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「世界に杭を打つ 上映会vol.1」へ。

三浦翔『ラジオ・モンタージュ』は、タイトル通りといえばタイトル通りの映画になっている。正しく「切り返し」についての映画。その切れ味だけでいえば『親密さ』より遥かに、誇張して言えば初期ファロッキ見た時のように刺激を受ける。こんな映画が絶えず作られるべきなんだろう。国歌斉唱をするオーディションという『人間のために』の「安倍太郎」に続きわかりやすすぎる設定から始まり(そこが好きなんだが、しかし「起立」でカット割るのはあんな単純でいいのか、再見したら、あれでいいってなるかもしれないが)、ラジオ局に見えない空間からのラジオとタクシーの切り返しを経て、声と言葉のズレは増幅していき、トンネルに入ったタクシーこそスタジオのごとくシャウトしたくなる空間へと変わっていく。

清原惟『音日記』は『わたしたちの家』のように落ち着かないところで終わる。ひとつの空間が二つの時間に引き裂かれる(いま思うと『最終絶叫計画4』の『呪怨』の日本家屋と『宇宙戦争』の家が同一空間にされているのを強引に連想できる)ように、二人の同居人の物語は分裂していき、彼らの間のキャッチボールは、一人になって壁打ちによる居心地の悪さへ向かう。その終わり方で本当に良いのか、よくわからないけれど……。にしても『わたしたちの家』の『ドント・ブリーズ』になったみたいな終盤も驚いたが、『音日記』もアクション寄りのホラーになっていくあたり、かなり盛り上がる。球の落下で音が消えるのは微妙に感じたが……。かつてバロウズがカセットの登場を機にもっと混沌とした世の中になるはずだったと嘆いた記憶があるが、『白夜』の「マルト…」、ペンギンを壇上から地下水路へ引きずり下ろしたバットマンのように、その混乱を実践した映画かもしれない。

4/30の夜勤明けはアドルフ・ヴェルフリと斎藤大地特集にした。本当は小田香特集にしたほうがよかったのかもしれないが、行いが悪いからか記憶から消えてしまった。やはりヴェルフリだけでなく小田香も見たほうがより充実できたかもしれないがヴェルフリと斎藤大地を見れたのは良かった。普段見るものとは違うものを見れたという気がしたからだ。斎藤大地も黒画面とフリッカーの作家と言ってしまえば代わり映えはしないかもしれないが、たとえ人にはおなじようなことをいつまでもやっていると言われようと何しようとやりたいことがある、という気分に浸る。ヴェルフリのように文字も音符も数式も色彩も言語になるのだ。斎藤大地のように誰が撮ったのかもわからない画が点滅し黒画面が画面として引き締まっていくほどに言葉足らずであっても映画になるのだ。そのどちらにもリズムがある。

中川信夫紀州の暴れん坊』を遅い松方弘樹追悼のついでに見たが、『三四郎』とならぶ青春映画だった。そしてまたもホイット・スティルマンとアイヴァン・パッサーがよぎった。石川啄木天一坊のように、吉宗を題材に愛すべき人々の行き交う、そして若き日々が儚く花のように散るまでを追う傑作。

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そうは言っても真に清順の言葉を形にしているのは清順の映画だと『暗黒の旅券』で思い知った。まあ、勘違い、思い込みばかりで無茶苦茶書くくらいしか自分には脳がないので、清順の発言のほぼほぼ何一つ瀬田なつきの映画には当てはまらないとわかって書いているから……。そして、やはりオカマの映画である。「『けんかえれじい』を語る」(『夢と祈祷師』)にて語られる主人公と脇役との関係は、かなり本人の言葉と映画そのものが一致しているように思える。『暗黒の旅券』は主人公とされる人物が事件そのものからことごとく置いていかれ、影だけが、声だけが、ずれたように残っていく。頻繁に繰り返されるリアルな時間経過を無視したようなオーバーラップの使い方が、ますますその感覚を助長する。麻薬中毒者の女性の声が凄まじい。彼以外の人物が殺し合う終盤。そしてオカマと姉の物語。

