『カラオケ行こ!』など

そういや山下敦弘監督の映画を何年も見てないと思い『カラオケ行こ!』。
一昨年なら『はい、泳げません』とか、カラオケ教室的な映画は何だかんだ気軽に見やすいし、実は監督の名前とか気にしないで向き合えるジャンルかもしれない。
でも『カラオケ行こ!』は「自分の声を聞いてください」以上の教えは特に無かったように記憶している。そしてやはり山下監督のリズムがあるのはわかるが、個人的にその掛け合いにテンポはあっても、ゆっくり過ぎて、具体性の曖昧さも含めて苦手ではある。ビデオデッキのくだりも、ちょっと悪い意味で(ミシェル・ゴンドリーと言いますか)エモいモチーフになってないかと、そうした映研の記憶は好きではない(ただ最後まで実にうまく組み込まれてはいる)。
だが知らぬ間に臭みは消えて、去年なら『マジックマイク ラストダンス』ばりに、あの綾野剛を主役目線で撮ったフラッシュバックが入るあたりで激しく心動かされた。
そして甘利君が言う通りセンチュリー横切るカットから北野武の柳島克己をバリバリ意識しての撮り方の冒頭からスクリーンがまるで(ラングじゃないけど)蛇を見てるようなうねり方を無意味にカラオケの廊下でやってくれるが、しかし合唱部とヤクザが等しく集団として撮られる展開が涙なしに見れないクライマックスの並行モンタージュに、そして男たちの黙って聞く姿に繋がる。カラオケは歌う側も大事だが(ついに歌う彼の枯れた声がカウリスマキの年齢不詳オヤジと比べても素晴らしい!)、観客は声を出せないのだから、ああした聞く側の演出はやはり大事なのだ。
正直ラストの綾野剛のくだりはあれでいいのか物足りなくはあるが、こうして山下敦弘の微妙に重々しい調子が気にならなくて見れる映画でよかった。

 

ウディ・アレンサン・セバスチャンへ、ようこそ』。
これが引退作というか、ストラーロと組んで以降はどれが遺作でもいいかという黄昏感が強まる(そう考えると『レイニーデイズ〜』は例外的な良さがある気もする)。
どうでもいい映画でゴダール役やったルイ・ガレルが、今度は「フィリップ」の名でガレルと似ても似つかぬ題材の監督役。よく引き受けるな(さすがにカリエールのことは意識しているに違いない)。足舐め芝居も見れる。
老人の映画らしくキレは落ちてもイスラエルのネタは相変わらずどころか「映画で中東とイスラエルの和平を目指す」「SF映画か?」「次回作は国連で上映するつもりだ」など世の中への嫌がらせ同然の台詞の厄介さは状況と相まってヒートアップ。ラストが『欲望のあいまいな対象』か『永遠の語らい』になって全員爆死も期待したが、そうした過激さがないのが持ち味ともわかってる。
また「功労賞」ネタはじめ、「わしゃ勲章なんか要らん!」と言わんばかりの、どうとでもなれ感が、笑うに笑えないを通り越して笑った。
ヒロインはやはり良い。
クリストフ・ヴァルツの意外と気さくな死神がフェードアウトしていくクライマックスになんやかんやジンワリくる。

 

ジェシー・アイゼンバーグ監督『僕らの世界が交わるまで』原題のほうが当然作品にふさわしい。
文化盗用と搾取について共感性羞恥ってやつを覚えながら見る映画としておすすめではある。思わずよせばいいのに!言わんこっちゃない!とスクリーンの彼に向けて叫びたくなる。いや、何もしていない自分よりは立派なんだろうが……。
最初の人前でのライブ後の反応を省略したのはうまいような。
あと10分くらい伸ばして、シェルターでライブやるラストとかあったほうがいいんじゃないか。日本映画にしても若手の作品はオチを切り返しで何となくわかりあった風にしてしまいがちに見えるので、ラストを初めてのライブ配信映像にしたのも、あまりスッキリはせず。

「グランド・ツアー イタリア紀行・短篇集」「ヴィットリオ・デ・セータ短編集」

国アカにて「グランド・ツアー イタリア紀行・短篇集」ジャン・ルカ・ファリネッリが解説しながらの上映。
どれもパンのし甲斐がありそうな光景。正直もっとちゃんとメモとって覚えておけばよかったくらい詳細を言えず残念だが、どれも面白く、どれも見ごたえあり。
とにかくポレンタがデカい。ポレンタ食べたことないが、それ以上に画面手前で貪り食う人達の迫力が芝居がかっているが凄い(『最後の晩餐』でもこんな光景はない)。ここに出てくるチョコレート工場の手作業とベルトコンベアの調和はもう『チャーリーとチョコレート工場』では見られるわけがないし仕方ない。キャラメル工場はボクシングジムのようだ。メッシーナ地震後の復興、パンだか物資だかを港でパスしていくロングの放物線に見惚れる。
飛行機ショーの記録は、飛行機自体は後で編集で空に重ねたヘンテコな光景で拍子抜けだが、その前の長いワンカットで恐ろしく賑わった群集を車上から撮った長回しの移動ショット(これが「長回し」という言葉が相応しい長さ)、そのほぼ全員イタリア製麦わら帽子を被ってカメラを見て笑顔という光景の迫力。この活気は日本の誰も彼も俯いてカメラに目を逸らす光景はもちろん、現在のあらゆる映像が蔓延る中から再び見つけることは想像できない力がある。
1909年の子供たちのモデルコンテストは鼻ほじっている子の不敵な感じもツボだが、ワンフレームごとに子供一人一人のモチベーションの違いが面白い。映画誕生の年に生まれた子供たちという解説より、もう少し幼い気がしなくもないが、ともかくこの子たちが物心つく段階で「映像としてカメラに撮られる」ということに対する意識をどのように目覚めさせているか(もしくはわからずにいるか)が興味深い点で、解説通り「第一世代」と呼べるんだろうか(その先にはウォーホルのスーパースターたちがいる?)。大人顔負けに妙にカメラにポーズを向ける子が実に末恐ろしいのだが、もっと素朴に言われるがまま立ったり花をカメラに向けたりする子には動物的な魅力もある。

