フィリップ・ガレル『ある人形使い一家の肖像』

www.wowow.co.jp

 

ルイ・ガレルウディ・アレンの映画に出演したからと結びつけるのは短絡的だが、近作でのモノローグを用いながら男女関係の顛末を語るスタイルがアレンとガレルを意外と近づけているかもしれない(それ以上に異なる面を意識するべきだろうか)。それはともかく、やはり本作は良い映画に違いない。母の棺の十字架を外すような細部に宿る良さもあるが、振り返ればいかにもガレルでしかない要素が詰め込まれているのに、しかしガレルでなくても構わないことを見ているような印象が近寄りやすい近作の中でも、特に感動的な映画だった。凡庸な監督なら手持ちを使うだろう演出でもカメラ位置は定まり、客席の子供たちにはガレルの映画だからだろうかけがえのなさがある。終盤の、それでも前進あるのみといった各々が映されるアップにも素直に感動した。嵐の異様さのような逸脱もある。もしかするとキャリア終盤に操り人形の話が出るのは五所平之助アンソニー・マンに通じるかもしれないが、あくまで本作は舞台の下から腕を上げて動かす手人形であって、その方向は上下逆になり、肉体に与える負担も異なるのだろう。この人形使いという点が映画や演劇を舞台にした時以上に、肉体的疲労と死が結びついて見える。

・国アカにて沖山秀子脚本・監督『グレープフルーツのような女』。序盤の雪山でのパンから何を見せられているんだと困惑するが、だんだんとヘンテコなエロ映画というより、役者の監督作として興味深くなってくる。彼が海外へ立つことが決まって、一人で我慢ならなくなってからがいい。手紙を読み終わっての独り言とかわざとらしいのだがたまらない。望まない暴力的なセックスをさせられるヒロインの眼つきなどリアクションが生々しい。ライブ終わりの飲み会でしつこく彼を口説こうとするバンギャル(?)とか騒々しい。結末が意外と爽やか。
続けて見た珠瑠美『熟女スワップ若妻レズ』は題名通りのパートナー交換モノで熟女と若妻の二刀流みたいな紛れもない怪作で、沖山秀子の記憶がだいぶ薄れた。かなり頻繁にシェーンベルクらしき音楽が流れ(教養ないから音楽の確信もてず)まさしく不協和音というか、特に序盤の唐突に自分語りを珠瑠美が始めてトラックインしだすタイミングで流れるとストローブ=ユイレか?とツッコミたくなるくらいバカバカしい(撮影は『愛のコリーダ』など伊東英男)。部屋住みさせてる元バニーガールから逢引している恋人を奪う場面での、画面奥のベッドで行為に励む二人に対して後ろ姿のままの珠瑠美が衣類を脱いでいくのに合わせて盛大に不協和音が奏でられ、さらに珠瑠美をフルサイズで横から捉えたカットから彼女が背後のソファへ後退する歩みに合わせての横移動が妙に印象深くて、それから彼へ向かって「いらっしゃい」と股を開いて誘惑のポーズをとるアップも相当力強い。そこから不意にコマが飛んで、なぜだか様々な展開に???マークが脳裏を飛びまくるうちに、4P中のヒロイン二人の接吻直後にエンドマーク。エラいもの見た。

 

