『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則)

渡邊寿岳さんの撮影した映画は、その画から映画を語るとバカバカしい気分にさせる。「キンキンに冷えたビールをお見舞いしてやる」から「ナイステイクアウト」まで、正確にではないが妙に忘れられない言葉たちでもって、「良かった」というのも虚しくなる。それでも突拍子もなくナンセンスにではなく台詞として耳に届くときに映画を感じる。役者たちの動きが奇妙に速く予想外に見えても、「早い」映画だとは言えない。むしろ弛緩した時間が、ときにわざとらしく停止したふりをしつつ過ぎていく。顔芸のないジェリー・ルイスだろうか、コメディアンたちの映画として彼らの身体能力が撮られたみたいに見られて、しかも家の近所で一緒にいて面白い友人たちと二、三日で撮ってしまったみたいで楽しい……なんて思ってしまうと、別アングルからの画が挟まるだけで少し驚く。初めて見る只石博紀は相当におかしく、たしかに存在している説得力があるけれど、映画が壊れてるのかもしれない。異なる佇まいの三人の主な女優たちは映画に優しい(ピンク映画的なものを感じる)。飯島大介や園部貴一は、たしかに「向こうから話しかけられても答えちゃいけない」といった人々とはまた別に、影に隠れていながら映画を支えていた(それはこの映画から感じる黒川幸則監督の影に近い)。あの通り過ぎていく人々は、この映画から何か似たものを思い出してしまわないほうがいいんじゃないかという予感に近い。慎重に向き合わなければいけない映画だと思う(7/7追記:あくまでも、観客として)。

『太陽』(入江悠)を見た。抽選の行われる夜、門を越えて車を待つ門脇麦と、FAXが送信されてすぐに結果が返ってくるまでの役場のワンカット、続いて彼女が母親の車に乗って鶴見辰吾と室内に続くシーン、もう一方に門の手前で抽選結果をめぐって繰り広げられるやり取りとが切り返される。おそらく演劇に近い時間が二つの場面を並行して切り返されるあたりから、演劇と同じ物語の映画化のような単純なものではない、演劇を記録しようという試みが軌道に乗っていく。門の後景の闇も、複数の人物をなるべくフレームに収めようとするカメラも、苦手だった古館寛治の芝居も含めて、演劇の記録として見ると、それぞれのパーツの組み合わせとして受け入れられる。奥行きの深い画面が必要な映画であって、しかし後景にいる村人たちの動きが予想を裏切ってくれず、いくつかの風景ショットが美しすぎる気はするし、赤坂さんの言うように音響の点も面白くはなかった(バイオリンのカットを見ると、ラッパーたちの映画は撮ってきたけれど本当に音楽には興味がないんだと思う)。溝口がやりたくても実現不可能だとわかっている監督の映画で、演劇の記録としてフレームの限られた空間での役者の動きを追うことによって、ようやく一歩踏み出す。どうしても130分の尺が役者、スタッフ、物語によるのかわからないけれど全編乗り切るには長く感じてしまうのも、溝口の反射や、リヴェットやホウ・シャオシェンの存在を考えるきっかけになる。

SFとしてはチープな装置も演劇の記録と思えば(積極的にではなくても)受け入れられるけれど、それでも門番の吸血鬼の手、あえてじっと見ていると粗く見えかねない仕掛けでもある、画面の中の小さな一点へ視線を集中させるにいたる持続に引き込まれた。色気もなく美しさも欠いているけれど、その手から浮かぶ煙が、その後のこれまたチープさを隠しきれない手術室での、窓から朝陽の差し込む寝室でもがくノスフェラトゥのごとく横たわる女性の悶えるカットへ響くと思うと、さらに良い。

 

アンソニー・マン『脱獄の掟』のジョン・オルトンによる奥行きの深い画面が、まるでウェルズのようでもあって、特にかつて主人公を裏切った男がパーティ会場で女に暴力を振るうシーンでの、画面外での音の使い方が恐ろしい(『太陽』に欠けていた要素だ)。終盤の銃撃戦でも混乱を引き起こしかねない魅力があって素晴らしかった。脇から入ってきては主人公の代わりに警察へ連れていかれる男たちも、あえて『ウィンチェスター銃』とまではいかないあたりも含めて面白い。

(5/12 修正)

 

上田真之『部屋の中の猫』、見終わってから上田さんの話をもっと聞くべきだった気がする。自分の興味に引き寄せすぎて、何か物足りなさばかり感じてしまった。たしかに思い出してみると、絵を描いている人を目の前で見たことがない。

『部屋の中の猫』は女性が絵を描いているドキュメントでもあり、絵が完成したのかどうなったのかが、部屋の中の猫や、窓の外を吹く風と緑らとともに、曖昧なまま時間が過ぎていく。「過ぎていく時間を画面に記録する」という試みに対して、実際にこの映画が作り上げている時間は、まだ安易で戦略を欠いている気がした。たとえば演出にしろ編集にしろリズムが取れていれば、時間はいくらでも構わないと思うけれど、このリズムがあまりに単調すぎるのかもしれない(役者たちとの空気感も心地良すぎる気がする)。『息を殺して』もそのように刺激を欠いている映画だと思ったし、『みちていく』は文字通り90分の時間が「みちていく」映画だと思ったが、その収まりのよさが退屈だ。