 

国アカにてヴィットリオ・デ・セータ短編集。
今回の素晴らしい特集が年末年始の休みの反動で仕事により見逃した作品多く、年明けから悔しい。
既に話題だから見る人は放っといても見るだろう映画にわざわざ言うこともないはずだが、これを大きなスクリーンで見るデジタル修復版の凄まじい豪華さ。夜明けの焼けていく空模様、波模様、通り過ぎていく人影、あらゆる事象が光と影と彩りとなっていくのを見ながら、ただただ恍惚。
10分×10本。全部傑作。さすがに一気に見てしまうのは勿体ないんじゃないか。正直どれがどの映画か既に記憶あやふやだが、このほとんどが「一日」を扱っている。ほぼ10日間。10分近くがいつの間にか日が暮れて宵闇に沈み、エンドマークが出る。あっけない。しかしまたしてもジョージ・ルーカス財団の名が出るクレジット入って次の映画が始まる。再びデ・セータの映画が始まる。早起きして準備して、昼寝して待って、時が来たら全力で動く。または坂道を走り抜ける祭り。時にマシンでもない、獣でもないのに、なにか機関車が走り抜けるかのような音として捉えられる風の音、活火山の響き、麦の収穫。そうした音のサイクルと運動。画面に映る人々に対して、こちらはあまりに椅子に座って超贅沢な鑑賞。観客は罪深い。
それでいて内容は能登半島震災のことがしばしば無視できずよぎる。やはり観客は罪深い。
『メカジキの時機』は何を言ってるか意味不明だがグリアスンを通り越してキン・フーみたいな激しさでメカジキを追う! 『火の島々』の終始不穏な呻きのように響き続ける活火山(血のごとく滴る溶岩)。『硫黄の山』の真っ暗闇に響く歌声からの急転直下の展開(黙祷)。『シチリアの復活祭』の雨嵐を呼びかねない野外劇は天候を操りそうで、しかし自然の動きは人には操れない(ヴィスコンティと同じく彼もまた貴族階級出身らしいが、これから8年後のオリヴェイラ『春の劇』のことはやはり連想しやすく、そこではさらに無視できない帝国による災厄が雨霰と降り注ぐ)。諸々飛ばして、この見覚えある題名の『忘れ去られた人々』が最も一連の作品では政治的な意味合いを持つかもしれない(デ・セータの短編は映画館での本編前に上映されていたらしいが、どの作品もこうしたドキュメンタリーの枠では例外的に、政府の意向に沿わない題材だからか、資金援助を得られず、経済的には厳しい状況で作り続けたという)。初めて冒頭からトラックが現れて走り抜けていく一連の繋ぎを経て、モノローグが響き、この土地が開発中の工事の失敗により電力や交通から切り離されたままである旨が告げられるも、むしろ続く画面は暗い部屋でも輝く美しい金髪の娘。どこも危険な祭が好きねとハラハラする丸太登りに興奮。あくまで切り離されようが暗さを抱えつつエネルギーに満ちている。

【告知】2/11、12 當間大輔監督『self and others』上映会

たびたびお世話になっています、聖蹟桜ヶ丘のキノコヤにて上映会を新谷和輝さんと企画しましたので、ご案内いたします。
メインビジュアルは當間大輔監督に作成いただきました(こちらの不手際によりPeatixにはフルで載せられず、監督には大変な失礼をしました……)。

https://0211kinokoya.peatix.com/

(2月11日予約ページ)

https://0212kinokoya.peatix.com/

(12日予約ページ)

以下、上映の詳細をPeatixより転載します。

 

 
當間大輔監督『self and others』上映会
 
会場:キノコヤ
2月11日 18時上映(17時30分開場)
12日 14時上映(13時30分開場)
各回上映後に當間大輔監督と、本上映会企画の中山洋孝、新谷和輝によるトーク(30分ほど)を予定しております。
料金 1000円(ドリンクなど別料金)
予約 Peatixまたはメール kinokoya96@gmail.com までお名前、予約の人数、ご希望の日時をお送りください。
 
 
上映作品紹介
self and others』(2023年/53分)
人に心を閉ざしているナツはショウには心を開いていた。彼が東京へ出てから数年後、彼女は東京の喫茶店で働いていた。ある日、ナツは地べたに横たわるショウを見つける。
監督・脚本・撮影・編集:當間大輔
出演:上野凱 木越明 大迫茂生 笠島智 原妃とみ 山下ケイジ 青山卓矢
助監督:福島俊輔 齋藤成郎 甲斐菜摘 永澤由斗
録音:渋谷太 制作:當間桜子
 
