2016年ベスト。新旧混合。

『物質の演劇』(ジャン=クロード・ビエット)

ヘイトフル・エイト』(クエンティン・タランティーノ

フランシスカ』(マノエル・ド・オリヴェイラ

『朝霧街道』(加藤泰

『皆さま、ごきげんよう』(オタール・イオセリアーニ

『ピートと秘密の友達』(デヴィッド・ロウリー)

ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド

『追憶の森』(ガス・ヴァン・サント

『お腹すいた、寒い』(シャンタル・アケルマン

『VIVA』(アナ・ビラー)

『ラブ・ウィッチ』見逃した腹いせに。

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2016年邦画新作を振り返る。順不同。

 

『ジョギング渡り鳥』(鈴木卓爾
『団地』(阪本順治
『クリーピー』(黒沢清
『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則)
『さらば あぶない刑事』(村川透
『人間のために』(三浦翔)
『遠い火/山の終戦』(小森はるか、瀬尾なつみ)
『タクシー野郎 昇天御免』(川田真理)
『瑠璃道花虹彩絵』(西山洋市

天竜区』シリーズ(堀禎一

 

『人間のために』の登場する学生たちが官邸前抗議でのコールやスピーチを自分たちのリズムで発声するシーンに尽きる。「地点」を経由したかのような探り方で、彼らは多くの人と共に発することのできた、もしくはスピーチとして一人が語った言葉たちを、今度は自分の言葉として再び声にしようとする。そして見聞きする側は学生の言葉をメッセージとして受け止めるのか、ノイズとして聞くのか、声をめぐる境界をさまようことになる。

『タクシー野郎 昇天御免』、撮影所や名画座の歴史を捻じ曲げて過去を捏造した結果、殺意を覚えるほど寒々しい光景が繰り広げられる。東京藝大の映画では『彼方からの手紙』以来、唯一感動した。『さらば、あぶない刑事舘ひろしをはさんでの浅野温子菜々緒の切り返しから、柴田恭平と迎える最後の撃ち合いの飛躍にショックを受ける。吉川晃司の真似がしたい。

堀禎一監督と渡邉寿岳さんの組み合わせがどうなるのかが一番気になる。

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デヴィッド・ロウリー『ピートと秘密の友達』。ピートが交通事故を悲劇と認識する前に冒険の始まりと感じたかのように、自動車は宙を舞う。そして視点は事故を引き起こすきっかけになった鹿へ切り返し、少年のすすり泣きが聞こえてくる。彼自身の主観が悲劇を悲劇と認識させない段階と、むしろ幸運な(しかし以降姿は見せない)鹿からの視点に挟まれ、映画は少年の冒険に対し一定の距離を置く。

彼と出会った竜は、絵本「迷子のエリオット」から名付けられる。それは映画の最後まで見ると彼もまた冒険に出た親のいない子どもだったと想像できるが、そのような連想は観客の自由に任せられているのだろう。ただ竜と少年、エリオットとピートが同じ方角を見つめ、森へ向かう。おそらく彼らは同じものを見聞きしている。そう思わせるからこそ胸に迫る演出がいくつもある。

しばしば小津に対し言われるように、並んだ二人が同じ方角を眺める(しかもそこにはっきりとした対象が見えるのか曖昧である)行為と、不意に振り返った相手と見つめ合うことになる、この位置関係が(ややしつこいくらい)繰り返される映画だ。同じ方角を何人かの人々が見つめること自体、映画的な状況だと思うが、その対象、もしくは一緒に同じ方角を並んで眺める相手が透明になれる竜なのだ。竜の姿が消えてしまったかのように見えてしまうときに風は吹く。逆に風さえ吹かない時は透明になっているだけで、実はまだそこにいる。この風が素晴らしい。風は彼とのわかりやすい決定的な別れを、あえてひたすら遅延させ、そのような「瞬間」など映画にわかりやすく用意しない。終盤の、これといった画面の加工もなく、ただエリオットの触れた絵本だけが映るカットには、風さえ吹けば竜の存在を表現できることを(『キャットピープル』のように)意識させてくれる。

