一生前追悼上映会へ。『伯林漂流』ほか監督作は見逃す。

出演作の七里圭監督『独房X』。近未来を舞台にしたエロ版『羊たちの沈黙』のはずが、まるで収容所が舞台のアングラ劇を記録しているようだった。『サロメの娘』シリーズ、特に複数の舞台を行き来しながら(おそらく)娘が母のことを語っている『あなたはわたしじゃない』を思い出す。ひまわりも出てくる。未見の新作『入院患者たち』への期待も高まる。

原サチコの登場にはクリストフ・シュリンゲンズィーフ特集との縁に驚く。だが『独房X』はシュリンゲンズィーフのパフォーマンスの記録とは真逆の、何一つ気持ちの休まらない視線の迷宮と化していた。

鑑定する側が視線に晒され、相手の記憶を探るはずが自らの過去を晒す。モニターに映された女囚の映像に挟まれる、彼女の回想ともつかない謎のフラッシュバック。誰が見ているイメージかわからない。写真が誰の記憶を証明してくれるかわからない。牢の手前か、中か、どちらにいるのか不安になる、格子が張り巡らされたような画面。ビデオに記録された「2003」という数字が製作年とズレている。本作よりパフォーマンスの記録だと割り切って見やすい『あなたはわたしじゃない』にはない不穏さが満ちている。彼女が収容所をさまよう映画として、安心して謎を追うためにも明確にさせたい時制や記憶や視線が揺さぶられ続ける。

それにしても女性の身体が目に焼き付く。格子や窓越しに見える女囚たちから漂う倦怠感。縛られた肌に食い込む糸。女装した看守(今泉浩一)。彼に鞭うたれる、もう若くない所長の肉体。何よりヒロインの濡れた肌をタオルで拭う時間の長さは(上映後のトークによれば尺の都合もあったらしいが)省略の無さが生々しい。映画の観客として彼女の裸体を眺めれば眺めるほど、本作の視線に自らも巻き込まれていく怖さがある。彼女たちの肉体へ視線がまとわりついているようで、いきなり女たちが画面から消える時、彼女たちの収められていた空間の魅力に気づかせる。誰も座っていない椅子に彼女たちの痕跡を見て興奮するわけでもなく、椅子は椅子としてエロティックに見える。

七里圭監督の映画から『独房X』の女たちの裸体と視線の複雑な絡み合いが弱まって、代わりに音を残すように感じる。山本直樹の『のんきな姉さん』から三浦友和梶原阿貴にセックスをさせず、「同じことは繰り返さないんだよ」という声の優しさを残す。『眠り姫』から寝れば寝るほど膨らむ肉体を映さず、眠れずにやせ細る肉体をFAXされてきた線として見せ、男女の絡み合い喘ぐ声が官能的なイメージを呼び起こし、目覚めの叫びが逆に何かを思い浮かべようという時間を断ち切る。『あなたはわたしじゃない』の青柳いづみの身体と声の繋がりには、どちらが先にやってきたのか、どちらが置いていかれて消えてしまうのかと緊張もする。そして彼女の身につけた花柄のワンピースが記憶に残るように、ひまわりによって舞台と模様が繋がっている。『独房X』のバーコードをつけた囚人服とは違って、彼女たちの衣装は身体への視線を空間に散らす。

いつか会いたいと望んでいた、しかしまだ会ったことのない「母親」(原サチコ)の写真は、『サロメの娘』シリーズの長宗我部陽子にも通じていて年齢不詳だ。記憶の核になるようで、最も危うい地盤であり、映画内の時間を狂わせる物体になる。女性そのものでありながら、彼女たちの座っていた椅子でもあるような、既に痕跡と化しているような、「母親」と「娘」とは「時」を意識させるものであって、七里圭監督の映画では空間における女性の身体とぶつかり合う、不安を呼ぶ仕掛けかもしれない。