 
 
この作品では、個人と他者という社会構成の最小単位と部屋という最小限の空間に絞ることで、人間の本質を描くことが出来たのではないかと思っています。
また、出演いただいた役者の皆さまが本当に素晴らしく、フィクションのはずなのに、ある現実で生きる人々のリアルな感情や表情と向き合える映画だと思います。
(當間大輔 本作監督)
 
 
 
self and others』という題の映画といえば、佐藤真監督による写真家・牛腸茂雄のドキュメンタリー『SELF AND OTHERS』を当然連想させる(53分と上映時間まで同じだ)。それとも牛腸茂雄の写真集『SELF AND OTHERS』という題の元と言われる『自己と他者』のR・D・レイン(そもそも写真集の末尾にはレインの『経験の政治学』から引用された、アーヴィング・ゴッフマンの言葉が記されている)まで遡るべきか。国立国際美術館の「SELF AND OTHERS 牛腸茂雄写真展」から始まる『寝ても覚めても』(監督:濱口竜介)という題も、『self and others』の男女を見ながら思い浮かぶ言葉かもしれない。
自己と他者。映画は冒頭から物語に多くは関わらない他者の声を聞かせる。彼らは何だったのか? ナツより先に東京へ出たショウの耳には、それ以上の無数の他者の声が入ってくる。それがショウをあのようにさせたのか? 映画そのものは最終的に男女の変化を視認できるレベルへ観客を誘うようにシンプルさへ向かっていく。そのために選択されただろう白黒の画面により明暗の変化が際立ち、特に東京での二人の再会する瞬間、明るい出口の一歩手前から闇の側へ引き戻すようなショットの繋ぎは、外界から隔てられた二人だけの世界の作られる時に観客も立ち会わせる。
ナツとショウが何を思ったか以上に、その瞼がシャンプーやシャワーによって閉じる反応はわかる。役者の自由を奪いかねない動きの失われていく事態でも、たとえば上野凱の(状況に反して)よろこびさえ感じていそうな顔、または無言の頷きといったリアクションの一つ一つが見逃せない。映画を見ながら沈黙を余儀なくされる観客にとって、声のない二人との関係は一切他人事ではなくなるのだ。
(本上映会企画 中山洋孝)
 
 
 
フレーム内に人がよく出入りする活動的な冒頭が過ぎると、ショウとナツは動けなくなっていく。コロナ禍でも人で溢れかえる東京の喧騒が彼らをそうさせたのだろうか。私には感じ取れないざわめきが彼らを蝕んだのだろうか。いろいろと想像はできるが、二人がそうなった原因は示されない。地面に臥して声も出せなくなったショウをナツは世話してやるが、やがて突然、再びナツも同じように動けなくなる。ケアするものとされるもの、健常な身体と病んだ身体。それらの境目がつねに揺らいでいる。この映画がずっと映すのは、立ちすくみ、寝そべるギリギリの身体であり、その身体を何らかの外的な要因に還元することはしない。自分の身体さえも思い通りに動かないのに、他人の身体をどう支えればよいのか。そうした根本的な共同性が問題になっているのだと思う。だから、ショウとナツの間でほぐされる髪、投げかけられる視線、微かに緩む頬、差し出される手、そういった細やかな部分の重なりが印象に残る。私やあなたや世界が次の瞬間にどうなっているかは全くわからないけれど、このように生きていくしかないという静かな決意がここにはある。
(本上映会企画 新谷和輝)

1/4『VORTEX』

ギャスパー・ノエ『VORTEX』。
一部好評のため食わず嫌いのギャスパー・ノエをついに見る。
これまたエラいモンを見てしまったという感想に尽きる。ドライヤー『吸血鬼』もやってるし。
シュリンゲンズィーフなら『ボトロップの120日』を見たときの、映画から映画じゃない側へ下降していく様(それは本作のテーマでもある)を見ることに価値があるような、これはもはや映画じゃないと言われても構わないところが忘れがたい。無数の映画と死の結びつきにヴェキアリの『女たち、女たち』を連想できるかもしれないが、それ以上になんともいたたまれない。
別に画面分割が映画的じゃないというより(ウォーホルとかあげるまでもなくロイス・ウェバーとか、近年なら『発見の年』という最重要作に比べれば『VORTEX』はそこまででもなく、何よりアルジェントと同い年のデ・パルマかよとツッコミたくなるハラハラもしばしば)、それ以上にまだ若いフランソワーズ・ルブランとアルジェントの夫婦写真(たぶん合成?)が驚きだが、手法の面ならカットする度の黒画面がこちらの調子を狂わせるのは間違いない。ショット同士の繋がりが宙吊りになり、バラバラになりかねない感覚がスライドショーに至る。
正直その前情報から想像した以上に他人事じゃなく、露悪的とも言い切れない(ただラストのドローン?はよくわからないし、遺影はさすがに悪趣味の側に行ってないか……死んだあとに画面が白くなるのもいかがなものか)。
徹子の部屋』にて入れ歯が合ってなさそうな岡田茉莉子を見た時のいたたまれない感覚に近いと言っていいのか危ういが(しかしフランソワーズ・ルブランから真っ先に思い出した)、晩年の大島渚小山明子から介護されているという印象とともに、映画人にとっても老いは避けられないことだろうが、本作の映画と夢の繋がりは「悪夢」というより、差し迫る現実なのか。汚いフランスの水回りという点でノエはユスターシュらの伝統を継ぐのか(主演女優だけでなく『ナンバー・ゼロ』のことは思いの外よぎる)。または吉田喜重人間の約束』の、老いの狂気を描くことも一種の伝統かもしれないが、向こうから容赦なくやってくる目を背けたいものをあえて扱う感覚。

