藤川史人『Supa Layme(スーパ・ライメ)』

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藤川史人氏による解説は「KANGEKI 間隙」vol.15が詳しい。

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予告がなく遅刻してしまい、おそらく最初のカットが既に始まっていて後悔する。ロングの絶景、リャマか、アルパカか、ビクーニャか、カラカラと連れてくる、そこへ不意に接近してきた虫の羽音が被さる。明らかに日本では撮れない画と音から始まって緊張する。『いさなとり』が渡邉寿岳さんのカメラ抜きには(いやカメラだけではないが)ありえない映画だったのを思い出し、おそらくスタッフはほぼ一人(スーパ・ライメ一家を含められるか?)、「日常の記録」らしい長閑な時間を勝手に予想して向かうとガツンと体力を奪われかける。ただどちらかといえば作業の記録らしくなっても、ショットを積んでいくというより、スケッチらしくポンポンと飛んでいく。しまりのなさが、映画に出てくる石垣の、隙間だらけなのに建っている様に似ているというか、不思議と崩れず一本の映画になっていて、その理由が謎めいている。

そもそも「スーパ・ライメ」というタイトルか名前か、スーパーマリオ的なライメでもなく、ライメ家のスーパ君でもなく、スーパ・ライメ一家である。作家の言葉によれば一家の父・母は僕よりも年下だ。だが年齢不詳だ(僕なんかいい年して、あらゆる意味でだらしないから童顔になってしまったが)。『いさなとり』もそうだったように、まずタイトルの由来がわかったようでわからない(劇中にクレジット以外でスーパ・ライメと発せられたか?)。

きわどいことかもしれないが、彼らの顔が覚えられたようで、やはり光と影の顔への反射を見ているような危うさを自分に感じる。アルパカかリャマかわからない生き物の血の赤さはペンキを塗ったように乾いてる。そして、やはり夜の花火?あたりから学校へ場面を移す(通学に7時間ほど費やすから、彼らは3週間ほど学校に寝泊まりする)と、いつの間にかペルーでしか撮れないものから、どこでも撮れるかもしれないが、誰にでも撮れるものではなくなる。作家の映画になる。ますますスケッチ的というか、たまたまペルーで演じられただけであって、どこにでもありえる出来事をシュールに移植したような画が飛び石のように続く。それはおそらく作家にとってペルーが絶景ではなく、ドラマの舞台になったのだ。

しかし日々の繰り返しではない、どこかへ移動しようとしている。少なくともまだ若い母、そして当たり前だが娘でもある女性が『いさなとり』に続き、カメラに向かって語りかけた(血を見るような)過去、その過去をカメラは受けて、父も、その息子も、どちらもあえて若者たちと呼べばいいのか、若者だけのスーパ・ライメは家から、学校から、山から、それがデスクワークがしてみたいなあというボヤキへ向かってかはわからないが、旅立とうとする。

いや、スーパ・ライメ一家は旅立たない。スーパ・ライメ一家の欲してる、ここにはない何かがあるかもしれないが、映画は別にそれは語らない。スーパ・ライメ一家は立派に自足してるように見える。自足していないかもしれないが、これはこれでいいはずなのだと思う。スーパ・ライメ一家が求める何かが、ここから出て行った先にあるかは期待できない。しかし何かがないからか、『スーパ・ライメ』という映画が旅立ちたがっている。

スーパ・ライメ一家が何か物語ろうとしているわけではない。『スーパ・ライメ』という映画が横浜へ、東中野へ、新宿へやってきたように、映画は動き出したくてウズウズしている。これは作業の記録ではなく、どうしたいのか意味はない遊戯かもしれない。少年が母とカメラの間に尻を向けて視界を塞いでしまう画が、ごく当然のことのように挟まれて、ショットの連鎖を構築するのではなく、穴ぼこの謎めいた石垣のようにシュールな時間とリズムを形成する。