どの役者も愛しいが、ロバート・レッドフォードが抜群に素晴らしかった。彼が「(少年が)六年も一人で生きられるわけがない」というように、そんな時間の止まった世界を生きてきたようなピートとエリオットも当然最高だった。竜のエリオットは最初に「NO」と優しく語るように鳴くが(新しい『猿の惑星』を思い出したが、あっちは怒りと抵抗の「NO」だ)、それにしても絵本とエリオットだけで言葉を覚え続けているという、しかも野生児かターザンばりに動き回るという、ありえないといえばありえない、どちらかといえば古典映画的な設定を現代の映画に移植したときに生じるズレを意識させつつ、ユーモアある演出でもって見せている(ドラゴン狩りに出た大人たちのうち一人が絵本の存在に気づくまでの間を挟んで、彼らが銃を撃つ間などなかったかのように逃げ惑うコミカルな展開へ一転させる演出の批評性も面白い)。ピートの両親の死についてブライス・ダラス・ハワードが彼と語ろうとする時の、すでに少年が両親の死を知っているために、安易な親子関係が築かれるのを避けていくようにすれ違う会話も良い。

たえず視点の替わっていく追いかけっこの映画でもあって、ピートの行方を追うエリオットのもとへ、不意に少女の歌声が重なるあたり涙なしに見れない。(そういえばデヴィッド・ロウリーは影響を受けた映画たちの話で、モンテ・ヘルマンの映画についても触れていた。)

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映画美学校映画祭。『この世の果てまで』(川口陽一)と『瑠璃道花虹彩絵』(西山洋市)だけ。

『この世の果てまで』は『ジョギング渡り鳥』チームによる映画、という印象。監督が録音/音響スタッフだけあって当然音に意識が向かう。歌と、それを歌う人たちの映画だった。役者と音声がフレームに対し抵抗する感覚は鈴木卓爾監督の映画を思い出す。朗読された文章が同じ個所を延々言い回しを変えながら繰り返して先に進まないように聞こえるあいだ、女優が眠気を我慢しているように振る舞ったりするのがおかしい。また合唱の映画といえるあたりも鈴木監督を思い出す。最後の言葉は観客席からも復唱してみたくなる。鈴木監督の名前ばかり出すのは申し訳ないが、しかしここまで見ていて、聞いていて、物語らしきものがわからないのに(『ジョギング渡り鳥』はそのあたり不思議とわかった気になれる)、決して不快でも何でもないのは映画作りのドキュメントとなっているからだろうか……そのドキュメントらしさも『ジョギング渡り鳥』をどうしても思い出してしまうのだが。フレーム外の賑わいや頭部が時々切れる画面は、むしろ只石博紀の映画に近いかもしれない。

 

『瑠璃道花虹彩絵』は西山洋市ホン・サンスは共通項がかなりあると気づく。

まずは飲酒。『河内山宗俊』の雪が彼らの飲んだ酒なのだ、ということを青山真治監督は書いていたが(舞台挨拶で西山監督の弟子という点は強調されていた)、思えば『明日の朝は他人』の雪はモロに酒である。

画面の「非決定性」。一人二役なのか、一人の人間が嘘を吐いているだけなのか。本当に片目は見えないのか。主観かと思ったカットが、次にまだその場所に到達していないことで本当に誰かの見た目だったのか怪しいあたり、ホン・サンスにはない面白さだとも思う。

ホン・サンスのズームのように引っ掛かりはしないが、この映画の男女をともにフレームにおさめたりどちらかを外したりを行き来するように移動する撮影は、フレーミングへの意識で通じ合う(カットを割らない点でも)。詳細は二、三度見ないととても記憶できない映画だが、この映画のカップル、コンビとフレームの問題はとても重要だ(それは一人の女性によって演じられる姉妹も含めての話)。