12/31~1/3

・年末に腹を壊し酒を飲む気になれず。大晦日は微妙に調子悪く仕事終わりにどこにも行く気力わかず、でも話題の『窓ぎわのトットちゃん』(八鍬新之介)を見に行く。
なぜか黒柳徹子の声をバックに始まる暗闇の冒頭から落ち着いた響きにもってかれる。正直黒柳徹子の声にもっと騒々しいものを予想していただけに驚く。
巨大パンダの登場も微笑ましい。
何よりプールのシーンに「これはもうアニメじゃないと難しい」と一番驚いたが、それを真っ先に言う自分の感性もロクなものじゃないなと嫌になる。それにしても幻想的で解放的な水中パートへの突き抜け方に感激して文句なし。
『せかいのおきく』に続き今年二度目のウンコを掬うシーンもある映画だが(蝿の音が凄い)、ここでのクール過ぎないか不安な態度の(しかししっかり子供の自主性を尊重した上とわかる)役所広司も印象に残った。
風立ちぬ』『君たちはどう生きるか』と宮崎駿の近作の、戦前・戦中を舞台に夢想と隣り合わせの日々を生きる主人公の話と通じて見える。一方で「アンクルトムの小屋」のくだり、それぞれ異なる視点をもつ人物達がいるからこそのドラマに、ハヤオにはない感動がある。高畑勲亡き現在の、宮崎駿に対するアンサーかもしれない。トモエ学園の焼失シーンは『君たちはどう生きるか』に負けているが、その後の家屋倒壊には見ていてズシンときた。

終盤、合唱をバックにトットちゃんの走るシーンがどんどんとスローになっていくのが凄い。

 

・年明け。早稲田松竹にて五所平之助『恋の花咲く 伊豆の踊り子』。
こんな話だっけ、と戸惑いつつ、殺風景かもしれない村での旅がとにかく愛しい。水辺にいる男女を仰角や俯瞰気味のショットで撮るのは、早稲田松竹なら去年見た『ゴダールの決別』を思い出す。見上げた先の空を映すかと思いきや、陰った水面が映る場面、何の会話か忘れてしまった…。。

 

・今年はもっと自分が見てこなかった映画を見るつもりでA24特集にてスティーヴン・カラム『ザ・ヒューマンズ』。
演劇の映画化だな…という理解に乏しく、演じられるものはタメになった気もしつつ、既視感ある古めかしい作りだという印象で見終える(特にラストカット)。そのわりに一々音がデカく怪物か円盤かやってくるんじゃないかとびっくらかしで心臓に悪い。窓越しの画を挟んできたりするのは明らかに良くない。

 

ジョアンナ・ホッグ『エターナル・ドーター』。
どっちを向いてもティルダ・スウィントン映画。
当然オチは読めるが(その見せ方に工夫がなさすぎないか)、ホラーだかサスペンスだか掴みどころのない薄気味悪い時間が続く、ベルイマン、アルトマン系の女性映画のようで(冷静に考えればヒッチコックか)、意外とケア映画。ティルダ様の年齢不詳感はボウイのMV出たあたりから一層強まった気がする。

 

早稲田松竹にて清水宏『簪』。
一人残された田中絹代が傘を差して歩く切ないラストは雨が降ってるのか、あの傘は実は日傘なのか、フィルムの傷か、階段の水たまりを見て、やはり雨だとわかるが、いずれにせよ、この傷もまた実に情緒的だと思う。
多かれ少なかれ映画を見てると「そろそろ終わるな」という感覚はあるが、数少ない本気で終わってしまうのが悲しい映画の一本には違いない。田中絹代の美しさも、声の低さもうっとりする。

