『戦争と一人の女』(11/5 横浜)

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無事に終演いたしました - 戦争と一人の女【舞台】

東京での公演とは別物だった。演出家も役者も坂口安吾を読んだ回数が増えて、文章にうんざりしているのかもしれないくらいになっている。しかし四者四様の輝きを放つ「女郎」たちは、そんな言葉を自分のものにしている。もはや陳腐なイメージが先行して聞き流してしまいかねない言葉の一つ一つが、彼女たちの声を通して、説得力を持つ。特に花村雅子さんは舞台を引っ張っていったと思う。一人の女を複数の人物が演じるという作為から解き放たれて、ただただ華やかでありながら誇り高くチープな光景を見ることができた。これまでの嘘くさい装われたシャープさとは全く違うのだ。

「今の私が最も美しい」というような言葉に嘘がない。その真実を舞台上において実現させる。この季節において成し遂げる。それだけが狙いだと言えば、自分が全体のテーマを理解する気が全くないことを明かしてしまったようなものだが、そんな舞台となっていた。

冒頭、菅沢こゆきさんが喋り始めての見事さ、美しさからして覚悟が違うと思う。映画になれば彼女のショットによって見る人の姿勢が変わると思う。堂々たる佇まい、というものを見れた。そして薄いレースのカーテン越し、赤い空間における着替えに痺れる。彼女たちが舞台袖に佇んでいるというだけで、格が違う。坂口安吾らしき男性との絡みにおいて、女優は誰一人替えの利かない、彼女自身にしかない魅力を発揮して、一人残らず官能的だ。勝手な想像だが、やはり演出家への信頼がなければ到底見られないものだったのではないか。さらに舞台上の横たわる彼女たちの全身は、壊れた人形のようでいながら、徹底した信頼のもとに曝け出されている。特に瑞希さんの横たわる姿は忘れられない。

上田晃之さんの外見は大学時代の三船敏郎のような佇まいをほぼ捨て去って、ヴェルナー・シュレーターのようなファッションへと変化しつつある。これまでの(正直に言って)役者として自ら喋れてしまう、誰よりも先に喋ってしまう印象が洗い流されたかのように、「演出家」として作品を自立させている。

「戦争」という言葉をめぐる抽象度は、『アウトレイジ』の世界ほどには僕の元に降りてきている。溝口、清順の名前は出せなくても、上田さんが新藤兼人の話をしていたことは繋がった。そして男女の乱痴気騒ぎがロマンポルノの領域に踏み込んでいる。濱口竜介は戦争と人間関係を地続きにできないか試みているのかもしれない。

空襲とバケツリレーは東京公演では意味が先行して狙いから見事にコケていたか、狙い通り過ぎて滑っていたと思う(失礼な話だが)。そして今回もバケツリレーそのものは作為が出過ぎじゃないかと、やはり思う。しかし空襲を光と闇と音、そして風へと分解しつつある。容易に舞台上で再現してはならない、断じて戦争のこと舞台でわからせるわけにはいかないという、想像力の及ぶ範囲というものを叩き込む倫理。そこまでの分解が達成されているわけではない。しかし彼女たちの輝きと、うんざりするほどのテクストとの付き合いによって、ひたすら光と影と肉体の戯れとして実現されつつある。少なくとも記憶力も集中力も急速に失っていく自分のような人間には、不謹慎だがただただ僕の神経の及ぶ範囲において徹底して心地いい。

そして「自転車」という言葉に反して、まるで自転車を舞台にあげるわけにはいかなかったのだとばかりに登場するキックボードもしくはローラースルーゴーゴー(でいいんだろうか)によって舞台を周るシーンの解放感は、ただただ素晴らしい。映像は青空以外良くないかもしれないが、そして演出家の狙いは解放とも青空ともほど遠い領域へと本来向うべきだったのかもしれないが、それでもこのキックボードを目の前で見られて、本当に良かった。操縦する桐生桜来さんは美しい。