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ゴダールと(マルセル)オフュルス対談本にて、ゴダールが「今年に観た四つの良い映画」の一本『グレゴワール・ムーラン対人類』、結局Youtubeにあった。ひょっとしたら、その直前に『アメリ』の話が出ていたからかもしれないが(監督のアルチュス・ド・パンゲルンの出演作だから)。でもこれは面白い。お笑いとサッカーの出てくる、最高の映画。言葉わからなくてもサッカーの試合(ぶっ倒れた選手)とか唐突な『ボヴァリー夫人』(まあ、読んでなくてもわかった気になっているくらいの筋さえ知っていれば)とか、理不尽な暴力とか、だいたい楽しめる。モッキー特集全然いけなかったが、ペレジャトコの映画にもこのテイストは継がれている感じだけれど、こういうフランス映画ならもっと見たい。
根性出して(というほどでもないが)石田民三の国アカ当日券を購入。『化粧雪』は勿論見れてよかったが、『釣鐘草』『三尺左吾平』の二本立てはさらに今年見た中でも(いろんな意味で)凄い映画で霞んでしまう。
『釣鐘草』はデコちゃん主演の姉弟映画。ノエル・バーチ(K.Okita氏の邦訳を読んだ)の言うような、多くの場合に同一場面において同一ショットへのカットバックはしないという特徴は通じているが(水面を見つめているらしい場面もある)、あまりにホン・サンスすぎる(といっていいのか)数回のズームにかなりのショックを受ける。あくまでその時間・場所の人物たちの流れに沿ったものとして構成されていることには徹していて、経済的なカットバックを用いずに、つながらないかもしれない危うさと隣り合わせだからこそ人物に迫れる領域というのがあるかもしれず、ショットを割らずに変化を導入するためのズームというのも、ある流れを断ち切らないという点で貫かれている。無論いびつさが目立つわけではなく、やはりカメラの動きは凄く、師範学校の女学生たちが各々の母について語る時に、どの作品か忘れたが羽田澄子がよぎった。ただそれ以上に何より姉と弟の映画だった。この弟の有り様というか、そこでの姉に対する反応に心をかき乱されるというか、高峰秀子が寝ている弟へ向けて歌う美しいアップ(これも2つの角度から撮られている)の後に、弟が歌う川辺のショットなど、とにかく姉だけでなく弟の映画でもあり、つまり姉弟の映画だった。あまりに駆け足の悲しい終盤(しかし馬といい映っているものは本当にいい)がまた容易に傑作と言わせない感じで泣かせる。沢村貞子の母も印象深い。
石田民三『三尺左吾平』は『釣鐘草』の反動で頭ボンヤリしながら見てしまい話に振り落とされるが、まずエノケン主役と知らずに見た。クレジットがそもそもなかったので、エノケンが出てきて驚いた。そして斬り合いは画面外か、舞っているだけというか、ともかくそれでもこちらがイメージしてきたエノケン映画とまるで違う世界でびっくりした。最後の槍を又に挟んで馬乗りしているみたいな踊りがこれまたボンヤリ見ながら良かった。が、これはいったい何なんだろうととにかく奇妙な映画だったように思う。
国立映画アーカイブにて熊谷久虎『阿部一族』(初見)並木鏡太郎『樋口一葉』(再見)。どちらもある重要な場面で雪が降るのだが、完全な受け売りの感想だが、たしかにこの30年代後半の日本映画の雪を降らせる技術抜きにはありえないんだろうと思った。ただ『阿部一族』は唐突に砂塵が吹き込んできたのかと、しばらく雪かどうか戸惑った。『樋口一葉』の雪は、あなたが来るときはいつも何かが降っていますね、そう、こんな降っているんだから、あなたが来るんじゃないかと思っていた、といった言葉のためにほぼこれだけの量の雪を降らせているといっていいのだが、だからこそ感動する。
二本の間で何もしたいことがなく(美術館も振替休日)ゴダール・オフュルス対談を読み始めたら、ほぼ最後まで読み終えてしまう。たしかに面白いというのもあるけれど、ちょっと新書クラスに短く感じる……(中身が薄いとは思わない)。本書を読むよりも長い上映時間になるだろうマルセル・オフュルスの特集を菊川でやったらいいんじゃないだろうか。
なんとなく並木鏡太郎をTwitter検索したら上馬場さんの『魚河岸帝國』感想が出てきて、物凄く見たくなった。見てない映画ばかりできりがない。