『ショーイング・アップ』『ファースト・カウ』『サムサラ』

・ヒューマントラストシネマ有楽町の特集にてケリー・ライカート『ショーイング・アップ』。
自分よりもっと繊細に語れる感性の方々がいるに違いないとか思いながらも、しみじみと感動する。傷ついた者の療養期間についての映画でもあって、その意味で清水宏の生誕120年をこの映画で納められそうでよかった。ここでは子供たちや学生ではなく、そして愛すべき動物だけでなく、彫刻が生死の境を行き来しているような(時に亡骸にさえ見える)。
個展の準備をしているアーティスト達の話という点では『移動する記憶装置展』のことも思い出した。ともかくこんなに彼女の不機嫌さ、苛立ち、それを演じる側、見る側の表情の豊かさにグッとくるとは思わなかった。始まって「U-Next」の字が出た途端、慌てて行かなくても配信されたのかな……なんてケチ臭いこともよぎったが、そうした本当の意味での細部の豊かさを映画館で見逃すことほど勿体ないことはない。何より小津安二郎の日本だとか誇りたいなら『ショーイング・アップ』を見逃すわけにいかない。まるで終盤の光景なんか漠然と千駄ヶ谷か代々木あたりを歩かせたんじゃないかと思うくらい。そんな緊張を強いるはずないのに(相当険悪な状況にも置いてかれるが)、ミシェル・ウィリアムズアクションつなぎ&猫のジャンプカットを同じ瞬間にやったり、オープニングからエンドクレジットまで1カットも見落とせないんだと感じさせる映画もなかなかない。
要所要所のウォーホルファクトリーみたくガクガクズームとパンでドローイングと彫刻を見せつつ、流麗さ以上に一層慎重に見えるパンや、学校やギャラリーでは安定した横移動をしたり、それどころかある段階から不安定さも慎重さも豊かさの点で何も気にならなくなってくる。幾通りかの見せ方が生き物のごとき火の加減で黒ずんでしまいもする彫刻たちに、こちらの内面に応えてくれそうで裏切りもする姿に、動きそうで動かないが今にも動かんとしている何かが映画を通して捉えられている気がする(それはカメラの上昇のさせかたにも、立ち上がる人物から階上のアトリエ、鳩、結び目など通じている)。
ある狂気に陥った弟から「何も聞こうとしない」と言われた途端に、ミシェル・ウィリアムズに射す光と影と風の具合が本当に聞こえているはずの音たちをこちらから奪って、それが正気の側なのかわからないが異様な体験をさせてくれる。同時に、隣人のにぎわう声は耳に入るけれど、いつの間にか画面外の賑やかしどころか声さえ出さなくなった鳩へ手を伸ばすワンカットに胸を打たれる。
『猫たちのアパートメント』『空に住む』といった猫と話す女性の声を聞かせる映画のようで、話し相手が彫刻だったり、独り言や留守電に我慢ならなさや不快感が詰まったり、そうした様が一層刺さる。
不意を打つくらい丁寧に家族全員を揃わせる大団円へ並行して見せるのかと思いきや、これ以上ないくらいの不穏なぶつかり合い(夫婦再会の瞬間には目線つなげない見せ方が面白い)を演出するカット割りのクライマックスまで見逃せない。

 

・ケリー・ライカート『ファースト・カウ』。
Twitterばかり見たせいで「そういや納豆臭いマフィンとか高島屋のケーキとか日本は盛り上がるんだな」と思ってしまった。もっと早く公開してくれ!
『ショーイングアップ』のお隣さんとか猫ジャンプに『ロンググッドバイ』よぎるなら(赤坂さんご指摘済だが)、こっちはアルトマン『ギャンブラー』がよぎった。やはりインディペンデント魂か。
赤ちゃんに呼びかける声の動物みたいな可愛らしさや、東洋人、イギリス人ら異なる英語の響きや、牛に話しかけるダニエル・ジョンストンばりにスウィートな声や、薪割りの音が響かない銃声を予告しているようだったり、樹の枝が日を追うごとに徐々に悲鳴を上げそうだったように思えたり、やはり音は気になる。だから去年の『グリーンナイト』くらいは上映してほしいですよ。
うまいこといった感ある「甘い話にご用心」的なチラシのコピーに反して、なんともメビウスの輪的に結びつく先は見えているのに捻れた未来が待ってそうでもある。『リバー・オブ・グラス』『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』に通じる犯罪映画ともいえるが、そんな因果応報と追い詰めない。

 

・ロイス・パティーニョ『サムサラ』を年末豪華な下高井戸シネマにて。
ところでロイス・パティーニョはどちらの方でしたっけ……と失礼ながら戸惑う。眠気を誘うリズムと発声のおかげでウトウトしつつ(ミニマルミュージック的な感覚?)、字幕を見る限り話は意外と細かい。しかし超ロングの中、ウロウロする人々という見覚えある画面も出てくる。意外と端正な画作りだったりする。
そしてアピチャッポンでもアノーチャでもビー・ガンでも七里圭でもここまでじゃない怒涛の暗闇の旅というかフリッカーというか笑ってしまいそうなほど繰り広げられた後に、カーテンのレースが揺れ、異なる褐色の肌の人々に話は移る。そしてヤギが走る。海藻がプチプチ。石鹸作りが面白い。
終盤にはムスリム式の弔いの話が出てきて、嫌でもガザでの連日の虐殺による亡骸のイメージと重なる。何もかもが異なる世界をグラデーションそのものとして見ているようで、どこでもスマホは出てくる。ヤギだけでなく海藻まで生まれ変わりに見えてくるし、あのヤギこそ映画における言葉の通じない話し相手として共感を覚えそうになる危うさ。それでも生まれ変わり以上に、樹にまで命はあるのだ、ということが突きつけられる。
時と場所が違えばバウスで爆音間違いなしだが。まるでオールナイト上映で寝たり起きたりしながら見たような気になる映画だった。