・国アカにて『よみがえれカレーズ』(熊谷博子、土本典昭、アブドゥル・ラティーフ)と『映画をつくる女性たち』(熊谷博子)。
『よみがえれカレーズ』は『パルチザン前史』より踏み込んだ戦闘訓練のシーンがあって、少年に「銃が弓で、弾が矢と思え」と伝えながら狙撃訓練をするところなど「ここまで撮るか」と驚く。また難民たちが遠景から歩いてくるカットも「こんな画が撮れたのか」という興奮がある。意外と見ていて楽しい農耕、牧畜、工作の場面も多く、藁をまとめて驢馬に乗せる画なんか、こんなに藁というのは身体全体をまるめて大きな量を束ねて、それを驢馬の3倍くらいありそうな大きさで乗せるのかと面白い。また祈りの仕草が身体を何度も揺らすリズムは画に無意味なようでたくさんの動きを入れる。同時に性差の問題は避けられないが、問われはしても答えは一面的には描かれない。そんなフワフワ見ていると不意にショッキングな爆殺された死体と、そのちぎれた手をシートの下にしまうカットに(いまだやまないパレスチナでの虐殺を伝える動画が流れる今でも)動揺し、周りの警官らのカメラを向けられても目をこちらに向けたくないといった顔が印象に残る。
熊谷博子の『映画をつくる女たち』に自作の話として『よみがえれカレーズ』は出てきても(協力に土本の名はあっても)土本に対する言及はない。『映画をつくる女たち』は羽田澄子の「感じた人が動かなければいけない」といった言葉が忘れがたい。宮城まり子の映画はかなり濃さそうで見るのが怖い。『挑戦』(「東洋の魔女」のドキュメンタリー)の渋谷昶子が現場で受けたスタッフからの苛めに近い扱いは酷い話だが、一方で「そうしたスタッフたちも撮っている彼女たちを見るうちに変わる」「嫌なことだらけだが洗濯などして気を晴らすしかない」といった話をする姿には作家としての毅然とした強さが伝わる。『黒い雨』の製作、飯野久の「約束手形」を切る話もかなり面白かった。

『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(監督:鎮西尚一 脚本:井川耕一郎)

鎮西尚一監督のフィルム上映に駆けつけないわけにはいかないと『女課長の生下着 あなたを絞りたい』を見にラピュタ阿佐ヶ谷へ久々に行く。冴島奈緒の役名は「小泉京子」、クレジットには「小沢健三」という役者の名前に94年らしさを感じる。
舞台はほぼ窓際を中心に、そこで開け放たれた窓から吹く風にあたる冴島奈緒の、仕事に対し全くやる気なさげに机に伏して寝る姿の爽やかさも、または横たわった裸体も、フィルムで見ると肌の色がより生々しく、それを目に焼きつけるだけで充分という気がしてくる。ブーツ姿で、どこかたどたどしくも恥じらいなく歩いてくる冴島奈緒のフルサイズの足元に惹かれていくと、直後に滑稽な階段落ちが待っていて、そこで彼女の転倒そのものは見ていないけれど、倒れた彼女自体を見ようとする、こちらの欲望が彼女を決して捉えきれないからこそ更に映画の魅力も増していく。フェティッシュであるよりも、多くをこだわらない素振りに過剰さの魅力がある鎮西尚一監督の素質と、井川耕一郎脚本の組み合わせが、こちらのことなど構わず先へ先へ抜けていく風のような在り方が清々しく、常にこうありたいとさえ思う映画になる。当時であっても影響下にあるのは明らかなゴダールの、今なら『奇妙な戦争』の、もう観客には会うことのできない白い壁に貼られたヒロインの像でも見るしかない、先を行かれてしまった感覚。またはサッシャ・ギトリの、いくら繰り返されても失われない爽やかさ。決して予算がかけられたわけでもない簡素な舞台と、そこから発せられる最大限の豊かさ。たとえばスタンバーグ『ジェットパイロット』のジャネット・リーが制服を脱ぐ間にジェット音が重なるときのような、いやらしく性的であっても、それが吹き抜けていくような感覚が、何分の1の規模であっても成し遂げられている。それさえあればいい。
冴島奈緒が自転車の後部座席に男を乗せて川沿いを走るロングショットが、その相手を変えつつ印象に残る。冒頭に連れられてきた、川へ飛び込む寸前を彼女に救われたという青年が冴島奈緒との性交を経て、体液だけを残し消える。既に溺死した霊との性交という解釈を残すのが実に井川耕一郎らしく、または『雨月物語』的な意味での儚さもある。一方で「かわいい下着が本当はいいけれど、シミとか匂いとか好きな変態が多いのよね」と自転車に乗って颯爽と、というよりガタガタ揺れながら地面の存在を意識させるように冴島奈緒は去っていく。シミや匂いのこびりつくしつこささえ、ここでは誰も座っていない椅子に対して、ただ変わらずカーテン越しに風が吹いているのを見るような、今はないものの痕跡として愛おしく、いわゆる風通しの良さと同一化する。サドルの匂いを嗅ぐ仕草さえ滑稽なお辞儀の挨拶に見えて、馬鹿々々しく猥雑であっても、もはや恥じらいはなく何も気にしない。
寝ている時の、もしくは登場人物に対して以上に、こちらへ目を向けている冴島奈緒へのトラックインまたはズームの、やる気があるのかわからないがやるとなったらやるしかない、そうした佇まいが何かを注視させるのとは異なる印象に繋がる。ただ冴島奈緒のアップを見るだけで価値がある映画かもしれないが、彼女へ寄っていく画に押しつけがましさはない。彼女の存在も風や水と変わらず自然のように吹いてきて染みこんでくる。そうした存在が画の順序の記憶が朧げになるほど唐突に入ってきて忘れがたいものになる。

