『ここにはいない彼女』(作・演出:安川有果)

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『ミューズ』と通じる舞台でいながら「小説家の妻」だけでなく、小説家自身も作品それ自体の読者よりも、知名度や外見のほうが上回った状況に置かれている。劇中に登場する小説家だけでなくシナリオ講座の学生の作品さえ、登場人物たちの口から評価は語られるが、言葉はどれも具体的な作品の像へ結びつかない。劇中劇やフィクション内に登場する作家たち作品たちが抱える「どうしてそんなに評価されてるの?」「そもそもそんな才能ある作品ってどんなものなの?」と思わず観客のイメージが付いていけなくなる……、そんな壁が意図的に演出に組み込まれる。常に「ここにはいない」ものの話をあえてしているようなのだ。
作家と作品は別物とよく言うが、それでも作家の人生と作品をゴシップ的に、創作行為そのものを物語として結びつけたくなる。作家は創作過程において隣人の人生をヒントにしているかもしれない。若手作家は可愛い女性の方が評価されやすいのかもしれない。モデルになれる外見の女性は文章なんか書けないかもしれない。作家のイメージをめぐる安易さの壁がいたるところに立ちふさがる。
「小説家の妻になるモデル」という彼女は「今の私ってとってもバカっぽいでしょ」という。彼女にバカっぽさがあるとしたら、観客としては「イマドキ本当にそんなサクセスってあるの?」という嘘くささもセットだ。彼女を巻き込んで高校時代の日記から周辺人物ふくめた学生時代もよみがえって人生の見えてきそうで、それをあえて拒否する嘘くささ。まるで劇の作家本人があえて「若さゆえに人間を描けない」かのように振舞っているのだとも(安易に結び付けて)想像したくなる。
バカっぽさからモデルだけでなく登場人物は一人も逃れられない。一人残らず、なんだかバカっぽく見える時がある。誰かを評価したり、誰かに評価されたり、評価をめぐって競ったり、評価をめぐって恐れたり、どれもこれもバカっぽくなってしまうのは避けられないのかもしれないし、そこには誰かをバカっぽいとジャッジしたくなるこちらの歪んだ欲望もセットなんだろうが、本作に登場する「評価」の言葉はほぼほぼ紋切り型に徹する。紋切り型な評価の言葉たちと戯れながら、そもそも人が「ミューズ」に、「モデル」に仕立てられる基準が、そこから紋切り型ではない言葉を(「本音」のようなものを)引き出すのが困難な壁に囲まれている。過去の印象なんか確実かわからない。思い出はモデル以上に美化されているかもしれない。
それでも高校時代の絵のように、女性が見る女性の、同級生が見た高校生のままの彼女の絵のように、立ち返りたいイメージはある。それだって今の彼女が望んでいるだけで、自分が本来望んでいないイメージとは違うというだけかもしれない。女性同士のキスや抱擁だって、それは紋切り型のイメージかもしれない。そういちいち「かもしれない」ばっか書くことのほうがバカっぽいだろうが、とにもかくにもこのバカっぽい戯れとの戦いは「こんな若いのにOLの話を書けて」なんて言われる間はおそらく続く。