『LOCO DD』、ドキュメンタリーとドラマのパートが、それが事故によって分裂する田中要次篇、確信犯的に引き裂く島田元篇に対して、やっぱり双方が映画の演出によって結ばれている大工原正樹・FantaRhyme篇が素晴らしかった。
初めて『痴漢白書8』を見て、諏訪太郎の痴漢行為がどれだけ許せなくて、そんな彼に対するヒロインの行動がどれだけおかしなものであっても、男性の欲望とか幻想とかとは徹底的に一線を画していて、禿げた額にキスをして花火の打ちあがるクライマックスにあくまでありえない「愛」が映画の中でだけ説得力をもって見えてくるという演出のマジックが働いていた。
ジャンル映画としての要請であったとしても、盗撮や痴漢、風俗、放火、さらに近親相姦など、それが幼少期の記憶であったり、たまたま同じ電車の中にいたりなど、きっかけに差はあっても、本来なら許してはならない相手に対してこそ「愛」を生じさせたくなる。映画が約束事だと割り切って付け加えた恋愛ではなく、むしろいかにありえないことか徹底させるために、生々しく許せなさが語られる。
あの頃の痴漢電車は、『姉ちゃん、ホトホトさまの蟲を使う』の瓶は、ライブハウスとアイドル稼業に舞台を移す。それでも大事なのは空間から飛び出してからだ。いや、むしろ空間がただ閉じ込められた場所に見えなくなってからだ。今、自分の立っている場所の、その時にしか出せない恥じらいと、そこに抗う姿をいかに引き出せるか。男性が女性から言い返される、そのことさえ男性の欲望のひとつに過ぎないとしても、どれだけ予測のつかないものにさせるか。ライブハウスでの上演と公園でのアカペラ、どちらかが本番なのではなく、どちらもが一回限りなのだ。
喫茶店で借金の無心をする兄に対して結局折れてしまう妹。その妹とコンビを組んでいる女は、兄と妹のどちらもが許せない。そんな女二人のアイドル活動を知る男。四人の関係性はズブズブのようで、絶えず泥沼にはまらず、その一回一回だけを映画では見ようとする。やはり執着によっては愛は生まれないのだろう。
本作最後の種明かしは、これまで見てきた大工原監督の作品の中でも特に見ていて幸せな気持ちになる。