サッシャ・ギトリ『トア』

劇中にてギトリは「政治には関心がない」「政治より演劇のほうが大事だ」と言うが、「政治も演劇も役者が交代していくのに変わりはない」と続き、「政治は演劇と同じだ」と話題に区切りをつける。作品全体の中で言えば脇道へ逸れたに等しいが、このような台詞を作中に盛り込むことの政治性を理解した上での脱線だろう。
『ある正直者の人生』冒頭の台詞ではないが、本作も倹約精神のためか、主な舞台のギトリ邸セットに扉の外は映されず、すべて居間で展開される。また自宅での出来事を元に書いた演劇の上演される舞台も同じセットに見えるが(セットの一人二役?)、その違いは「第四の壁」になる。
今作にギトリの前口上やモノローグはない。それでも冒頭、扉の外で行われる夫婦喧嘩は一切映されず音だけで、そこで使用人が聞きながら観客がいる前提の独り言を発していて、早くも本作の(というよりギトリの一貫した)「人は誰でも演じる」(扉の外で聞き耳を立てているときほど不意に向こうから呼ばれたら、わざとらしく離れから走ってきたかのように遅れたふりをする、使用人も演技はやめられない。政治≒演劇、人生≒演劇、つまり人生≒政治?)といったテーマは意識させられる。ギトリは扉を出入りするものの、おそらく扉の向こう側にいるはずの喧嘩相手のラナ・マルコーニは第一場面の間、一切姿を見せない。このセットに観客席はなく、八歩分の空間の先には壁があるのは切り返されてわかるが、同時にスタジオらしく天井は見えないくらい高い。電話はかければ大抵通じる。
映画の場面が、上演された舞台へ移るタイミングで、劇場入口のロケーションのカットが挟まれ、カーテンをめくってギトリが客席へ挨拶のために姿を見せる(このあたり本当にカラックスへのギトリの影響の大きさを知る)。そのセット上とは異なる画の外気に触れて見える生々しさに対して、客席にて初めて姿を現したラナ・マルコーニとの過剰なほどカットバックの続く応酬が始まる。彼女は演じる側としてではなく、観る側として出演し、見聞きしたことに対し芝居が進まないほど、何か言うのをやめられない。見るのが苦痛どころか、いつまでもこのままで構わないほど面白いが、そこにカサヴェテスや、はたまたウォーホル&モリセイの作品に通じる、失敗する上演の先行きの見えなさがある(ジャック・ロジエ『フィフィ・マルタンガル』の「冒険」?)。警察によってラナ・マルコーニが追い出されて、ギトリは本作で初めて舞台上の共演者に向けて囁き声を発する。そして自ら書いたはずの台詞を忘れ、プロンプターの声がどこから聞こえてくるかわからなくなるほど過剰に音に敏感になる(ラナ・マルコーニから呼び鈴と電話の混同を招くような野次を受けたのが引き金に違いない)。そして客席は足元から照らすライトにより暗く見えず、そこにラナの姿を探そうとしているかもしれない、舞台上にいても心ここに非ずなギトリに『あなたの目になりたい』の盲目を連想する。すべてが書かれたものなのに、一つ一つへの反応の繊細さが増していくようだ。
舞台上のギトリに向かって「事実に反する」(大意)という妻に対して、ギトリは「誰も事実を見ることはできないから想像力を用いる」と返す。ハプニングも、台詞を忘れることも、電話をかけたのに繋がらないことも(このあたり何だかんだ『バービー』が近いのか)、ギトリにとって窮地ではなく、どのような嵐があろうと最終的にはギトリの筋書き通りに事は運び、どんな人生のハプニングよりも、演じられることに関心がある(これがギトリによる「政治」?)。無論それがどこまでもこちらの先を行くギトリの驚異であって、数あるギトリの監督・主演作の中でも特に自作自演という点が前面化している一本かもしれない。

