スクリーンで見るのは初めてじゃないのに、『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』、ひたすら見ていて気持ちよかった。眼が喜んでいる気さえした。
『製茶工場』の後半はただただテンションが上がってやはりほとんど覚えられなかったが、どんどん画が音が増えていく快感はひたすら遡ればグリフィスだとかサイレント映画だとか『フレンチ・カンカン』だとか去年なら『ざ・鬼太鼓座』だとか名作・傑作あったけれど、この身軽な映画で味わえるのは問答無用で嬉しい。
『冬』、今回も言っていることはほぼ一切わからないまま振り落された。しかし樹木には名前があり、枯れ木にしか見えない彼らにも違いがある。今回も山は数秒で変化していく。『製茶工場』ほどエネルギッシュでなくても『祇園の日』ほど語りの始まりに驚かされなくても、団子こねたり耕したりに過ぎていく時間のひとつひとつが、一枚一枚の写真が、枯れ木にしか見えなそうな樹木とともに動き続けている(もしくは動いて見える可能性がある)。この単調な繰り返しに見える切り返しが積み重なっていった果てに、その先の春が芽吹くことを思うと、これは『天竜区』シリーズ中、最も堀監督のピンク映画、劇映画と変わりなく見える。

『笑い虫』は見直すと、チョコボール向井のプロレス映画という印象から大分変った。プロレスラー役のチョコボール向井とAV女優役の安奈ともが出てくるあたり役者そのものの声と肉体に面白さがあるし、フレームの外で人が消えたり出てきたりするのは小説家志望の若者の時は当然笑えるし、不意打ちの連続でかなり翻弄もされるが、子どもが死んでしまったかのように見える編集も意地悪く思いつつ、同時にこの夫婦の前から子どもが現れたり消えたりすることが男女の危機をめぐる恐怖映画として印象に残る。この怖さは『憐』や『風の中の雌鶏』にも通じると思う。