「天皇の料理番」第一回『カツレツと二百三高地』(演出:森﨑東)

天皇の料理番」第一話、もしくは森﨑東の何度目かの家出であり、駅での別れであり、寝床でのしくじりである。「両手を叩いたらどっちから音が出たのか?」という問いが主題として貫かれる。何かが出会い、ぶつかって音が鳴ったとして、それはどっちから出た音というのか。これは本作に限らず森﨑映画の全てで問われていることかもしれないし、問われていないかもしれない。

にしても、やはり『ロケーション』まではいかなくても驚くほど省略し(あれだけ目黒祐樹が繰り返した「立花」という男の活躍は一切描かれない)、驚くほど省略しない(カツレツの素材集めよりも調理に当然のように時間が割かれる)。その捌き方は森﨑において「家庭」と「盗み」という題材とも絡んでいるかもしれない。マチャアキがどんだけ嫌じゃ嫌じゃ言っても、彼と檀ふみは式をあげることになっている。

顔をあげて目を閉じて、流れ落ちてくる涙。これは天上から流れ落ちてくるのか? いや、お天道様に、お上に、逆らってはならない天上の存在、権力があって、そこへの服従とは別の角度から、カツレツの味はマチャアキに涙を流させ、目黒祐樹マチャアキの間に油の音が鳴る。マチャアキが軍隊へ、お天道様に代わって「お上」へ、自分が見上げる向きをまたしても見間違えてしまうのを、目黒祐樹は「ろくでなしの道」へと正す。目黒祐樹はカツレツと油、女との接吻、ピストルにおいて生と死のぶつかる音をマチャアキに伝える(森﨑の銃声はしばしば幻覚において響き、夢想と現実の橋渡しをする。むろん、それは生と死の境界のぶつかる音だ)。マチャアキの口から「おしろい」という言葉が聞こえ男女が笑う、品のないかもしれない一言がたまらなく上品で愛しい場面で、『黒木太郎』の聖母マリア像のように、より我々の足元へ目を向けているような仏像がカットインされる。

檀ふみの登場。「おしろい」の白は、なんだかんだと檀ふみの顔を白く塗って、カツレツの味が忘れられないマチャアキの傍らで傘の張り紙となって映り込み、彼を何度目かと繰り返される家出という大脱走へ無意識に誘っている。新婚初夜に背負い投げと二百三高地が重なり、『街の灯』以上に今回は神代の『四畳半』を思い出さないわけにはいかない。それでも森﨑ではあえて「こっちだって好きでやってるわけじゃない!」のである。

やがて恒例の列車での別れ。檀ふみのビンタがマチャアキの頬に思い切り音を立てる(ビンタの瞬間を切り返すとき「どっちが鳴っているのか」という問いは「はたしてぶつかった瞬間を見れたのか」という謎へと舵を切る)。マチャアキに背を向けて歩く檀ふみ。彼女を車窓から追うショットを見ているうちに浮かんでくる。はたしてマチャアキは列車に乗るのをやめ、ただそこに呆然と立ち尽くし続けるのを選んだのではないか。しかし車内に彼は呆けたままフレームインしてくる(素晴らしいワンカット)。それでも『夢見通りの人々』や『男はつらいよ』のカップルのように、列車に乗った彼の家出は終わることが予定されているのか? 

檀ふみは「どうして私から逃げるの」と問い、マチャアキに「おまえから逃げてるんじゃない」と返される。本作にとっての省略は、彼が逃れらなかった経緯が省略され、ただ逃れられなかった結果へと繋げられたということなのか。彼の選択はともかく、そのように運命づけられていたものとしてしか見えない。マチャアキが逃げたかったものが檀ふみと切り離され、あの瞬間、音を立てた二人の距離は開いていく。マチャアキ檀ふみからは逃げたくないからこそ、彼はいつの間にか列車の中にいることができたのだとしたら、彼の逃れたかったものは列車の向かう先に、また口をあけて待っているのか。