年末の映画日記

・国立映画アーカイブにて『月夜鴉』(39年 監督:井上金太郎)木下千花さんの講演付き、『名人長次彫』(43年 監督:萩原遼)。
『月夜鴉』恋敵もいる神社にて実質結ばれる長回しがおかしさと切実さの塩梅が良くて、それからの裾が汚れるたびに慌てて拭く仕草を要所要所はさみながらの男女の横移動を中心にしたコミカルな日々も楽しい。芸道物といえば稽古場面が付き物のようで、一年にわたる稽古がほぼ一回のパンを挟んで終わらせたも同然の潔さに驚く(本当に上達したのか不安になる)。代わりに、墓場で一人三味線を弾く画が記憶に残る。
終盤の演奏シーンになるまで、不意に家に残るはずの飯塚敏子から髙田浩吉への言伝を頼まれた女の子の出番がややまどろっこしくしているだけのような、それなりにハラハラさせるような微妙なところで、ちょっと引き延ばし過ぎで微妙な映画だったかもと不安になるけれど、続けての真正面からの髙田浩吉の三味線、それを見守るように聞く人々、特に柵越しの飯塚敏子側からのロングとしっかり演奏にも時間をかける。終演後の結末も、女の子の伝言がどう働くか先が読めなかった分、意外と呆気ないのだが、これは巧みなのか、まどろっこしいだけなのか。判別つかないが印象には残る。
たいして面白くないと思っていた萩原遼の『名人長次彫』は意外と良かったと思う(一緒に見た知人が「そうでもない」と言ったので自信なし)。長谷川一夫×山田五十鈴の組み合わせだが、今回は芸道物のようで長屋物のようで、終盤はまた違った映画になる。初っ端の鐘、誰もいないのに開く扉、朝の長屋の人物の出し入れと引き込まれる。というか、この日本だかフランス映画だか入り混じった光景が力強くて、襖越しの影や、煙突に線香に志村喬の煙草といった煙も見える。美術・中古智、撮影・安本淳という後年の成瀬巳喜男の映画での組み合わせが既に。長谷川一夫が酒場で酔う時に山田五十鈴を幻視する場面でのトラックインといい、陰影といい、日本の時代劇とは異なる物を見ている感覚。弁天様にも見える山田五十鈴が水面に映る画といい、水に囲まれた空間でもある(濠のある側からの移動撮影もある)。43年東宝の技術を惜しみなく注いだ一本なのだろうし、ただ「お国のために、いまは像を掘ってる場合ではない!」というメッセージの強い台詞に反して、像がぶった切られる展開が軍国主義下の芸術の置かれた理不尽で酷な状況を視覚的に現わしているようでもあるし、山田五十鈴の辿る運命も容赦なく、最後の勇壮ではない微妙なスローモーションで走り去る長谷川一夫の後ろ姿など、先に聞いた木下千花さんの講演も相まって、当時の作り手たちの意図以上に複雑な文脈の中にあるように見える。

 

内田吐夢監督『警察官』を国アカにて再見。
アホみたいな言い方だが、もの凄い映画。内田吐夢の映画はそもそも凄いのだろうが、それでもドライヤーの『吸血鬼』とか、ルノワールの『十字路の夜』とか、ニコラス・レイの『夜の人々』とか、清順の『殺しの烙印』とか、『狩人の夜』とか『ハネムーン・キラーズ』とか、そうした凄い、凄いと有名な凄い映画たちと並んで凄い映画かもしれない。
内田吐夢の『恋や恋なすな恋』の大川橋蔵が発狂して黄色いお花畑をさまよう舞台転換も凄いが、本作の旧友二人が座敷で寝転がっているうちに、字幕を挟んで、草の上で学帽被って横たわる二人に繋げてる場面は別の凄さがある。『飢餓海峡』の左幸子三國連太郎と再会するまでを一つの舞台上演として再現可能に見えてくるのが感動的だが、『警察官』のノヴァリスを読む字幕とともに無数の時間が一気に押し寄せてくるような場面は、たとえば8ミリフィルムで学生時代の思い出をフラッシュバックするみたいな、今となってはありきたりな演出が、既に内田吐夢という先達によって力強くなされていたんだという凄さがある。
ファーストカットの満開とは言い難い七分咲きか、もしくは散り際なのかわからない桜の木が間隔をあけて植えられた、どこか殺風景な道路沿いを警察官らしき人物が佇んでいて、そこへ遠くから車が走ってくるのを待って勢いよくパンする(『太陽を盗んだ男』のバスジャックのようなわかりやすさはないが、どこか漠然とそうした事態を予想しなくもない)。何でもないが何かが起きるのを待ち受けながら見るしかないような冒頭から興奮するのだが、その車内にいる人物を小杉勇はじめ職務質問をするのだが、そこでのカットの割り方、アングルの変え方も複雑なのに、一つ一つの画をあからさまに作り込み過ぎない。その後の異なる空間にいそうなのに視線の繋がった旧友二人の再会(この二人の切り返しを滑らかなものにさせない繋ぎ方は、ライターをいただく場面や、終盤の背景をホリゾントにいきなり変えたような手錠をかけるカットまで通じる)、そして署長の車を延々追い続ける長回しと、直後のタイヤのアップ……と凄いとしか言いようのな画と繋ぎで続ける。
内田吐夢といえば、ここぞという時のパンが印象深い監督だろうけれど、『警察官』後半の町中でのパンの使用と一軒一軒の隙間から人物の動きを追っていく画が面白いのだが、さらに移動撮影での反射して映り込んでしまっているショットなどとにかくいきなりで激しい。さらに画面いっぱいに映るメモの一つ一つも力強い。
おそらく以前は活弁つきの上映で見たのだが、今日は何の伴奏もない状態で初めて見た。活弁を否定したいわけでもないし、何の伴奏もないのがあるべき上映といっていいわけでもないだろうが、それでもこの映画の凄さがやはり伴奏無しだから一つ一つダイレクトに迫ってくるというか、迫力は間違いなく以前見た時よりも段違いだった。
共産党の扱いをめぐって批判されるべき映画だとして、そうした面も満州から中国残留を経て帰還後の吐夢作品と何か主題の面で引き裂かれるかもしれない。35歳の監督にとっての、まだ50歳過ぎてからの作品にはない若さの力が残されているともいえるか。