おそらく夢の中でのヒロインの告白に続いて(ここでの音響の奇妙さも良い)、目覚めてからボンヤリ聞こえる音の、録音なのか劇伴なのかわからない感覚からの、むしろ次のカットでの坂道まで音に引きづられるように結末へ雪崩れ込む(ように思わせる)事件へ続くあたりの面白さ(坂道の重要性もホン・サンスと通じるか)。そしていつの間にか他の人物が本当のところどうなったのかわからないまま、彼の小説の世界として完結させているようにも思うあたり、(高野徹監督には申し訳ないが)『二十代の夏』よりずっとホン・サンスと拮抗しあいながら別の着地点へ必然的に向かう作家性の違いとしても感動する。

写真一枚がモノを言うかに見える芸能界を一応は扱いながら、ここまであっさりスキャンダル写真が消えて、代わりに出てきた写真さえもヒロインとの会話を経て、シーンが変われば誰に知られる必要もなく片付いてしまう気持ちよさが実は一番好きかもしれない(そのためか、彼が彼女に向けて言う「もう会えないかと思った」という台詞が不思議と美しく記憶に残りつつ、この男女をおさめる移動撮影のフレーミングが溝口、エドワード・ヤンを連想したくなるスリリングさがある)。

こうして書いていて西山洋市監督が一応は現代の「芸能」界を舞台に始めてから、一気にキャリアを振り返るように狂い咲く映画となったことに感動する。いろいろ話が変わるから、とりあえずは振り落されずに最後まで見ても、あとで思い出そうとするとわけがわからなくなるあたり恐ろしい。

既に葛生さんが二人の映画をどちらも詳しく書いているので(特に西山洋市

flowerwild.net - ただよう視線、ねじれる時間──西山洋市『INAZUMA 稲妻』

)こうして並べても不粋なだけかもしれない。

役者の中では松蔭浩之演じる元映画監督の執事が、舞台あいさつで触れられたようにそのものずばり『サンセット大通り』のシュトロハイムだけれど、そんなこと関係なく松蔭浩之は素晴らしい。同時にヒロインの母である米田弥央が階段を上ってくるカットも恐ろしく美しい。こうした点も含めて葛生さんの『死なば諸共』の感想が本作にも当てはまると思う。

hj3s-kzu.hatenablog.com

『二十代の夏』(高野徹)

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高野徹監督『二十代の夏』再見。

高野さんの作品では『お姉ちゃんとウキウキ隅田川』が特に好きだが、deronderonderonのPV『IKIL』と東京成徳のPR映画『おはよう』など、近作が人生における「船出」を扱ってきたことを思うと、頻繁に島から船が出ていく本作はむしろ未だに誰もが海の上か、島の周辺をさまよい続けているようなシニカルな結末にいたる。

『お姉ちゃんとウキウキ隅田川』では瀬田なつきをどうしても連想させる、デジカメのモニター越しに時制が曖昧になるカットがあったけれど、同時に隅田川を『巴里のアメリカ人』のセーヌ川に見立てていた。『IKIL』では山戸結希『あの娘が海辺で踊っている』のヒロインを主演にしながら『ジャッキー・ブラウン』の冒頭を思い出させてくれた。比較的手の届く連想させやすい範囲と、むしろ「あこがれ」の対象に近い作品と、そして女優選びの趣味性を結び付ける、高野徹さんの欲望のストレートさが好きだ。

『二十代の夏』はタイトルの「二十代」とともに時間も曖昧に過ぎていく。主人公には欲望があっても、その視点のストレートさに揺さぶりをかけられる。彼が欲望する女性はどうも一人の女性ではなく複数の役を演じているらしい。同時に彼は外見の異なる女性でも別に条件さえ整えば構わないという描写もある。

何より上映時間が変化しつづけている。おそらく42分の尺で固まっているのだろうけれど、本作にはどうも70分近くある『恋はフェリーに乗って』というバージョンがそもそもあったらしい。『二十代の夏』の上映時間がはたして作品の当初の狙いに沿ったものだったのかは怪しい。そもそも瀬田なつきを明らかに経由した『お姉ちゃん~』から『おはよう』での過去と現在の行き来は、男女の「船出」を物語る上でも外せない要素だった。しかし『二十代の夏』での時制は、まるで整理できず混乱した記憶や印象に未だ囚われたまま、主人公が幻想を抱いているのか、嘘つきなのか、見ている人を困惑させる。