 

soundcloud.com

www.dmm.co.jp

www.youtube.com

『エリーゼを解く』(松本恵)

www.ncws.co.jp

彼女は恋人を友人に奪われたから傷ついているのか、元ボクサーは何に挫折したのか、ひとまずそれが見ている僕にとってどれほどどうでもよくても、映画は良かった。電話越しの元ボクサーの話が止まらなくなった時、まともに聞いたらウザいかもしれないのに、それを何も返せず(返さず)しばし黙って付き合う時間が充実したものになる。そんな時間が訪れるまでの何を見せて、何を見せないか、映画の演出だと思う。『王国』の「密度の濃い時間」という言葉を思い出した。終盤、元ボクサーが「高所恐怖症なんで」と唐突に言ってからの、フルサイズの彼女とのカットバック、まだ彼の辿り着いていない空間と切り返すところも、階段を駆け上る音が聞こえてくるのも、そこから手を繋ぐまでも良かった。大事なものを自ら手放して落としてからの上昇。あえて彼女と彼の興奮を緊張込めて抑制していても、見ている側は最高に興奮出来て幸せだ。

https://aoyama-theater.jp/pg/3450

「ものかたりのまえとあと」清原惟作品抜粋を続けて見る。『ひとつのバガテル』の自転車、『ムーンドーン』の銅鑼(?)など、先に音から聞こえてきて、画面に現れるものが多い。『わたしたちの家』の響くサイレン音を、異なる空間から聞こえてきたものとして繋げているあたり、そのパターンの変奏かと思うけれど、パトカーそのものは映らない。『音日記』の落下する球体に音がないのは、音より先に画がやってきてしまって時空が捻じれているのかもしれない。『ひとつのバガテル』のバットによって林檎の砕ける音が団地に響いて、狩猟のように聞こえる、映っているものから音が異なるイメージを喚起させることもあった。『岸辺の旅』のシナリオを用いて撮ったという東京藝大入試課題の短編は、まんじゅうを頬張りながら喋るから何を言っているかわからなくて笑えるところがあって、それを何を思って聞いているか観客にはわからない受け手の顔も、頻繁に響いて言葉の聞きやすさを妨げる電車も、物語を追う上で映像と音が邪魔し合って、置いてけぼりを喰らっているようでもあった。

そして『網目をとおる、すんでいる』はモノローグの作品になっている(『ものがたりのまえとあと』の他の三作品におけるテキストの重要さと通じている)。17時と17時30分のどちらの報せも聞こえるという県境の曖昧さ。音と画の繋がりも『わたしたちの家』よりはっきりしない。この謎が今後のキーになるか気になる。

一緒に上映された大学時代の青木悠里監督短編は蛇口から水が出しっぱなし、コンロ上のやかん、精製水の台所、直前にアッケルマン見たんだろうかってなる映画だった。これも面白かった。

scool.jp

三鷹SCOOLの『ものがたりのまえとあと』読み上げられる声、画面上に浮かぶ文字など、言葉に対する感性がそれぞれにあって、そのために画が弱くなって見える時もあるのが、かえってイメフォフェスの後だと心地よいんだろうか。
どの作品も嫌いじゃないけれど、ただ作品単体で記憶に残るかは怪しい。清原惟『網目をとおる、すんでいる』が一番面白かったけれど、網目越しのタッチに音がない時(そこだけじゃなく同録のないシーンだったが)『音日記』の球体の落下に音が消えているところを思い出した。

イメフォの『愛讃讃』は「お姉ちゃん」の記憶と8mmに対して字幕と音声が「必要」はわかっても説明になってしまっているようで、そのあたりをSCOOLの作品と比べて素朴だと思えばいいのか?と疑いながら見ていたけれど、カラオケに引き込まれる。プロジェクターから「お姉ちゃん」へ投影されるカラオケのビデオにセットの字幕。この字幕がフィルムに刻まれてから、あのカラオケの記憶に作品そのものが取り込まれていくようだった。

