『どうすればよかったか?』(藤野知明)

話題の『どうすればよかったか?』を見る。
今となってはセルフドキュメンタリー的な作品を見るなんて苦痛でしかないだろうし、それが第三者の容易に立ち入れない領域の出来事と言うなら、野次馬的に見に行ってしまう自分はどうなんだとか思ってしまう。
「日本という国や社会の抱えてる問題の一つなんだから日本が変わるしかない」と雑に言って済ませたくもなる。そもそもこんなに話題になる上映自体どうなんだとか議論は尽きないだろうが(未見だが話題になった)『月』よりは確実に見るべきところがあるだろう。またベロッキオ2作と同じ年に公開されたというのも縁はあるかもしれない。当事者性の強さで言えば(これまた話題の)『春をかさねて』より強く、もはや「弟」の作品であって映画作家としてのキャリアに繋がらないように見えなくもない(『マミー』は見逃した)。しかし映画として決して不出来でもない。ひたすら気が滅入るのを想像していたが、実際はそういうものではない。むしろ相当に、気が滅入るだけのものにはしない、という意志は感じる。『ダーティ・キッズ ぶきみくん』のビデオケースを使ったアウトサイダーアートの数々(?)など「これはこれで生きてる証か」とか観客の立場から無神経に関心しそうになった。認知症の母が娘を起こしてしまうくだりなど不謹慎ながら少しおかしい。最後の姉が見送るカットを入れるあたり思い入れはあるだろうが、やはりドラマにしすぎてないかなど引っかかるが。
序盤に日本映画学校の話も出てきて原一男の気配がよぎり、一時のセルフドキュメンタリー的なものの流れで公開される可能性も想像できるが、そうならなかっただけでも真っ当かもしれない。第三者の介入を拒む両親に対して、弟が第三者の目と声となって撮影するほかないと選択した上での姉と両親の反応に対する貴重な記録ともいえる(姉が「弟」を見ている時の姿なのか症状が悪化するほどわからないが)。ただ序盤に「記録の意味はない」といった字幕を見ながら「どうすればよかったか?」以上に「今から見る映像は結局のところ何なんだ?」という具合に、意味や、作家の意思が観客にとって宙づりにされる。いまだに話題に上がるフェイクドキュメンタリーのホラー映画を見る感覚に近いかもしれない。
終盤、これまで撮影してきたものを映画にしていいか、改めて父に問う場面での受け答えが単なる言質を取る意味よりも、むしろ第三者の介入を拒んできた父が娘への選択を後悔していないことか、それ以上に家庭内のことを外部の他者に見せても問題ないと言わせていることが大きいか(序盤の「家族の記録」として両親に言い訳しつつ撮り始める際と対になる結果か)。そうした映像の力はベケット的な状況も含めてワイズマンの作品に近い悪意を感じる。