『悲しみはいつも母に』(中川信夫)

www.amazon.co.jp

主演が羽仁進『不良少年』の不良少年!という話だけ聞いて「なんと野心的!」と見たくてたまらなかった映画が(ぼんやり上映の機会を逃していたわけだが)あっさりAmazon Primeに。

望月優子の感動的な『かあちゃん』と『東海道四谷怪談』『地獄』が合体したようでもあり、その意味で新東宝での最後の作品(配給は大映)にふさわしいということもできる。ただ「不良少年」である山田幸男には『思春の泉』にて乗馬経験を買われて抜擢された宇津井健のような初々しい魅力も『憲兵と亡霊』の天知茂のような悪の美しさもない。ただ教師の会話にも出てくる「かわいそう」な男、はっきり言って醜い男が「演じる」(しかし沼田曜一の憑依したような顔つきともいえるし井筒和幸の映画に出てきそうでもある)、特に人の懐に手を突っ込もうとする仕草の、優雅さの欠片もないアクションの記録こそ狙いだったのだろう(不良少年・山田幸男の生い立ちを僕は正直よくわかってないが)。
しかしフライシャー『絞殺魔』といいアルドリッチ『甘い抱擁』といい、何らかの悪しき出来事の前触れとしての画面分割という効果そのものの不吉さが本作にも満ちている(しかも先にあげた2本が68年なのに対して6年も早い)。そもそも前年の『地獄』における分身したヒロイン二人並んで微笑んでいる画の不気味さも、画面分割の一種かもしれない(本作の『絞殺魔』を先駆けているかもしれないラストショットは、ネットで「検索してはいけない」画像として話題にされる母親の覚醒剤使用防止を訴える政府広報での泣き叫ぶ子どもの映像と並べても劣らない、今でも古びない怖さがある)。