『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)

www.youtube.com

www.youtube.com

見直さずに印象で書くと後悔しそうだけれど『螺旋銀河』は、創作行為のプロセスを丁寧に追ったように思わせてくれた気がする。別に時計を見ながら体験したわけではないのに、分数ごとに、二人の主人公を行き来しながら、感情の変化や、すれ違いや不意打ちを喰らったような気がする。今となっては73分という数字を見て、時計が一周してから朗読の続く13分があったような、うろ覚えから書いた印象に過ぎないが。
一人の夢に自らを重ね合わせるのではなく、ただ二つのズレを見聞きすることが映画であって、『王国』も『螺旋銀河』も二人の人間が同じものを見ているわけではないズレが解消されずに渦が出来上がった(気がする)。ただ『王国』は「台風の目」にあって、『螺旋銀河』の二つの「対義語」となる人物が作る渦から更にズレているかもしれない。
いまはまだ見ていない約60分の『王国』が気になる。およそ60分の『王国』たちが複数存在する可能性とともに、それぞれの渦と渦がぶつかり合ってか、どの渦からも弾き飛ばされてかわからないし、そんな話は妄想に過ぎないが、どうやって150分の『王国』が出来上がったのか。愛知まで行かない自らの怠慢をまずは呪うべきか。
時間を刻む音が「裁き」のように、処刑台のギロチンのように響き、シナリオ読み上げのシーン番号は60を回って時間を刻むようにカウントされる。ジャンプカットがある。黒がある。ストローブ単独作、クリストフ・クラヴェールと組んでの映画のジャンプカットの話をするのは、中途半端にシネフィルぶった振る舞いであって間違っているかもしれない。それでも謝辞にあった堀禎一・葛生賢、両氏の名前から切り離せない。ただ、ストローブの映画(おそらく『コルネイユ=ブレヒト』だった。ちなみに『王国』を見ながら『コルネイユ=ブレヒト』の三回繰り返すのは間違いじゃないんだと改めて思った)を見終わってから桝田亮さん(数少ない面識のある「シネフィル」に相応しい一人)が言ったことを思い出した。クラヴェールは役者に視線の指示を出してるんじゃないかと。本当か? 調べようとしない自分は怠け者だが、冒頭、彼女は自分が書いたらしき言葉を前に視線をさ迷わせた。カメラに向かってか、言葉に向かってかはわからない。そのどちらでもないかもしれない。ただ視線と背景の光を見ているうちに、不意に画が飛んだ。瞬間、映画の中で自分がどの位置にいるのかわからず迷子になった気がした。
彼女は夫婦を前にゴダール『うまくいってる?』のタイプライターを打つ目線のように、文書の右から左へ読むように目線を移す。『王国』は、まるで子どもを見下ろすように台本を読む。子どもを死なせる、事故か他殺か、それは告白する人間次第かもしれない状況において、見下ろしていた言葉が他人の声から視界に現れてしまったように外部が出来上がっていく。読み上げる言葉から解き放たれる「アイコンタクト」の映画、「王国」の映画であって、同時にそれを目の前にすることの恐怖のような。それでも彼女が読み上げる姿は力強かった。台本の読み上げが、それぞれ声の聞こえる時、発声していない時、黙読なのか朗読なのか切り離しがたい時間と空間を作り上げていた。

『ツイン・ピークス the return』メモ

長い文にまとめたかったが、とりあえず個人的に書いていたメモを載せる。

 

一話

ツインピークス』はビヨンドでなくリターンなのだ。誰が言ったか知らないが『ロストハイウェイ』の「リンチ・イズ・バック」という煽り文句が脳裏をよぎる。下手したら、また彼はいつの間にか私を置いていってしまうかもしれない。定住できずに作品を残して消えてしまう。どこへ行ったか知らないが、待つほかない人たちがいる。そして今、再び彼方へ旅立ってしまう不安を夜毎かきたてながら、ただ今はどんなことをされてもいいから傍にいてほしいなんて思わせる。それが彼の思う作家か、カウボーイか、運命の人なのか。しかし老いて、いよいよかけがえのない存在になってきた。ラス・タンブリンがドアをあけてくれて、初めて「彼は帰ってきたのだ」とこみあげてきた。これまでの彼のキャリアの隙間に一筋の光を射すような、これまでになく曖昧な作品。

 