絵を描く女性と猫を同時に収めるフレーミングが、まだ安全すぎるか(寝袋に入った女性の目覚める序盤にはハッとした)。個人的には(同じく茶会記で以前上映された)白岩義行『なしくずしのしゅうまつ』の寝転んでいる作家のまわりを行きかう犬を撮ったシーンの方が良かった。もしくは女性がピアノを弾き始めてから、その音を画面に乗せたまま彼女が絵を描くカットへつなぐ編集がわかりやすすぎて、情報の域に留まってしまうことの退屈さが原因なのか(たとえばジャン・クロード・ルソーの映画と比べて、「素材」が少なすぎるのか、撮る時間が短すぎたのか)。時折挟まれる室外のカットと風の使い方が、室内と室外のぶつかり合いとして刺激的になりそうなのに、どこか音が滑らかすぎるのか、それともショットの順番に問題があるのか、「不穏さ」としても雰囲気の域に留まってしまっている。

絵を描く彼女を撮る位置に、緊張感と上品さを感じさせるところと、その意識が猫にも向けられているところがあって引き締まるだけに、余計(失礼ながら)何かが足りなく勿体なく感じたのかもしれない。その物足りなさの原因を考えさせる映画だ。

アドルフォ・アリエッタ『Flammes』@MUBI。

mubi.com

幼い頃の悪夢を何故だか見直したくなる気分に最も近い映画。

と、まるで自分の経験とつながっているかのように安易に形容していいかわからないけれど、作品に触れることで(良くも悪くも)自分の失われてしまった(そもそもあったかもわからない)感受性(?)を取り戻していく感覚(錯覚)を知った気になることがある。

映される闇は深く、人物は時に鮮明に浮き上がり、時に闇の中に溶け込んでいて、そのどちらもが現実で見たことあるようで、こうして映画となって見るのは滅多にない妖しさ。最初は悪夢にとりつかれた幻想の映画になるのかと思ったら、最終的には映画自体夢であったかのように終わる。画面そのものの魅力はそのままに、妙に可愛らしく喜劇じみたり、情熱的な愛の映画に思えたり、終盤の階段を降りてくる彼女の佇まいに痺れたり、印象は変わっていく。

消防士という職業が、これほど映画と相性が良いと思ったことはなかった、と、これまた安易に知った気になっていいのかわからないけれど、ジャック・ドゥミの『ローラ』の水兵と同じく、消防士と夜という組み合わせが「映画」としか言えないものだった。

そして消防士が対峙するはずの「火」が、これまた素晴らしかった。その「火」のない場所で嘘の通報をする彼女が待つ時間のおかしさ。サイレンの響きが見る人の感情を否応なく高めるはず。その「火」と無縁ではない物質によって映画は締めくくられるが、スコリモフスキ『出発』やヘルマン『断絶』の燃え上がるフィルムとは別種の、映画がとても不思議な物質となって目の前から消え去っていくような結末に驚く。

佐野和宏『バット オンリー ラヴ』、序盤のやり取りから「二歳の不良の映画」と形容してみるには、枯れた味わいかもしれない。特に物語的には嫌いと言いたくなってしまうところもある。それでも瞬間瞬間の見たことない、おそらく監督・主演だからこその自らの身体の感覚から来たようなひらめきがあって、ほぼすべてのカットがユルくても(その意味でもかつてのピンク映画から変わっていなくて)最後まで渡り切ってしまう。細部を真似してみたくなる、もしくは嫌な言い方かもしれないけれど、これをパクった映画のほうが面白いかもしれないという刺激がある。絵画や音楽の登場が『ハートに火をつけて』(デニス・ホッパー)のように生々しく感じる。そして酒場のジョークが冴えている。

鈴木並木さんに対して酷い絡み方をしてしまった時期のあった自分が書いていいかわからないけれど、只石博紀監督の映画を見ていると、5分か、もしかすると5秒も集中して見ていられない画面でも、見るのをやめるというよりは、あえて「作業用BGM」のようにその映像が映されている時間を過ごしていたい気にさせる(あまり見続けていると、嫌な言い方だが、ウォルシュのような「見るのをやめられない」画と音の連続性が恋しくなってくるけれど)。または、本当は映画なんか見るのをやめて、どこか(暗闇の)外へ遊びに行きたい気持ちを、(倒錯的に)満たしてくれる気がする。

(時々「汚い」と形容したくなる)人物の半端な切れ方をするフレーミングに、スタン・ブラッケイジの初期など、いわゆる実験映画のいくつかを思い出す(雑な例えだ)。アンダース・エドストロームの『one plus one 2』に、雰囲気は最も近いのかもしれないけれど。

『にじ』(鈴木卓爾)、二回目。ただしフィルムで見たのは初めてだと思う。「ロールチェンジ!」があるためか、その後の雰囲気が変わった気もするし、繋がっていても変化は感じなかった気もするし、ともかくこの作品のどこへ向かうか、作り手本人もわかっているか怪しい映画の不安定さがあった。それでも以前は、ある種の冷めた視点が映画を古びさせていない例のひとつだと思って見たし、その古びなさは変わらないけれど、やはりこれはこれでかなり狂った映画だった。特におばさんの撮影中、いきなり溝に倒れこむ早さは凄い。『ジョギング渡り鳥』を見た後だと、このカットごとに「NG」のような、「失敗」か「成功」かの概念が存在しないまま積み重ねられていくことが、映画における「成功」したカットという概念に対する冷やかさよりも、果てしなさによる没入として受け止めた(リュック・ムレの「登山」が、抽象化されたトイレの空間が、もうほとんど無償で果てしなく狂って思える時と受ける印象は近いかもしれない)。そして自撮りの方法が、映画を撮っている人間の姿も映していく方法と重ねて考えられるし、列車と水辺が『ゾンからのメッセージ』終盤と繋げたくなる。『ワンピース』シリーズの『種をまいたのはばぁば?』のようなフレーム(上下左右)への意識から、カメラの裏側へ、『ジョギング渡り鳥』は冒険していき、『ゾンからのメッセージ』にて画面の奥へ向かっていくということなのか。