画面分割だけでなく、たびたび一つの画のなかに二つの出来事が同時に起きる。仲間が騒いでいる画の中でも大空真弓一人だけが冷めているという画もある。それでいてクライマックスではグリフィス的に複数の場所を行き来する画面連鎖が、『地獄』同様の展開でもって発揮される。『地獄』の車輪や、さらには『女死刑囚の脱獄』と同じく「時計」が隔てられた空間を結びつける装置として、単に時間を刻むだけでなく円形と針のフォルムと影でもって不気味に印象に残る。本作の望月優子はなんと列車と並走までするが、それは『イントレランス』の自動車や『阿修羅三剣士』クライマックスのラグビーみたいにゴールへ向かって走る勢いとは違って、やはり『地獄』の赤ん坊の泣き声を追うものの(観客にとっても)どこへ向かえばいいのかわからないまま走る天知茂と同様に、そのゴールは見えず結末は宙づりにされるしかない(ちなみに『地獄』で響く赤ん坊の泣き声と違って、少年の泣き声はパーティーシーンで消された歌声のようにあえて聞こえてこない)。
母子が一つの画面に収まっても同じ空間にいないかのように、望月優子の声なんか聞こえないように山田幸男が横になったままの(まるで分割された画面を見ているような)ロングショットでも、母が息子のむかし書いた作文を手に取ったとき、幼い頃の彼らしき声による朗読が聞こえてくる。そこに被さる望月優子と、続く山田幸男のクローズアップは切り返しという印象を与えない(中川信夫はしっかり60年代ゴダールと並走もしくは先駆けていた)。さらにはまるで少年の声がその場に響いていたように飛び起きて、その声を消すべく山田は作文を奪い捨てるロングショットへ。いくらでも泣かせる展開へ持っていけそうなところを、奇妙な笑いに転じる距離感がある。
見たものを見ていないといい、聞こえないはずの声が聞こえ、生きているはずの人間を死んだも同然と言うしかない、「不良」が生まれる世界は幾重にも捻じれた救いのない状況である(その捻れがドラマ的に極まったタイミングでの「巻き戻し」たかのようなフラッシュバックを経て望月優子は息子を見ていなかったと嘘の証言をしてしまう)。そんな映画で最も滑稽なのは「いくら働いたからって貧乏なんだからしょうがないんだよ!」と嘘も何もなく、身もふたもなく望月優子が言うときでもある。望月優子が改めて「見た」と証言するため動き出すときに、バケツで転ぶ音と動きが響いて、そこには別種の説得力が一瞬のアクションに宿り、泣かせる。
大空真弓が帰宅して家庭内での会話は、大空真弓が「おばさま」とカメラ正面に目線を向け、切り返された相手の「おばさま」は背けていた目をカメラ正面へ向ける。しかし次のカットではすでに大空真弓は会話を続けているのに移動しており、明らかに彼女たちの視線は意図的に繋がっていない。数日前に成瀬巳喜男を見たばかりだからか、成瀬の技法が違和感なく消すことに成功している、会話シーンにおける画面外の人物たちの動きを、中川信夫はあえて意識させていると感じる。
山田がヤクザからいためつけられる路地に水たまりがあるように、やはり水は不吉であり、話を動かす主題にもなる。波止場での山田幸男と大空真弓との距離が縮まるシーンにおいて、山田に突き落とされた彼女は明らかに吹き替えであり、その彼女を泳いで助ける彼もまた吹き替えなのは明らかだが、それでも危うさに満ちたショットになっている。その直前の(中抜きしたように見える)ショットが吹き替えと思えないことも理由になるし、そもそも波打つ水の恐ろしさもあるし、何より「吹き替え」という役割に関係なく、その大空真弓本人かわからない彼女が実際に溺れかけそうな「本物」に近い危うさがある。その合間の山田の微妙な顔も魅力的なのだが、その魅力は伴奏のように響く汽笛の効果とも無縁ではないだろうし、前後の「吹き替え」によるロングショットから捏造された印象なのかもしれない。吹き替えの男女たちのホンモノらしき危うさのある救出の場面から、山田と大空の乾かしている衣類のみのショットへ繋げられる。救出の瞬間そのものは省略されて、物だけを撮ったショットへ繋ぐ。画面内部に生々しさを記録しながら、明らかな「操作」が行われていることを観客に向けて晒している。

『ふゆうするさかいめ』

https://totan.tokyo/post/187441774814/%E3%83%88-%E3%82%BF-%E3%83%B3-betunoie-instagram-photos-and-videos

totan.tokyo

谷中銀座のトタンにて住本尚子監督『ふゆうするさかいめ』を見る。寝間着と普段着の境目が消失したまま喫茶店で働く女と、布団工場で働く彼女の幼馴染の女と、布団の販売をするスーツの上下が揃ってないままの男という三人の話である。どうってことない映画と思われるかもしれないが(失礼)これには元気が出た。

誰かが横になり目が覚めると何かがズレてしまう(関係性の「床擦れ」みたいな?)せいか、三人の間に進展する何かや判明する理由があるのか、微妙にはっきりしない。最終的に寝間着の女と布団屋の男が恋に落ちたかさえ、はっきりそうだったと言いたくない。まさしくタイトル通り男女三人の境目が浮遊してしまったがゆえに、たとえば男は訪問販売の際に顧客の妻の幽霊を見たかもしれないけれど「見た」とは話せず、一方幽霊を見たと女二人が語り合うとき画面に出てくる両親は「幽霊」というより「フラッシュバック」と呼びたくなる。登場する男女の部屋の見分けさえ付かないままだが、それも狙いというより拙さによるものかもしれないが、それくらいあらゆる境目は曖昧である。