三話

これまでのリンチだったら話が終わってしまう先を見れたという感慨がまず(『マルホランドドライブ』がドラマになったならもっと早く達成されたかもしれないが、このこじれた迂回も含めて涙ぐましい)。リンチが『プレイタイム』を好きだったことも改めて思い出す。ジャック・タチのように喜劇ならば過ぎ去っていく人々の先を考えることなど不粋に感じるが、ただただ気にさせるためのハッタリじみたサスペンス、もしくは恐怖映画としての装い(そりゃブニュエルのほうが達者だが)。だがそれも今は不快ではない。もっとやってくれ。リンチの『ヘイトフルエイト』がもしも『ホテルルーム』(タラちゃんも似た名前のをやっていたが)以外に存在するならば、それはまさしくベケットキートンと四つに組むようなシロモノになるはずだろう、それも見たいよ。

ストレイト・ストーリー』『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』そしてかつてウェブサイトに公開されていたコーヒーにまつわる映像たち(いま思えば座標へのこだわりなど共通点が非常に多かったと思う。見直したい。)、それらは本作において決して無駄ではなく、しかしリンチ自身が想定していたよりも遅すぎたかもしれないが、成し遂げられたかもしれない。

 

吹替版を見て、かえって思ったのはライブハウスでの演奏と、それ以外のシーンでの音響と音声との関係に差を設けては台無しになってしまうということだった。
おそらくリヴェットの『アウトワン』13時間と比べてしまっていいのかはわからないが、それでも『ツイン・ピークス』18時間は通して見て一本の作品として(少なくとも8話までの現時点では)成立するものになりそうだと思う。物語としての進展の遅さと、複数の場と人物の視点の切り返しと、謎や陰謀の存在。『アウトワン』の舞台稽古を追うカメラの動きによって追跡劇としての印象が残ることに比べると、『ツイン・ピークス』は全編リンチなりの弛緩したリズムを崩さず演奏がずっと続いているのかもしれない。

 

九話

第九話。風に吹かれることなく室内の隅に置かれた星条旗が、ただクーパー越しに映る時間。隣室から、もしくはヘッドフォンの外から聞こえてくるような音楽が素晴らしい。ストローブ=ユイレアメリカ 階級関係』の船室にて国歌を聞くカットとまでは言わないが、直前直後の三バカ刑事(そこまでバカではないが)によるコントと相まって、全編わたって物語に奉仕するのかしないのか不明瞭な時間の中でも特別、忘れられない。そして赤いハイヒールを目で追うとコンバーターの差込口が映って、音楽は転調する。それにしても充実したエピソードだった。過去を知る人間、それは前作を見た人という意味でもあるが、同時にそこに何の過去があるのかわからない人間のどちらにとっても、当たり前のようにすべては開かれている。もしくは、何の過去があるのかなんて思い込みや記憶喪失によって曖昧になっていく。リンチは映画の二時間を語りきれない作家であり、それは90分に満たない中短編でもあって、同時に三時間だろうが収まりきれない時間でもあって、ただ一気にすべての物語を映画館の空間に押し込んで見せたくないのかもしれないが、ひとまずは最後まで待つ。ローラ・ダーンの「fuckin」、あらゆることにまずは「クソ」とつけるのも、ティム・ロスの登場も、廣瀬純「シネマの大義タランティーノ論と呼応していると思い込むことにする。リンチにとっての最重要の転換点であることを祈って。「シネマの大義」は作家のフィルモグラフィにおける転換点への指摘に、ぼんやりと共通点を見出して満足しがちな自分はただただ反省させられる。

 

十四話

リンチ本人を挟んでモニカ・ベルッチとデヴィット・ボウイのすれ違うモノクロの夢の、単純だが覚めてほしくない時間の持続、それが単なる別作品からの引用だとも覚めてほしくないのだとドキドキしながら見続けたが、素晴らしい。

 

十五話
まるでエド・ウッドと『エド・ウッド』の間にあって、存在しなかった映画が実現されたようだった。エド・ウッドからベラ・ルゴシへ向けられた目線は、僕はティム・バートンの映画を通しての解釈しかできないままだが、しかし彼らの間に交わし合わされた視線を映画も観客も引き継いでいくのだろう。シャベルとコンセントの達成する役割は、『マルホランド・ドライブ』の青い箱が、やはりただ意味ありげでしかなかったのとは異なって、ギリギリ慎ましく人物たちの橋渡しに貢献する役割から踏み越えないよう留まりながら、しかしドラマを引き返しようのない地点へ踏み越えさせるための起爆剤になっている。そりゃ、心の片隅に、決して好きではない趣味の悪さがそこかしこに散らばっていて「惜しい」とか上からなことも言いたくなるが、ダイナーのキスシーンへ至る彼女の手の入ってくる画がどうにもこうにも全て打ち消して涙したい。そしていよいよクーパーとクーパーの間に引かれていたはずの境界線が、デヴィット・ボウイの声を前にして消えていくあたり、台詞の意味不明さに反して、どんどんと霧の晴れていくような気分になる。そこには一人の人間がどうせ解けない謎かけに対して、ただただ問いかける姿が役柄を越えて目と耳に焼きつくものがある。そのせいか直後のクーパーの若造への一撃が良い。