 

ブラッドリー・クーパー『マエストロ』。
最大の衝撃はレナード・バーンスタイン役がブラッドリー・クーパーだったことかも。
『首』に『御法度』を思い出す人も多いが、こちらは『J.エドガー』がよぎってしまう。「嘘を言うな」というシーンにイーストウッドは切り返していたと記憶しているが、こちらはロングで両者を横から撮る(だけでなく、ある巨大なものが奥を横切って、彼の存在を縮こませて見える)。ロングとアップの切り返しが、それらを等価値にする…云々考えるが、まだ答えはない。素直に傑作とか言いにくい。それはネトフリとか、スピルバーグの名前をこのタイミングで見てしまったこととも無縁ではないか? しかし初っ端のあからさまに『審判』かとツッコミたくなる冒頭からウェス・アンダーソンの映画と同じく劇場で必見に違いない。
この平気で前回と違う映画を撮ろうとできるのも俳優兼監督の強みか。

 

ポール・キング『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』。
バートン版の前日譚かと思ったら全然違うと後から知る。
シャラメはSNLにてハマスを揶揄した件で印象はやはり良くない…と引きずりながら見てしまう。映画は、庶民は何やっても罰金取られる、大会社は警察と教会を抱き込んでやりたい放題、まあまあしみったれた現在。
最近は「たいした批判になってない」とマジになるべきか、「こういうのが映画の良さなんだよ」というべきか、生まれてから一度も態度を決めれてないので、まあ、僕はよくわかりません。
ちなみに映画は『甘党革命 特定甘味規制法』という映画を思い出した。
ラストは『パディントン2』みたく大捕物で閉めるかと思いきや、ヒュー・グラントがおいしいくらいで意外と大したことない…ようで親子再会のヒューマンなラストに至るチョコ分配に不覚にもグッときてしまう。

 

小津安二郎特集。東京国際の恨みをBunkamuraで、と思いきや一週間、夜の回はゼロというタイムテーブルのせいで『東京物語』4Kしか見れず。
ネガ焼失の呪いが消えないのか、ラスト近くの香川京子が教室から見ただろう列車のカットから、原節子のいる車内へ移る前に、おそらく上映トラブルで緑のノイズ走って一瞬暗転、一秒もしないうちに勢いよく列車が走り抜け、かなりビビるが、何とも不気味な印象強まる。
というか、画面の具合がますます怪奇映画調に見えてきた。だからといって怖い映画と言いたいわけではない。なにかリアリティの有無とか、そういった見方とは全然別の悪い夢を見るような感覚がある(悪夢は生々しいけど肌で触れられない)。笠智衆が突然目を覚まして若返る可能性もあるような。その種の悪夢としては『宗方姉妹』とか『風の中の牝鶏』とか『東京暮色』とか、死が絡んでの激しさ(そして蘇生)は『小早川家の秋』とかどうなんだろうと見直す必要感じる。
堀禎一監督による『憐』の「時の囚われ人」という言葉がまさに相応しいけれど、原節子の有名な「ずるいんです」から「とんでもない」に挟まれた、今日もまた同じ日が繰り返されるんじゃないかと、何か違うことがあるんじゃないかという身振りから、笠智衆から懐中時計を手渡される展開の切り返しが、双方の変化を(笠智衆の涙目とか、映ってない間の変化か、どちら側に自らが立って映画を見ているかの変化か)見ることを迫られるような感覚になる。これにより原節子は懐中時計を手に、新たな旅を余儀なくされるのか、わからない。
秋刀魚の味』の岸田今日子とのやり取りを思い出す、東野英治郎のくだりで、笠智衆東野英治郎へ振り向く時の、人物がセリフを発し続けるシーンでアクション繋ぎをする上に、そこでの笠智衆も涙目なのが不意をつかれる。さらには東野英治郎の笑い声の響きを跨いで、いきなり女将の別室にて妙に艶めかしく、けだるげにうなじを見せた姿も驚く。そこで一気に時間と空間が飛躍して、容赦ない現在が熱海をフラッシュバックするように見せる。この艶めかしさを引きずるように、つづく東山千栄子との場面での原節子の姿も浮き出て見える。その視線の向け方によるものか、角度と光の具合か、妙に妖しく、家族の一員というものとは異なる存在の女として見える。次の場面は杉村春子の美容室での、三つの角度からモデルの髪型を描いた絵が女将、原節子の印象とともに目につき、そして杉村も珍しく無言で目を開けて横たわっている。それからの笠智衆東野英治郎の帰宅に劇場では笑いもあったが、ここでの香川京子が産まれて以来長らく治まっていたはずの笠智衆の酒癖の悪さの話と、東野英治郎に対する杉村春子の「知らない人まで連れてきて」という呼び方、二人が椅子に座って寝る姿までセットになって、何とも言葉にしがたいが忘れがたいものがある。美容室の空間がタイムマシンかコクピットに見えるような違和感。