関係性や記憶や働き方をめぐって対話は素朴に繰り返されるが、むしろ『ふゆうするさかいめ』という記憶に残るのは一つ一つの仕草や、声や、小道具たちへの愛着であり、その向こうに何が見えるのかわからないが何となく何かあるように見つめる彼女たちの顔であり、さらには歩く、歩きながら話す、横になる、よりかかる、踊る、歌う、公園でのおんぶからの寝技、布団の運搬、布団工場での作業、化粧、燃える伝票、上下が揃ってないままのスーツ、傘、床擦れの黒、入浴剤の白、粉雪のような綿、そんな諸々を結びつけるリズムである。

眠るために横たわり、眠る場所を求めるように歩き、眠りへの誘惑に耐えながら立っていたり、仕草のほとんどが「眠気」を理由にした行為だと理解できたとしても、眠った途端に時間も場所も飛んでしまうため、眠っている人間そのものをじっと見る映画でもない。睡眠時間そのものは省略されて、むしろ一つ一つの仕草や小道具が、愛情をもって繋げられ、あるリズムを獲得していくのが見ていて、ただただ好ましい。あらゆる行為を中断させる眠りそのものよりも、身体を横たわらせるための「布団」への愛着が湧いてくるからこそ、彼女と布団のダンスは微笑ましい。また彼女が布団に身体を預ける仕草が印象に残るからこそ、電車の扉に身をゆだねる仕草に感情がこみあげてくる。切り裂かれた布団の綿が粉雪のように舞う「白」の美しさは、風呂場での眠りから目覚めた彼女の裸体を優しく包む入浴剤の「白」と結びつき、その白さは映されない彼女の背中の床擦れによって「黒」くなった肌のことも守っているようであり、風呂場の扉によぎる影が白と黒の合間にリズムを生じさせる。そのリズムが映画に夢遊病的な印象よりもほんのわずかに活動的な、束の間の休みをただ眠って過ごしてしまう代わりに、力を入れすぎることなく楽しんでいるような時間を与えてくれる。特に電車が出てくると、わずかに世界が広がったような解放感がある。

眠りの代わりのような仕草や小道具や人物(そこにエキストラの区別もない)は、どれもまるで眠りと同じような愛着が込められていて、その愛に気付くために目覚めているようだ。同時に、生きていて横たわろうとしてしまうことそのもの、どこか年中貧血気味みたいな身体を、何か原因を見つけるわけでもなく、男女の区別なく肯定する。その優しさに元気づけられるのだろうか。

『イメージの本』

『イメージの本』は「手」から始まる。それでも『映画史』からの再利用もあるだろうから、いま見聞きしている画も音も、もういつからあるものなのかわからなくなる。それだけが理由ではないだろうけれど、あたりまえだが「達人」の域さえとっくに超えていて、何らかの手つきを感じさせる隙さえない。『1、リメイク』から映像は黒画面も何かをぶった切ることなく、もう繋がってるかいないかどうでもいいくらいただただ続く(『大砂塵』からの『小さな兵隊』のアンナ・カリーナがやっぱりいい)。そしてやはり今更な感想だが画と声の怖いくらい果てしなく広がる自由を予感させる。それでいて作家たち自身による海に浮かぶボートのロングショット。今が黒画面だろうが電車だろうが、ボートは波を漂い続けてきたのかもしれない。誰がいつどこで何を撮ったかの署名もクソも訳がわからなくなってしまっても、何重ものミルフィーユ状の層の果てに映画は奥底に潜り続ける。映画にはデジタルリマスターとして保存されるより相応しい記憶の底へ朽ちていく生き方がある。『イメージの本』という頁は読む暇なんか与えずパラパラと閉じられる。それがパラパラ漫画なら見えた気になれたかもしれないようなイメージなんだろうか(なんてことでいいのか)。