クライマックスに『アデュー・フィリピーヌ』の、船出においてはなればなれになる男女を同一フレームにおさめる画面がいかにも用意されそうな物語上の仕掛けがありながら、むしろ女性二人は呆気なく画面外に消えてしまう。このあたりのシビアさが印象に残る。 

高野さんは『濡れるのは恋人たちだけではない』において神代を、『お姉ちゃん~』では瀬田なつきを意識していたのは明らかで、役者の身体性というか肉体というか「生っぽさ」があり、なおかつそれに合わせて映画自体が軟体動物のようにクネクネうねるような変化を実現したかったんじゃないかと思う(そしてその点においてうまくいっているのかきびしいあたりに意義がある)。ただ『二十代の夏』での高野さんの映画はむしろ濱口竜介やホン・サンスの映画を重視する方に傾きつつあるようだ。

 

高野さんの映画ではカメラを持った人物を登場させて、ここぞという時に役者のクローズアップを入れたり(それこそ『小さな兵隊』や『アルファヴィル』の頃のゴダールアンナ・カリーナを撮ったように)、または通行人のような人物を画面の隅ではなくむしろ中心に配置することで、どこか映る人物によって物語から逸脱させ、映画にドキュメント的な要素を取り入れる試みもあった。『二十代の夏』は思わぬところで、物語と関係なくアクシデントは二回ほど起きていた。ただ高野さんにおけるヒロインの役割が変わってしまったかのように、決定的なクローズアップはない。

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次回20日15時~上映@フィルムセンター

 

『人間のために』(三浦翔)は学生映画的な芝居から映画内演劇、パフォーマンスの撮影とインタビュー行為が並べられていたが、同じPFFでの上映作品の中からは(2プログラム、計5本しか見てないが)『DRILL AND MESSY』(吉川鮎太)と比べられるかもしれない。この2本はパフォーマンスの撮影、そこに生じる『人間~』の(テーマと並走するためかもしれない)早さと『DRILL~』の遅さと、そして「痛み」の問題において結び付けられると思う。

『DRILL~』にはブライアン・デ・パルマを思い出す要素がある。映画内映画、映画製作に携わる主人公、欲望するイメージに対する切り返し、女性との屈折した距離、そしてパーティーとドリル。本当にデ・パルマを目指していたなら、(それが単にハッタリやヘンテコの域に留まってでも)何かこれだけは見せたかったという画が弱かった気はする。

PFFで5本見たうち『人間のために』は唯一長さを感じなかった作品だが、他はあまりに時間に対するリズム感覚が弛緩している気がする(なかなか終わってくれない、というと凄く嫌な言い方だが、その長さを良しとしてしまっているんじゃないかと疑いたくなる)。しかし『DRILL ~』は弛緩したリズムが主人公男女の作品製作(「破れタイツ」のパフォーマンス)と、その男女の距離が接近する物語と相まって(なのであのラストは倒錯した貫通として、もしかしたらデ・パルマよりも『スペース・バンパイア』なのかもしれないが)、さらにパーティーでの凶行(というより直後の「なかったこと」にする転調)が悪くなくて、なかなかクセになる。見ている間はワクワクしたが、最後の呆気なさが結果的に「たんにグダグダなだけだったんじゃないか」と、もう少し先を見たくなった。たしかにラストの女優のアップは「美しい」と言いたくなるが、この監督の映画が本領を発揮するためには更にデ・パルマ的な屈折したイメージが必要だったんじゃないか(多くしても園子温みたいにロクでもないことになりそうだとしても、やや血糊が少なく感じた)。そのための場がどこにあるのか、わからないのが残念だけれど(デ・パルマみたくヨーロッパに渡るのか)、むしろ収まるべきところに収まってほしくない魅力がある。要するに成功してほしくないということだけれど……。今更デ・パルマがどうの盛り上がっている自分が一番退屈な人間かもしれないということは、さておき。