 

十六話

イレイザー・ヘッド』から継続された頭部破壊・人体破壊も、華はないがここまで来たか、と思う。それはともかくナオミ・ワッツに尽きる。当然女優三人それぞれへ向けられた明暗を無視するわけにはいかないけれど、結局最も記憶に残るのは助手席で風に吹かれたナオミ・ワッツだ。リンチと「顔」については散々言われてきているが、これほどリンチの「謎」から解放された繊細さはないと思う(探せばあるのかもしれないが)。彼女の立たされた不安定で曖昧な危うい足場は最も美しく、偽装されたものではないメロドラマの人物だ。
また今回に始まったことではないけれど、ジェームズ・ベルーシと(恥ずかしながら初めて見た)ロバート・ネッパーのミッチャム兄弟は素晴らしいと思う。ベルーシに兄弟役を与えることがリンチの狙いだとはわかっていても、そんな意図は飛び越えて二人のLet's goにこみあげてくるものがあるからこそ、クーパーのいない場所なのに、クーパーの声はその場にいるように処理され、そしてあの瞬間に音楽は聞こえてくるのだと妄想する。ふつう、クーパーの上司(忘れがたい厚みを得ていくドン・マレー)との握手や、ファンなら感動間違いなしのタイミングが用意されているのに、それでも大事なのはミッチャム兄弟なのだから。彼らが黄金の魂の持ち主だとみんな知っている。

 

『もう一つのローラ・パーマ 最期の七日間』を見ながら、今回の『ツイン・ピークス』とほぼ変わっていないように思った。「適当な思いつきがそこそこ画になればオッケーといういい加減な人」と藤井仁子に書かれているが、事実そんな気はするけれど、おそらくほぼすべてを「未公開シーン」によって構成している感じがする。結局映画にとって「未公開シーン」とは何なのか。
第一話では「25年後」という設定込みでインスタレーション(身体の変化云々みたいな)を見たような感覚もあったが、同時に映像から「25年」程度の年月の変化は掻き消せるのだと楽しんでいる気もする。『エレファントマン』の音響を明らかにいじりすぎて撮られた時期がわからなくなるように。それでも瞬時に人物に年月の変化が訪れてギョッともする。北島敬三の『PORTRAIT』シリーズと似ている。アルバート役のミゲル・フェラーが亡くなっていたことをすっかり忘れていた。
それにしても今回の『ツイン・ピークス』は前回のような一話一日というスタイルが貫かれているのか、よくわからない。

 