『ウィリーが凱旋するとき』

ウィリーは町で一番初めに出願したはずなのに、戦地へ行けないまま故郷の基地で教官として過ごす、実家暮らしの日々。これが彼女と過ごす最後の晩かもしれないという調子で「人生には数分しかない」なんて涙なしには見れない会話もしたのに。それでもあの告白が泣かせるものであった事実は少しも揺るがない。これから始まるウィリーの困難な日々の始まりにふさわしい出来事なんだとも簡単に信じられる。
どれほど『ヨーク軍曹』を意識したのかわからない。なかなか故郷から出られないままのウィリーが感じているかどうかともかく、戦地のヨーロッパという「よそ」に向かうことなく故郷という「ここ」で過ごす日々もまた「戦争」そのものを感じさせる。まだちっちゃなウィリーの消えた家も、善行章のついた軍服でウィリーが過ごす家庭も「同じ毎日の繰り返し」でありながら紛れもなく戦地と地続きにある光景なのだろうし、その「戦争」は第二次世界大戦に限らない。夫婦と息子の揃った『リオ・グランデの砦』のような、またはリタ・アゼヴェド・ゴメス『ポルトガルの女』の戦地にいる夫を待つ妻のことも思い出す。馬はいないが足元には犬がやってくる。
フォードを「『待ちポジ』の名手」という堀禎一監督の『憐』のクラスと同じく、何が消えようと、突然現れようと、戦場と学校と家庭の日々は同じことの繰り返しであろうとする。そのフレームは揺るがないがゆえに恐ろしい。『ウィリー』冒頭の記念撮影で父親の登場が構図を乱すことになるかもしれなくても、結局は「あなたの登場を待ってました」という「待ちポジ」になってしまったようにも思えるし、その展開がなかったら味気なくて仕方ないのだから「待ちポジ」は恐ろしい。
にしても「教官」になった彼の見たものはビックリするほど映像になってない気がする。あの不時着だけしか見せないのが無茶苦茶面白いけれど、それを「フレーム外」というものを想像させる演出なんて言っていいのかわからないほど、彼と教え子のエピソードなんかちっとも出てこない。誰かに置いてかれた(周りが消えていく)不安と滑稽さはあっても『長い灰色の線』のクリスマスみたいなこともない。たぶん『リバティ・バランスを射った男』や『シャイアン』のような、歴史を語る際にこぼれ落ちて消えてきた諸々についてと結び付けられるのかもしれないが「フォード論」を書けるほど見もせず安易に口走るのも恥ずかしい。
ともかく教官としての日々は映像にならず、まさかのフランスでの法螺話へと向かう。パリでは自転車が活躍する。さらに船出を見ながら手に汗握ったとしても、それでもフレームは揺らがない。人物は酒でやられてしまっても映画は揺らいでない。その信用できなさによってウィリーが生涯幽閉されるという悪夢の可能性は見終わった今も消えない。そして(もう一人の「待ちポジ」の名手による)『お茶漬けの味』みたいな、あまりにも遅すぎる見送りが(狐に化かされたような気分で)待っている。イヴリン・ヴァーデン演じるお母さんのことも忘れられない。

『遠い明日』(監督:神代辰巳)