 

アキ・カウリスマキ『枯れ葉』。
いつも通りという感想ばかり聞いてきたが(しかし本当のところ、そんな安定した作風の監督なのか)、毎度のことながら良い映画だった。
もはや誰の余計な感想を聞いても腹が立つだけだから、見ました、良かったです、それだけで十分ですと言われかねないくらい。
カウリスマキの言葉に偽りなく、たしかに『罪と罰』にはじまり『カラマリ・ユニオン』のサウスパークのケニーかと言わんばかりに殺されまくるグラサン男たちといい、たいていの場合は暴力を受けるわけだが、(財布は盗られかけるが)今回はない。ひとまずこれも戦争のせいとしておく。だからといって世知辛いのに変わりなく、血生臭い事件の話も聞こえてくる。
ラジオのチャンネルを替えると流れる歌声、国家間の侵略行為が、国境を超えて聞こえる歌声に変わるだけで心動かされる。無論、それだけで窮状から救われるわけでもない悲しさ。劇場ポスターも相まって、言葉にするまでもなくゴダールのこともよぎる。
今回は特に天使のような犬。天使といえば、ぎこちなさをこれ以上なく豊かに変奏するような音楽とともに、映画館の前で電話番号を吹き去ってしまう風が二人を引き裂く運命のようで、ただ「そんなものはいらないんだよ」と言わんばかりに優しい映画の息吹に見える。ぶっちゃけすれ違いメロドラマなんか今時見てられないかも……というモヤモヤを忘れさせる。
さらに愛のために酒を断つ選択。終盤にほぼ背中だけ見せる常連さんがシブすぎて涙。

 

・村田実『霧笛』。
相変わらずアホみたいな感想だが、凄い映画があったんだなあと。4回くらい見てる方もいるから(右翼っぽい映画獣とか含め、いつも既にああいう人たちは見てるわけか)、今更かもしれない。
そしてカウリスマキ新作同様、右に同じく、って感じで、皆さんと一緒に圧倒される。
冒頭の船首像の顔から、船上の西洋人たちの顔、顔、顔(と来てからの特殊メイク級に変貌した菅井一郎)、そして乞食同然の人々。
港町に雪景色、商売女にヤクザ。
ほとんど夢が現実になったような。
『霊魂の不滅』とごっちゃになってる『路上の霊魂』の監督が、特に後半の活劇を撮るとは思わなかった。壁にぶつかる泥のようでも、とにかく美しい。
神戸映画資料館の告知を読んで主演女優を待つ出来事に絶句。

 

・『広島を上演する』。
四作とも誰かが画面から姿を消す。そのまとめ方はざっくりし過ぎかもしれないが。おそらくどれも2022年に撮られているのだとしたら、アラン・レネ生誕百年か(強引か)。
『しるしのない窓へ』は家庭内での朗読が「上演」となって、夫婦が時間をずらして舞台袖に消えるように画面外へ出て、音声だけが残され、もう一人の女が侵入者としてではなく、その上演を見る側だったように出てくる。誰かしら消えるというか、それらが本当に一緒にいた二人の女の出来事なのか宙づりにされる感覚は、水面と地面が上下反転した画から予想しうる展開でもある。
『ヒロエさんと広島を上演する』は窓越しの埃に見える、寒さとか、積もりそうな感じがまるでない雪というのが奇妙だった。その季節感の宙づり具合に対して、一方でヒロエさん(「広島を忘れない」ために付けられた名前)自体の影になった姿と、編集された音声が30分ほどのリアルタイムにまとめられたようだが、おそらくそんなこともないのだろう。どれくらいの時間をかけて撮られたものなのか謎めいている。最初に音声だけでなくヒロエさんが映った際の、彼女の声と身振りが重なったところに目が行く。同時に、それ以降の風景とヒロエさんとの映像の編集が、正直誰にもどのタイミングが正しいといえるのか決定的なものがなさすぎる気がして、曖昧過ぎるのが引っ掛かる。

『夢の涯てまで』は初見時に室内の男女の関係を勝手に推測してしまったが、彼が幽霊か精霊かともかく、室内にいる誰かにしか見えない存在として撮られていたが、彼女にも見えるかどうかわからなかった。そうした意味で『王国(あるいはその家について)』特に終盤の本読みパートにて、同じ空間にいるのに、いないはずになっている人がいる状況(本読みを聞いている足立智充、画面外の少女に歌うのをやめるよう繰り返す澁谷麻美)の延長なんだろうと思った。『王国』のホン読み後に作る読書の映画で、再見して何が理由で彼が消えたのか、なぜそもそもそこにいたのか、結局わからないままにしておきたくなった。

『それがどこであっても』は前半の稽古のパートに対して、後半の録音から、壁にすられての音にそれほどの不快感もないのが中途半端に思えたり、不必要に長い気がどうしても拭えず、どうにも掴みがたい。