シネマヴェーラへ『渚を駈ける女』を見に行くが5分ほど遅刻した上に、上映中は寝てしまった。しかも夢を見た。なぜかシネマート新宿でゴダール全長編・全短編上映というチラシを広げながら「これまたとんでもない特集が始まってしまったな」と話す夢だった。本当にここに書く必要のない恥ずかしい夢だったが、映画を見ながら夢を見たのは初めてかもしれない。映画自体は本当に高峰三枝子がお色気やっているというショックと、序盤にあんなことした吉田輝雄が終盤にようやく帰ってから躊躇なくそんなことして「あれは解決したことじゃないか」とかヌケヌケ言うもんだから高峰三枝子死んでるのによくそんなことできるよねとさすがに吹いた。あとは起きている範囲では佐野周二の役の正体が酷すぎて驚いた。しかしとんでもないカルト作らしいと思って見ると、寝すぎて内容さえ把握できなかった。
エマニュエル・ベルコ『愛する人に伝える言葉』。『少女』が「初体験」の映画で、日仏学院の上映中にソワソワどころかなんだか妙な熱が出てしまう映画だったと思う(ちょいとだけズボンかどこかの隙間からピョコンと出ている男性器が『シーバース』のアレを思い出したとか「しかしあんなふうに出したままにして見せるか?」とか甘利君と話したような覚えが)。ともかくゲスい感想を言う気も失せていくほどベッドで起きる出来事をAVとは異なる意味でリアリズムと作り事の境界で追い続ける映画だったと記憶しているが、これまたベッドで起きる出来事の映画と言えなくもないが、ただしそれは臨終の出来事である。話も知らないまま見に行ったので、てっきりドヌーヴが亡くなる話かと思っていたくらいだが(しかし死は誰にでも起こりうるものだ)、息子のブノワ・マジメルが癌で死ぬ(このいずれ起こるにしても人生に訪れる「早さ」は『少女』と通じているかもしれない)。しかも超重要人物のガブリエル・サラ氏は本物の医者で病院のスタッフのほとんどが本物らしいから、要所要所どことなく教育映画的なタッチに見えなくもないのにも納得する。『少女』のベッド同様に熱っぽいブノワ・マジメルの演劇ワークショップを経て、彼に対し「死」へ向かう覚悟はできたかと言わんばかりに医師が肩を掴むシーンを見るとゾクッとくる。本作での彼は死に向かう役を演じるのだが、あくまでそれは作り物に過ぎないが、その中で彼という存在はそれまでの生きざまがどのようなものだったか観客としてはもう実は関係ない。ただ容赦なく誰にでも起こりうるはずの死を引き受ける。そのなかで誰でも「赦す」という言葉を発することになるかのような。確かに助手なのか謎めいた(『ヒア アフター』での臨死体験も印象深い)セシル・ド・フランスの役が非常にフィクショナルな存在へ逸脱・変貌するあたり計算されたものだとわかっても、見ている間は予測できなかった。
「マンキウィッツもドーネンもまともに見てない人間にゴダール語る資格ないよ」というフレーズが脳裏をよぎった。誰の言葉かは知らない。ともかくあまりにマンキウィッツを見なさすぎたから、真面目に見なければと『五本の指』。これが今朝見たばかりなのに、もう細かいところを思い出せない。でもマルセル・オフュルストーク読んだとか関係なくダニエル・ダリューのジェイムズ・メイソンに対する負けなさは何なんだ。ダニエル・ダリューの外見とかオーラとか家柄にあるのかわからないし、そもそも何らかの説得力があるのかもわからないまま(そしてなぜかダニエル・ダリューの顔もうまく思い出せない)、オフュルスの映画に出てるから程度の連想にすぎないかもしれないのに、ダニエル・ダリューはスイスへ行ってしまう。手に届かない。ジェイムズ・メイソンが何をやっても最終的には収まるべきところへ収まる因果者オーラは凄い。別に頭の働かない自分が見てもナチもイギリスもジェイムズ・メイソンも大した計算は何もしていないに等しく、ダニエル・ダリューも出し抜くというほどの意外さがあるわけでもなく、そもそも偽札ということ自体に気づけない。だからここには頭良さげでもないナチが一番賢いというわけでもないが。しかし掃除機のおばさんのくだりの、ジェイムズ・メイソンのオマヌケに近いしくじりっぷりまで面白い。特に気の利いた感想もなにもないが、つまりは面白い映画が見れてよかった。
セルジュ・ボゾン『ドン・ジュアン』略してDJ。ライアン・ゴズリングとかライアン・レイノルズとかがやりそうに見えなくもない(見えないか)俳優がフラれまくる。ボンヤリ見ていて、最初はそんな話だったのかと思いきや、早々と別にそういう話のわけもなく。難解なわけでもないが、何を見させられてるんだと思ううちに、今回も振り落とされる。あえて聞いてる側とか周りのリアクションが見えないまま歌っている人のアップだけで、あえて切り返しもしないミュージカルというのはなかなかないかもしれない。ピアノがよかった気がする。終盤の白い服着た人のタコ踊りもおかしい。