三浦友和の実の父(金子信雄)は無実の罪で服役中。真犯人は彼の身元引受人である若山富三郎だった。そんな事件の解決まで、神代辰巳の映画だから真っ直ぐ進むことはない。『アフリカの光』や『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』の、同じ場所をグルグル回ってどこにもたどり着けないような印象は通じる(あまり好きではなく、見直す必要があると思うが)。ただこの二本以上に、冤罪事件が題材だから重苦しいかと思っていたら、どんどん愉快に、やがてたまらなく寂しくなってくるから驚く。
三つ数えろ』や『ロンググッドバイ』のような探偵映画の傑作に近いのかもしれないが、それ以上にやはり青春映画である。お願いだから「明日」なんか来ないで、この戯れを繰り返していてくれと、死を選ぶ若山富三郎に「かぶりつく」三浦友和のように切なくなってくる。宮下順子のウザさも、地井武男の無意味さも、憐れな金子信雄の醜さも、神山繁が君臨していることも、浜村淳が死んでいることも、各々の役割が容赦なく存在する。そんな世の中の仕組みに抗うのでも諦めるのでもない。その仕組みの陰謀論めいた怪しさが探偵映画らしくもあり、学園映画らしくもあり、何より各々が役割と戯れているようにしか見えず、大変愉快でおかしい。
何かが面白味もなく終わって、あの遠かった「明日」が来てしまう予感に満ちた「今日」を繰り返してる感覚が幸せなのだ。でも、そんな「うまくやっていけそう」がいつのまにか終わるのではなく、目の前で血を流しながら若山富三郎とともに倒れる。その残酷さは強烈だ。若山富三郎になぜだか『ビューティフルドリーマー』の温泉マークもよぎったが、彼は三浦友和にとっての役割をわかっているのかいないのかともかく、彼は彼自身の地獄を生きている。停滞してほしい時間、それは笑うしかない反復であって(エンドクレジットの三浦友和)、『鍵』の全く時間を意味しない針の形でしかない時計と同じだ。現実とも人生とも異なる映画にしかない時間だ(いしだあゆみのことはうまく言葉にできず)。

山形育弘脚本・七里圭監督&黒川幸則監督新作上映@キノコヤ

www.facebook.com

jackandbetty.net

pff.jp

山形には行けなかったが山形育弘脚本特集には遅れて行けた。どれも職探ししたりしなかったりでプラプラした時間を過ごす人々の話だが、特に『Unnamed Road』の、いま見ている世界と自分の望んでいる世界とのギャップがありながら、「こうあるしかないんだろうか」と曖昧に過ごす一見楽し気な時間が、観客としてはとにかく気持ちいい。
PFF以来の『川でギャー』(黒川幸則)は初見以上に感動した。「ワンピース」シリーズ番外編としてワンカット・固定という縛りの一本でありながら、一度にすべてを見聞きすることが不可能だと諦めさせる作品で、許されるなら続けて5回でも10回でも好きなだけ繰り返し見たくなる。それだけ役者たちの顔と声を隈なく見直したい。それはギャラリーでのエンドレスにループするモニターではなく、劇場の暗闇と大きさでこそ発揮される。
『Necktie』(七里圭)は一見すると七里圭作品で最も緩い、だからこそ(おそらく『眠り姫』以降)最も愛すべき一本。フラッシュバックと女二人のあれこれが展開される時の、いくらでも(たとえば『ツイン・ピークス the return』のように)膨張し続けそうな題材を、本当にどれほど時間をかけたのかわからないほど短く圧縮する七里監督の力技を堪能できる(その意味で本作も何度でも見直せる)。唐突な青空での特訓シーンがとても美しかった。それでいて喫茶店やバーのシーンはどこへ向かおうとしているのかわからない。山形育弘本人の顔が何度も映っては、なにか馬鹿にされているような気持ちになる。どのように味わえばいいかわからない……、このコメントしがたさこそ七里監督の持ち味なのかもしれない。

『共想』(監督:篠崎誠)