夜勤明けのため正直字幕がうまく頭に入らなかったがシャンタル・アケルマンもまた『No home movie』で、一周して若返る境地に達していたと思う。カメラを持つ手が震えようが、フレームが四角いということと同じくらい、映画は揺るがない。二階から見下ろす先にある椅子だってヴァロットンのようだ。スカイプ越しの画面さえ醜くなく窓になっている。荒野と家を行き来するうちに『アメリカン・スナイパー』がよぎる。そして靴紐を結び直す。明らかに映画は母も娘も消えてしまっても、あの家と窓と同じように残る。どこか辛辣な面こそ受け止めるべきなんだろうと思いつつも、ただただ爽やかな気分で向き合いたい。

瀬田なつき『PARKS』、やはり良かった。死者が絡むとグンと響く。明らかに条件が悪くて駄作になってる吸血鬼のTVドラマもみーくんまーちゃんも死者が絡んできそうなスレスレで寸止めになる。そのこと自体、映画が真に死者と絡もうとすると諸々の圧力を受けるんじゃないかと思いたくなる。
「夢と祈祷師」に収録された、鈴木清順が『けんかえれじい』について大学生の質問に答える講演を読み直したら、映画が運動なわけがない、人間が事件をきっかけにして変わろうにも変わりようはない、変わらせるとしたら幽霊にするしかしようがない、というようなことを言っていた。正確には違うんだが、なぜだかそのことを思い出しながら見た。
3月11日をきっかけにして(それからの安倍晋三と取り巻きの現状も含めて)変わるというよりも、『SHARING』や『息の跡』がそうだったように、瀬田なつき監督の映画も『5windows』の水辺の幽霊に続いて、死者が絡み、人の言葉を想像する。『PARKS』はついに死んだ人たちも生きている人たちも、そしてやはり訪れる死んでいるかも生きているかもわからない、おそらくは世代のズレを観客にばらしながら時空の歪みから登場したような少女も現れて、同じ公園で歌う。しかし彼ら彼女らが全員同一フレームにおさめてしまいそうなところで、とどまるか、なくなるか、わからないが後は観客に託すかのように、あえて切り返す。その倫理に心動かされる。瀬田なつき監督の映画は、いつもそのように終わるのだが、今回はさらにその先の最後の最後の車窓に惹かれる。
最初に橋本愛がギターを久々に弾くところに一番感動した。自分の感覚を思い出すということが何よりも良い。

『潜熱』

映画を見るたびに覚醒を促される。目覚めるために映画を見る。スクリーンに向けて目を開くために、もしくはスクリーンの外へ、現実へ目を向けるために、映画を見る。しかし現実は映画を見ながら寝てしまってばかりだ。もしくは映画だけ見ていれば満足と言わんばかりに夢を見続ける羽目に陥った。

『潜熱』(三毛かりん)は、事故によって目覚めることのない女性の周りで、彼女の目覚めを待っているような男女の映画だ。しかし彼女が眠り続けている限り、彼、彼女は現実に目を背け、夢を見続けているようでもある。

おそらく彼女は二度と目覚めない。そして目覚めない彼女に対しても、彼女が目覚めないことに対しても、映画はあまり現実的な態度は向けていないようでもある。むしろ映画が、もしくは(くだらない推測だが)映画の作り手が、眠り続ける彼女そのものに重ねられているような気がしてしまう。成瀬以上にあからさまな交通事故の存在。どことなくこっぱずかしくもなるモノローグ。自らの感性に忠実な音楽の使い方。『潜熱』もまた映画の男女に、観客に、覚醒を促す。登場人物は眠りの誘惑と、彼女を断ち切って目覚めることとの間で葛藤している。同時に映画そのものが目覚めなきゃ、目覚めなきゃと葛藤している。夢と現実の境界で、多少の恥ずかしさは隠すことなく、情熱は内に秘めながら、料理をし、酒を飲み、愚痴をこぼすことを繰り返す。そして夢も現実も、どちらも愛しく見ようとする。まさしく映画そのものだ。そして映画から正しく学ぼうという(僕自身には足りなかった)真っ当な姿勢を感じる。今すぐ劇場から飛び出して、陽の光を浴びたくなる。