『網目をとおる すんでいる』(清原惟)『手の中の声』(青石太郎)

scool.jp

グループ上映会「発光ヵ所」の短編プログラムを見に行く。
清原惟『網目をとおる すんでいる』(2018年)は5年ぶりくらいに見直したが、ほとんどどんな話をしていたか忘れていた。「住んでいる」と「澄んでいる」どちらともとれるタイトルと、川沿いに立つ謎の網目の白いテントと、網戸に囲われた家屋の一室と舞台も二つあり、主に家屋で交わされただろう女性二人の音声が、白いテントで横たわる二人に重なり『わたしたちの家』『すべての夜を思い出す』と通じていく。白いテントは清原惟監督作のシェルター的な空間であって、同時に「ここに住んでいる人はどんな人だろう」と話すと「女の人が住むには危うい」場所だと言いながら、ふと「女性の格好をした男の人」の話へシフトする。こうした話の流れはまるで覚えていなかったせいか、5年前の作品にて、こうした話をする意識の鋭さに対して、言葉と声が像として結びつくのは誰にも許されているわけではないという繊細さがあり、そうしたおぼろげになっていく印象は瀬尾夏美×小森はるかの試みと今の方が関連して見える。
その流れで、やや頭が集中して見始められなかった青石太郎『手の中の声』(2022年)。キノコヤにて見た『時空は愛の跡』(2018年)は158分だが205分版もあるらしく、このような全編を集中して見きれるわけがない、一度では耐えられない長さの作品に対して、20分程度の本作は逆に一度では人間関係が頭に入らない。長かろうが短かろうが、どちらにしろその長さを目的としているのが(果たして本当に相応しい長さに収まっているのかはともかく)明らかである点は興味深い。
手紙を書く女のショットが端正な構図として収まっているのだが、そこで投函する相手とは別の人間だろう男が画面外にいる。同じ空間にいる男女は会話を始めるが、女のショットから男に対し切り返すことなく、カメラはパンして、台所でスイカを切り分ける男を映しては元の場所へ戻る。一方で男が切り分けたスイカを手に食卓前に座り込むと、カットは切り替わるのだが、その繋ぎはカメラ2台で撮られたというだけあって滑らかすぎるほどであり、音声の流れも途切れさせない。しかし男の動きは、手紙を書き続ける女と違って落ち着きがなく、男はすぐに立ち上がって再び彼女の側へ向かう。すると食卓前の男を中心にしていたショットは空間のみになり、彼女の収まっていたショットは彼の後ろ姿が重なって、パン以上に画面の均衡を崩す。それから一度見た限りでは記憶できず曖昧なのだが、ともかく二箇所に置いたカメラ位置を映画はあっさり捨て去り、向かい合って座る男女の(この世代の作家としては、おそらくさらに端正に見えるカメラ位置に置き直しての)カットバックへ移行させる。ヒロインを収める画面が彼女の「(彼は)虫も殺さないからね」と話す声と顔を、それまでの文脈の流れから置いてかれた観客にも耳に入らせる、つまり観客のぼんやりとした頭を向き直させる。やがて彼がカメラを手にして、前にいる彼女を撮るかと思いきや、彼女を撮る側のカメラ位置へ招く仕草と声を発する時に(この状況は『時空を愛の跡』と同じく作家の一貫した興味だろう)、画面に彼が映らないまま彼女を呼ぶ声の色気を印象付ける。
何も手にしていないはずの女が、存在しない本を手にとって男に見せた時に、その相手が本を見たかのようにリアクションする、その様子を切り返しではなくワンカットに収めると、ある芝居の稽古か、何らかの過去の再演に見えなくもない。一方で本を見せられることになる男の登場する瞬間自体は、彼女の側からの切り返しであることで、不意に彼女の視界に現れた幻覚か霊か、過去と現在の混濁か、そうしたものに見えなくもないから、本があるかないかよりも、彼が現にいるかいないかの方へ観客の関心は向かう。彼女は二人の男を相手にし、男も「〇〇さんが無理ならあなたと祭りに行きたい」など失礼なことも言う。彼女が手紙を出した相手は誰か、祭りに行くのはどちらか、その解釈は単純に見直せばわかるのだろうか。ともかくここでも彼の過去作にちなんで言うなら「交換≒交歓」への関心は継続しつつ、二時間三十分以上かけて目指す作品での円環よりも、判別つかなさ、解釈の宙づりに向かう。
冒頭を振り返ると、木に帽子が引っ掛かっていて、それを男に肩車した女がとって、男は帽子の裏の匂いをかいで「俺のだ」といってみせるが、実際「俺のだ」と言ってみせるのはエロティックな感覚への興味がある。映画のラストは、あえて木の風に靡く影を実像と切り返すように見せ、セットとロケーションを結びつける。その木の脇を歩くヒロインのロングになっていく一人の後ろ姿を見せる。そこに序盤に彼女を肩車した男も、スイカを食べた男もいない。彼女の歩く道沿いに木は生えていても、木の合間から部屋の男女を覗いていた動物も現実にいるかいないかわからない。

