森はるか監督『息の跡』と、小森はるか・瀬尾なつみ監督『波のうえ、土のした』を見て、ペーター・ネストラーのことを自分が少しもわかってないことを改めて思った。この映画に出てくる人たちの、もう土に埋められてしまう場所に花を植えようという彼女の、夫に何を言われようと「やらなければいけないことなんだ」と言うことについて、佐藤貞一さんから話しかけられるように「わかるか」と問われたら、適当な返事をしてお茶を濁してしまうのだろう。ただネストラーの映画から受ける感触とはこれだったんだ、と図々しく言いたくなった。ネストラーの映画では言葉が重要だとわかるのに、しかし言葉をほぼまったくわかってなくても良いと思う。当たり前だ、映画とはそういうものだ。しかし自分はまだ、ネストラーの言葉も、佐藤貞一さんの言葉も、小森さん瀬尾さんの言葉もわかっていないのだ。佐藤貞一さんが言語を学び、小森さん瀬尾さんの映画に言葉が記されることと、ネストラーが人々の語る姿を撮りながら、同時に自らの言葉を重ねていくこととが繋がっている。