録画した恩地日出夫『新宿バス放火事件 生きてみたいもう一度』、クラスに一人いる誰かの存在に自分は生かされていた、という経験はしたことがない。少なくとも記憶にはない。だが確実にどこかにあるんだろうし、それを知っているかどうかの違いだけでも大きいと思う。『トリュフォーの思春期』もそうなんだろうし、『どこまでもいこう』はじめ確かに塩田明彦監督の映画にもクラスメイトの存在は繰り返されてきた(『どろろ』だって原作には間違いなくある)。川崎の無差別殺人での学生時代の写真のままの彼について青山真治監督のいう感覚、彼みたいな人がクラスにいた気がするという印象も通じるのだろう。『ユリイカ』だけでなく『空に住む』にまで「自分は生かされている」という感覚は響いてくる。
でも確かに、何度も自分は「馬鹿にするな」と怒りを買ったことがある。または、下駄を履かされてきた、という感覚。それだって、誰かに生かされてきたの延長だろうが、それは別に親や友に感謝という話に行き着いてしまいそうだが。

 

内田吐夢『自分の穴の中で』見直す。感想を言いたくないくらい(ならこんなところに書くなという話だが)、結局のところ自分はまだ一部分しか見れていないような感覚が残る。自分は株の知識もない。内田吐夢の映画らしく工事が続き、その工事は終わることがない。門も出てくる。嵐は恐ろしく、床を這うしかない男の姿も出てくる。『大菩薩峠』同様に360度パンから始まる。そして戦闘機がインしてくる(『飢餓海峡』のラストでは最後の最後に海鳥が映り込んできたのを覚えている)。峰重義は同年の『乳房よ永遠なれ』でも画面内に鏡や窓枠を入れた構図の撮影をしていた。車内のスクリーンプロセスと役者の顔をよぎる影。空間に閉じ込められ、景色も出来事も横切っていく。時おり切り返され構図は逆転する。それでも朗らかなパートもある。宇野重吉のピクニックは移動しているというより、空間を次々にジャンプしていき、それらは手紙を通してオフの音声とともに(最初は彼の声で、次は北原三枝の読む声で)病床の金子信雄と結び付けられる。芥川也寸志の音楽がそもそも好きだが、カットが変わって舞台上での宮城道雄の琴の音と繋げられて、映画内で音同士をぶつかりあわせている。工事も戦闘機も音となって、たえず介入してくる。

https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E7%A9%B4%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%A7-%E6%9C%88%E4%B8%98%E5%A4%A2%E8%B7%AF/dp/B09MPYJS3X?fbclid=IwAR2gEM1S_xxM3nK1iw5FGkS5I8McVPcr68crFcISitQ1IhEckHWYaiqvocQ

note.com