『すべての夜を思いだす』(清原惟)

予想していたよりもどう反応すればいいのか難しく、掴みどころがなく、壁のようなものを感じる。この捉えどころのなさを必要としている人々がいるのだろうと自分で言ってしまうと、本当にただ「興味が持てない」という酷な感想になってしまう。
すれ違う人たちがハローワークの受付、バスの運転手はじめ決して感じ良くもなく、違うルールやシステムの中で生きている異星人同士のような話が通じ合わない壁をヒロイン共々感じさせる。それが『ライク・サムワン・イン・ラブ』の奥野匡が出ていることでキアロスタミの映画と結び付けられるほど、日本の社会構造に触れていると断言できるほど力強くはない。(そこに居場所を求める人がいる空間であっても)話の合わない相手と会うというのは『わたしたちの家』の喫茶店の面接で会ったマスターらしき男性の感じの悪さにも通じていて、その状況は映画の外、たとえば映画館であったり上映スペースであったり、映画製作の段階でもありえることなのだろう。当然漠然と同じ時間を共有できているような間柄というものはあって、世代の近い女友達同士(ダイちゃんなる死んだ友人が間にいるが詳細は謎めいている)、または冒頭のバンド(誰?)やダンスグループ、ロングショットで並んでいく車の列を見ては、ここには映り込んだ人たちなりの時間が流れているのだが、そのやり方は少し単純すぎる気がする。今回は『わたしたちの家』とは異なりパラレルワールド(?)ではなく一つの町をあくまで舞台に三者行き交うが、バラバラな世界が点在している映画と解釈していくと、終盤のハッピーバースデー(予想した通り知人の名前を見つけた)に線香花火のバトンに至り、相互の時間は最終的には微妙にずれて、その視点が誰のものかをずらしながら共有させる。どの話したり踊ったりしている時よりも写真に映った顔が、異なる者の視点として可愛らしく見える。