 

ただ余計なことかもしれないが、『DRILL~』は併映された『私の窓』(渡邊桃子)、『山村てれび氏』(阿部理沙)と比べて抜きんでた作品というわけではなかったとも思う。『私の窓』の「赤」の使い方は『DRILL~』の血より繊細だったと思う。『山村てれび氏』のテレビとの電車デート、日陰になった車内でブラウン管から輝きだすイメージは三本中最も美しかった。

『人間のために』(三浦翔)

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※2016年のまとめで、改めて感想を書いた。

http://nakayama611111.hatenablog.com/entry/2016/12/31/014545

 

 

PFF@2016/9/11

『人間のために』三浦翔 結城秀勇 | nobodymag

 

最後の手紙なのか原稿なのかを読み上げる女学生の声と言葉と顔をもって、「見てよかった」と思わせるものがある。しかしこの映画で「問い」として成立していたカットは少ない。おそらく工事現場のカットだけだ。予想よりも慎ましやかに用いられるデモの映像は悪くない(横断歩道と警備)。パイプ椅子をめぐる「痛み」を、いかに観客に感じさせるかの「問い」は発せられる。しかし重要なのは映画から言葉によって問われた内容よりも、見ている人は映されなかったイメージを勝手に脳内から引っ張り出せる、つまり映画が何を言っているかとは関係ないかもしれないレベルで、映画は人に何かを言わせたくさせる時があることだ。その観客の反応によって映画はフレームを、枠組みを踏み外しうる(そのフレーム外を意識させるのが映画の重要なところだ)。パイプ椅子をぶつけられそうな瞬間のストップモーション以上に『カリフォルニア・ドールズ』の名前が出てきた瞬間、おそらく使用許可の下りない映像、画像の代わりに(はたしてアルドリッチが撮っていたかもわからない)髪を掴む女性、掴まれる女性の画を脳内から引き出して勝手に結びつけてみたくなる。

この映画には主題として「個人の言葉を喋れているか」という「問い」が貫かれている。この映画で「民主主義って何だ」をひたすら繰り返す時に、ほとんど言葉そのものだけがあって、その言葉から「問い」も「答え」も奪われている。言葉そのものしかないという感覚は、この映画でのパフォーマンス、学生たちによる演劇から自分が得るべきものだったのかは、よくわからない。「個人の言葉を喋れているのか」という「問い」は、役者たちが映画の役柄を演じられているのか、もしくはスタッフふくめて、この映画における技術的な欠陥らしきもの(と受け止められかねないもの)が果たして本当に「欠陥」と呼びうるのか、といった問題とともに結び付けたくなる。

「戦争したくなくて」なのかもわからない「震え」は思った以上に早く、むしろ最初の図書館のカットにのみ映されているかもしれない(それとも全編に渡って震え続けているのか)。棚におさめられたフランク・キャプラが表紙の書籍へ向けられた(昨日見た『フランシスカ』のカーテンに続き)わざとらしささえ感じるガクガクしたズームの「震え」。三浦翔監督が書いた『人間と魚ヶ浜』についての文章を思い出す、脚立の上での(もしかしたらわずかに震えているかもしれない)発声行為(

『人間と魚が浜』三野新 三浦翔 | nobodymag

)。口元と声のズレによって「失敗」したアフレコと、「安倍太郎」だけでなく、四人しか登場しない学生たちでさえ役を演じていると言えない、むしろ「学生映画」「自主映画」というもののイメージを示しているのかもしれないような授業のシーンが続く。ゴダールか、何かを参照したのかさえ、あえて考えさせる以前の段階に振り戻す。

はたして「学生映画」「自主映画」のイメージがどれだけの観客と今後共有できるのかはさておき(たとえばPFFにおいて他に上映される「学生映画」「自主映画」は、数多の自主映画の枠を踏み出したものと言えるのか)、それらは技術的な欠陥が果たして限界なのか、選ばれたものかを宙づりにさせるところがある(上から目線なら「もっと頑張れたんじゃないの?」的な)。この映画の技術的な限界を、どの程度まで示しているのか怪しい録音。同録かアフレコか選んだのか。行くところまで行くと『ホース・マネー』に至るかもしれないが、単なる拙さなのか。しかし飛行機の音が聞こえる場所で役者を喋らせ、酒の席で窓を開けっ放しにして車の音を入れるカットには明らかな意思がある。