www.youtube.com

filmex.jp

渋谷某所にて篠崎誠監督『共想』。初見。
『死ね!死ね!シネマ』の、映画を不定形のものにしたい、そもそも映画には見返すたびに異なる姿になってしまう、形のないものであってほしいという欲望と、そうであっても一度見たら忘れられない傷跡が残る、確かな存在であってほしいという欲望。見る側としては、二つの欲望の間には忘却とショックがあるのだろう。絶対に忘れられないことがあったはずなのに、正確に覚えていないという体験(はたして自分は映画にそんな経験をしたことが本当にあるのか? 他人の文章から植え付けられた偽の記憶じゃないか)。
もしくは未知の存在との不意打ち。初めて見たはずなのに、何度も繰り返したことがあるような出会い。かと思えば、どうせまた同じようなものを見るかと勝手に想像していたら、そんな予想を平然と裏切る何かと遭遇する。
数多くの映画たちの記憶があったはずなのに、映画によって警告されてきた過去を繰り返してしまった、予期できたかもしれない事態を避けられなかった、そんな後悔の念がよぎり続ける。その念は『SHARING』を2バージョンに分裂させ、映画の全体像を見た人はこの世に一人もいないような気にさせる。それでもなぜだか見た人たちが「共有」できる、だれも見ていない映画が存在しているのかもしれない。
共有と分裂。上映後の監督自身による解説では『共想』に複数のバージョンができることはないという(しかし関連性のある短編が存在しているらしい)。それでも『共想』の同じ場所に並んでいるのに、同じ場所に生きているように見えない二人は、ひとつの定まった完成形に触れているという安心感を与えてくれない。捧げられるキアロスタミフーパーのように、なかなか気持ちは落ち着かない。この心のざわつきは『王国』(草野なつか)の台風を並べたくなる。
同じ時間・空間を共有しているはずなのに、それぞれ別のものを見ているような二人。同じショットの中にいるのに、異なる時間を生きているような映画の力。ある時点をめぐる記憶が、それぞれの人物によって変化してしまって、いまや異なる時空を生きるようになってしまう。2011年3月11日の震災に関して「被災地」にカメラを向けるかどうかという問題も年月の経過が宙づりにしてしまったかのように、千葉の台風被害の記憶も新しいからか、もはや「どこ」が被災地だったかが曖昧になっていくような「忘却」の恐怖さえ感じる。そもそも『共想』を見ている自分たちは、いまどこにいるのか。
もの凄く危なっかしいものを見ている不安さえある。迂闊に「共感」でもしたらアウトなんじゃないかというくらい危うい。インタビューシーンで語られる「3月11日」の経験を聞きながら、彼女の芝居にどれほど距離をもって見るべきなのかと不安になる。濱口竜介『親密さ』から『なみのおと』など東北を記録した作品の、ドキュメンタリーとフィクションの間をさまよわせる試みの一つとしての正面からの切り返しから、よりフィクションの(「芝居」というべきか)側へ傾いたようなシーン。映像の力を通して「共感」を呼ぶために使われてもおかしくないような、役者本人の経験がいくらかでも混入されているんじゃないかという、即興的な芝居。アルトーの『ヴァン・ゴッホ』を読むショットから、赤坂太輔氏によってジャック・ロジエと対比して語られる「自然さ」の作家としてのモーリス・ピアラの名前をすぐに連想していいのかはわからない。
ほとんど「悪しき」映像に傾きかけない力に触れつつ、映画とともに闘っているようだ。即興的な芝居の「自然さ」と、いくつもの作り込み(野球部の音声が断ち切れて外の人物がいきなり消滅してしまったような音響面での操作)。何らかの一線を引くように、映画は感傷的になることを避ける。演劇の道へ進むのか、生徒と教師の微妙に互いのリズムがズレ続ける、特に笑ってしまいたくなる先生の返し方には「自然さ」が、映画がどこへ向かうかわからない不安と同時にユーモアも貫かれている。
北野武の映画に出てくる、どこを見ているのかはっきりしない人々が、ときに画面の構図に収められてしまった印象から解かれて、どこへ向かっているのか(進めているのか)わからなくても歩き続けているようでもあった(歩く人を正面から捉えた映像)。または『悪魔のいけにえ』の覚めても覚めない悪夢のような現実の連続と近い、非常に「何を見た」のか共有することが困難な展開。ヒロインの身体表現をめぐるオーバーラップや、同一人物か謎めいた声が重なって『あなたはわたしじゃない』はじめ七里圭監督作品の身体と音声をめぐるスリリングな瞬間がよぎったりもした。
いろいろ名前を出してしまったが、それでも手袋をめぐる終盤のリアクション、あのホッとさせる、いろんな力みから解かれる瞬間に尽きる。これこそ本当の温かみじゃないか。