最終話

ツイン・ピークス リターン』とは『ツイン・ピークス』に対して「25年」という時間によってドキュメント化する試みなのは間違いないと思う。
イレイザーヘッド』『エレファントマン』の奇形児という形を借りた題材は『ツイン・ピークス リターン』でも決着しなかった。自分にとって責任の取れない子ども。もしくは『グランドマザー』の植物から生まれた祖母。どうして生まれたのかはわからないのではなく、わかりたくないまま、ただ「実在」することこそが重要だった。
ドラマの中の死とは関係なく、現実に役者たちが死んでいった。それなら劇中人物の死くらいは生き返らせてみようという、『デジャヴ』のような展開が待っているようだが、結局リンチは別に誰も走らせることを記録しなかった。むしろかつての記録をいじる。
多重人格、役者たちの世界、同じ場所が別の景色に見える……などというテーマに再び帰る。一人の人間が二人いてはならない、過去の記録の存在しない人間は消えなければいけない、というのも真だが、同時に「一人のはずの人間が二人いた」、「過去の記録の存在しない人間が現れた」のも真なのだ。
最終話のリンチは毎度の往復を試みる。そして整合性のなさに気づいて断絶する。その断絶までに役者たちの顔に訪れる変化に対して、これまで以上の時間を費やす。これまでの謎かけや解釈の余地を残すような意味よりも、ただただその意味を風景から抉り取って、切り捨てていく時間。それがリンチなりの終わらせ方なのだと思う。または時間をかけて、いつもの振り出しに戻すような終わらせ方を改めて試みる。過去を振り返って原因も決着もクソもなく終わらせるという方法は『最期の七日間』でも狙っていたに違いない。
おそらく断絶はしてしまったが、その断絶以前に、現実の死が降りかかる前に記録してきた彼、彼女たちは消せない。(やはりこれはどう考えても)物語は決着しなかった。しかし死者と生者の交流にふさわしい時間をかけたからには、その罰当たりな試みに対してもふさわしい断絶が襲ってくるのだろう、と今は自分を納得させるような曖昧な書き方しかできない。
ただ最後、並んで手をつないだ男女のどちらか一方を消すことなく、単純に切り返し始めた瞬間、もう二度と二人が並んでフレームに収まることはないんだと予感させる。ただ『アウトレイジ最終章』とは異なって、エンドクレジットにおいて二人は再び並んでしまうが。

 

堀禎一監督の『夏の娘たち』は『天竜区』における映画製作が反映された劇映画であって、これまで見たことのない映画を見ていると興奮した。デヴィット・リンチの『ツイン・ピークス The return』にも『インランド・エンパイア』その他の作品(どう名付けるべきか言葉にできない)が反映されていた。堀禎一監督の『天竜区』における試行錯誤(なんて言葉を僕が使うことは許されるのだろうか)が『インランド・エンパイア』と比べられるわけがない。むしろ『インランド・エンパイア』には可能性らしいものはなく、映画監督に戻ることはないとしか思えなかった。映画監督としては死んだと思った人間が『ツイン・ピークス』の続き(として求められている作品)を撮る。絶対に無理だろうと期待していなかった。しかし信じられないことに『ツイン・ピークス The return』は作り上げられた。しかも『インランド・エンパイア』のように何も新たなものなど期待できない搾りかすのような画面の気配を残したまま。
新作が『ツイン・ピークス』の続きということは、リンチからもう新しい劇映画を語ろうという欲望はなくなってしまったのかもしれない。しかし25年前を知らないとよくわからないとか、話の全体像がよくわからないとか、そんな見る側も作る側も記憶がはっきりしない輪郭の中で、リンチの物語は弾け飛ぶ。これまでになく何かを語ろうという意思があるのかないのか不明のシーンが始まっては途切れて、複数の空間を行き来する。ファンを味方につけて自らを守る、せこい作戦かもしれないが、しかし何から始まって、何をもって終わるのかもわからない、この作品に本当に付き合いきれる人間などいるのだろうか(その自堕落な日々こそファンのファンたる所以かもしれないが)。何が思い出されたように回収されて、何が答えを出す気がなかったかのように捨てられるか、見る側の集中力をはぐらかして驚かすための演出以上の、先の見えなさがある。ただ単純に本作の雲や霧の中を抜けようとする映像のような語りといってしまえばいいのだろうか(行儀良すぎるか)。同時にリンチには、いま映っているもの以上を語ろうという欲望は失われていず、その答えへ映像が追い付けなくても、17話冒頭のようにリンチ自らが長い説明台詞でもって語ってしまってでもいい、むしろちょうどいいくらいかもしれない。
役者への眼差しが関係しているのか。本作の25年の時を経た役者たちと、それ以外の前作にはいたのかいなかったのか(それどころか本シーズンの第何話に出てきたのかわすれそうになるくらい)よくわからない人物たちにも向けたドキュメントのような視点は、少しトッド・ソロンズのような悪趣味さがなくはない。しかしそんなことより感動するのは、前シーズンよりも役者としてのデヴィット・リンチが本作のトーンを一貫させていることだった。彼が自らを画面に放り込んでいなかったら、本作は成り立たなかったかもしれない。