不安定なのか挑発的なのか曖昧な、口元とズレた音声による台詞を交わしながら、二人の女学生がコーラを受け渡すショットが、どれだけ「投げる」というアクションを撮れているのかはわからない(そこには「戦後70年」だけでなく「映画史」の積み重ねが曖昧になっている)。しかしこの映画は彼女たちによって飛沫するコーラの泡を撮る(最も艶がある瞬間)。もしかすると『彼女について私が知っている2、3の事柄』における珈琲の泡へ向けられた顕微鏡的な視点に近いのかもしれない(工事現場のショットとの対比としても)。そこに技術的な欠陥とは別種の欲望が宿っているのか、視線にまつわる批評なのか、ユーモアか、それともカメラの性能を示しているだけなのか。そして二人の女学生に対して、消えていたはずの教授のあっけない登場。「安倍」に比べれば(もしかすると単に老け顔なのかもしれないが)思いのほか役にふさわしい身体をしている(ただし、やはりその言葉は演じきれていない印象の)教授と、女学生との切り返し、発声する彼女の顔に寄っては、走る姿に対して引くフレーミングには、映画のカット割りを学んだ人間による遊び心がある。

酒の席で語られる「中東」と、それを喋る役者(学生)は、その移動の経験を演じられていない。おそらく彼は「イスラム国」も「武器」も見ていない。そして『ヒロシマ・モナムール』のように問われることもない。「ここ」と「よそ」という問題を発生させているのかは、やはり曖昧だ。ただ「武器」は前述したパイプ椅子に代わり、彼の演じられていなさについては、後半の(おそらく役柄ではない)彼自身へ向けられたと思われる港でのインタビューによって、それ以上に、中国人留学生本人へのインタビューによって切り返され(この問答の長さは良い)、映画の作り手の視点、立ち位置、枠組みをある程度定めているとは思う。

技術的な欠陥を疑ういくつかが嘘だったかのように心に残るシーンがある。「中東」に行ってきたという学生と(後にある「行動」に出る)女学生とが並んでアーケードを歩く長回しは、はたして彼自身が本当に「中東」と日本との間での移動を経験したのかはさておき、アーケードでの男女二人の移動に伴って、フレームのわずかなブレ、揺れ、震えが持続する(『新宿泥棒日記』の朝焼けか、『H story』の夜更けか)。彼がかつて旅に出ると口にした時、それは「自分探し」の範疇としてしか周囲に意識されなかったが、彼が帰ってきたという前提があって「移動」として認識された。そんな台詞が音楽とともに聞き取り可能な距離でもって寄り添う。奏でられる音楽も、彼らの口にする台詞も、どちらも美しく調和している。そして直後の短い、手をつないだ二人の後ろ姿の切り返し。

わざとらしくユルッとした「野音裁判」にこそ、本当はあの窓からの車の、飛行機の音が被さるべきだったのかもしれない。その物足りなさと、主題を突き詰められていない印象を残す問答は意図的に重ねられたのか。その裁判を挟む「安倍」に振り下ろされる金槌も、「安倍」の手にしたナイフも、それが果たして暴力の瞬間をカットを割ることで処理している時に、単に技術的に撮れなかったのか、意識的に撮らなかったのかわからないうえに、どのみち芝居のユルさゆえに意思のなさだけは感じられるために、映画がパイプ椅子を通して発しようとした「痛み」の問いを、なかなか思い起こさせない。やはり階段、金槌、ナイフにこそ映画の肝はあるんじゃないか、という気もする(つまらないことを思ってしまったという後悔もあるが)。いや、むしろここで「痛み」の問題は忘れられ、この映画に渦巻く矛盾を感じるべきなのかもしれない。

 

※9/15 加筆