サッシャ・ギトリ『ある正直者の人生』

サッシャ・ギトリ『ある正直者の人生』。ギトリの出番は前口上とモノローグ、ギトリ夫人のラナ・マルコーニは1シーンだけ。主演のミシェル・シモンはギトリからこのように頼まれる。「節約のために一人二役を引き受けてくれないか」ミシェル・シモンは二つ返事で引き受ける。ギトリの頼みは誰も断らない(ラナ・マルコーニも街娼の役を頼まれ、快く承諾する)。
ギトリの映画には確かに節約精神があるだろうが、それでもここまで豊かな映画はギトリ以外なかなかない。ギトリにおける一人二役は父子であったりコスチュームプレイであったり世代を跨ぐ印象を受けるが、本作のミシェル・シモン一人二役で演じる兄弟の会話は、入口と出口の切り返しこそ危なっかしいが、メインは驚くほどシンプルに同一サイズのカットバックを延々続ける、この名優あっての安定というだけでは収まらない過剰さ、その内容はシリアスでもあるが、いつまでも見ていたい楽しさがある(ジャック・リヴェットによる『我らの親父ジャン・ルノワール』第二部のルノワールとシモンの延々続く会席と並べたい、二人のミシェル・シモンの終わらない対面)。それでも本作のミシェル・シモンには孤独さが付きまとう。弟は自らが役者やジゴロなど(正直「ジゴロ」が強烈すぎて他の様々な遍歴は忘れてしまった)一所に収まらず様々な職を転々としながら、それでも人生を自由奔放に満喫してきた(この語りにさえ漂う寂しさは今ならレオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』に引き継がれているだろう)、そのように兄である自分は生きていないという後悔。弟の「塞栓症」(心筋梗塞?)による死に、医者は「あなたもお気をつけて」と言い、兄弟は同じ病を発症しうるだろうという周りの眼に対して、それでも人生はどちらか一つの道しか選べないという酷な事実は残される。この後悔はあくまで本心は逆に近いとしても、弟の口から「兄のように生きたかった」と言わせるような状況も後に訪れる。夜道を歩くミシェル・シモン(このシンプルな画はある意味『監督ばんざい!』の人形を抱えて歩く北野武も少し連想)には、特にこれといって演じる身振りはなくても、ただ一人しかいない。その夜は灯火管制の夜ほど作り込まれた暗闇ではないが、特に亡くなった弟の部屋で彼が一人過ごす時間に『あなたの目になりたい』の視力を失いつつあるギトリの姿を想起させる。そこへ寄り添うように現れるのはラナ・マルコーニであり、どこかアンナ・マニャーニを連想させる貫禄さえ身についていて非常に感動的であり、これからミシェル・シモンが彼女と人生をやり直す話になるのかと思うと、事態は異なる方へ向かう。また家族との関係を再生させる、意外と毒のない結末へ向かうのかと、それはそれで『ヌーヴェル・ヴァーグ』のアラン・ドロンもしくはジェリー・ルイスみたく感動的かもしれないと思っていると、そうは問屋が卸さないとばかりに、ある夜の妻や子供たちの反応の変化から気づく。ある人物における表と裏での変化が一人二役という題材とあわさって扉入口に頻繁に配置された鏡の存在と繋がるのだろうか。
彼は弟から言われた、二人一緒ならもっとできたかもしれない「いたずら」、この「いたずら」こそ自らが引き受ける運命だったかのように動いているのだと最後にはわかる。本当にこれが最後まで見て初めて観客としても全てに諦めがついたかのように「いたずらのような映画だった」と受け入れるしかない。「あとのことは知らん」としか言いようがないのだが、それでもこの映画にはただただ後悔が付きまとう孤独感から、一切の悔いはないと言い切るしかない方へ転じる賭けがある(そうなるとラストカットのミシェル・シモンにはメルヴィル、ベッケルの映画の主人公に通じるダンディささえ感じる)。一人二役だけでなく、本作には序盤から「正直者」の話に対して、「嘘」というよりは、映画ならではの嘘という以上に「いたずら」と言いたくなる繋ぎがあった。特に全裸に近い姿を披露する使用人が台詞も反応も最小限だが確実に目の離せない存在で、彼女が廊下でミシェル・シモンに大胆かつ瞬間的にササッと胸を触られてから、一家の食卓へ扉から入って出ていくまで、これといって捻りはない単純なカット割りなのにどうしても何が起きるのか注意を向けてしまう。これもまた「いたずら心」がなせるテクニックなのか。