フィルメックスのあたりの日記②

太田達成『石がある』または石ガール? 前作『ブンデスリーガ』も何がいいのかさっぱりわからない突き放しただけの映画だったが、これも死ぬほど退屈とまでは言わないが、かなり見ていてしんどい。加納土についていく小川あんという組み合わせが、微笑ましいようで、だんだんイライラ、不憫になる。それだけ。あとは石積み(賽の河原か?)の光の加減とか? それ以上の何かあるかもしれないし、別になくてもいいんだろうが、結局このような二人を見続けて、こちらも時間を虚しく費やしただけ。ノートの字が英語字幕抜きでは読めず、自分の視力が不安になるが、このあたりの何か話に奥行きありげな感じがさらに嫌いになる。「何がしたいんですか?」って聞きたいのはこっちだが、いや、何がしたいかわからなくはないが、もうこんなのは見る気が失せてしまった。正直こういうのを撮りそうな(失礼ながら)映画作家として五十嵐耕平も思い浮かんでしまうが、こんなのを見させられても観客には何の得もない。こういう映画から細々と美点を見聞きできる感性の研ぎ澄まされた人になるべきかもしれないが、どうせ自分にはできない。ただ自分は映画を見るセンスも学もないし、どちらかといえば人から教わる側なので、たいていどっかの誰かさんから「もう一回見直したほうがいい」とか「シネフィル的価値が絶対だと思いこんでる」とか「いや、こういうよさがあるんだよ」とか言われて「いやあ、僕は世間知らずなんで」としか言えないだろう。

アルベール・セラ『パシフィクション』今回はピンチョンと聞く。いや話半分に受け止めるべきか? ただひたすら陰謀の香りが漂う島にいながら、数少ない場面を除いて、ほぼジャケットを着替えることなく過ごす中年太りしたブノワ・マジメル(『引き裂かれた女』の彼が!)。陰鬱ではなく、騒々しくもなく、あくせくもせず、苛立つこともなく、危ういバランスを保ちながら、しかし映画そのものは歴史に名を刻むだろう野心の塊。まさに徹底的に優雅な退屈さへの冒険。心ある観客がこぞって「また見たい」ということは、これこそ映画の成し遂げた偉大なユートピアかもしれない(『パノラマ島綺談』というとさすがに興醒めだろうから『金色の死』というか、この映画を永遠に上映し続ける島があるかもしれない)。おそらく何一つ似ていないだろうが真にロジエに匹敵するのはセラだろう。それでいて彼がかつてのコピーに留まるわけがない。『ジョン・フォード論』の年に、また映画にとって辛く痛ましい別れが相次いだ年に、本作もそのシネフィルたちの記憶に結びつけられ、何十年と忘れ去られることはない。その記憶が失われた時が映画の死を意味するに違いない。
そんな見た人の話を聞きながら、自分も見ることができたっぽくメモとして書いた。

ホアン・ジー『石門』も散々引っ張ったわりにラストそんなもんかよと、やはり150分くらいの映画なんて大半は観客にとって時間・金銭・精神的余裕がなきゃ無理だろうというダラダラした一本で僕も一刻も早く映画関係者らしきなにかに転職したいと思いました。

リティ・パン『すべては大丈夫』個人的には全く乗れず。イメージの話をする割には随分安直な切り返しのために節操のない使い方でブチ込んでないか。前作『照射されたものたち』の死屍累々虐殺てんこもり画面分割に『ある夏の記録』の朗読を被せればほだされる人々は本当にチョロくてリテラシーのかけらもないだろうが、本作も人形だけで30分なら遥かに見るべきものに仕上がったに違いない。たしかにイノシシや猿が人類の罪深い記録映像に感化される様は面白いが、それでも『月世界旅行』を見るくらいに使用は留めるべきじゃないか。これらの記録はリティ・パンがたいした批評もなく自作の中で見せるための映像ではないだろう。スマホを掲げたイノシシ像もちょっと笑ったが。『消えた画』や『S21』のほうがイメージに対してもっと距離のとれた映画だったと思う。

エリン&トラヴィス・ウィルカーソン、つまりウィルカーソン一家によるドキュメンタリー『核家族』を見る。昼飯を食べようとしたら注文が抜かされていたため諦めて、メシ抜きで見る。そのせいか眠気はないが集中力は落ちる。『核家族』といっても内容はレイ・ミランドの『性本能と原爆戦』(未見)みたいなニュアンスの、核の時代の家族というか。トラヴィス・ウィルカーソンの以前の『殊勲十字章』ののらくらっぷりに続いて、本作でも核実験施設のいい加減な管理というか、国の施設ってどうしてこうもという話が作家自身の語りでつらつらと笑うに笑えない感じに続く。終盤になるほどだだっ広い景色にフクシマ・デイジー(要は放射能汚染による畸形)に、インディアンの虐殺の歴史を踏まえて(何てったって西部劇の映画に関わった人々が被ばくしたのではという話は信ぴょう性があるだろう)、すでに核戦争後の荒涼とした世界へ曖昧に移ろいつつある時をいきる一家のダンスを、もはや絶望もなく眺めて終わる。ハイゼンベルクがリスクを訴えたところ独裁者の鶴の一声で原爆開発が中止になったのではという逸話(信憑性はあるのか?)に触れつつ「しかしアメリカの科学者たちはやめなかった」という展開は来年のノーランの映画では扱われるのか? ただ映画は南部におけるネオナチの存在にもはっきり触れている。

ジャファル・パナヒ『ノー・ベアーズ』初っ端からブライアン・デ・パルマもシャッポを脱ぐに違いない驚愕のワンカットらしき謎撮影から変な映画で、この不可解さが理不尽かつ生きにくい世界そのものと言わんばかりの映画。しかも初期デ・パルマが志向しただろうヌーベルヴァーグというかリアリズムを維持したまま成し遂げたのだ(作中人物の水に飛び込んでの自殺がなされたらしいという溝口的なニュアンスでのリアリズムもある)。ついでに言うならゴダールを除き(いや、それも本当に成されたかはあやふやだが)ヒッチコックロッセリーニを同時にやるという野心の代表はキアロスタミだろうが、それをデ・パルマまで視野にキアロスタミ以上の変すぎる映画を、しかし生生しく実現した。つまりパナヒはフィルメックスの常連では唯一最大の偉大な前進を続ける作家である。しかしパナヒは早く自由になるべきだ。人間として、当然の権利だ。