フィルメックスのあたりの日記①

黒川幸則監督『ある歯医者の異常な愛』を見る。
「変態!インポ!歯医者!」(ここが一番笑った)の日常がユルユルと続く。武智鉄二先生へのオマージュかもしれないプッシー・ティースがちょっぴり出てきたり、毎朝忍び込んではケーキをプレゼントして虫歯にするというくだらない作戦など、本当に見ながら「先生なにやってるんですか!」と、しょうもない園部貴一を引っ叩きたくなった。甘いものを食べると虫歯になる、年頃になると自分が想像していた以上に歯医者の世話になる、という二大テーマが重くのしかかる。本当に毎日甘いものを食べたいし、歯も磨きたくないけど、虫歯は想像していた以上に痛いのだ。しかも先生がこんなハズレ医師だったら、もう死ぬしかない。そんなストーカー歯医者の話をエロもへったくれもなくユルユルと見続ける。多摩川はすっかり馴染みの場所になった。

フィルメックスへ。マハ・ハジ『地中海熱』さすがにエリア・スレイマンのスタッフだけあって面白かったけれど、鬱再発後の落とし所は先が読めてしまって良くないんじゃないか。朝のツァイ・ミンリャンに続いて地理学の話が出てきた。犬二匹の性格の違いが見えるのがよかったから、この二匹をもうちょっと見たかった。

『ダム』という映画は死ぬほどつまらなくて、寝ないと死ぬんじゃないかと身の危険を感じ、ただ朝日ホールの席の背が寝るには短すぎて、あまりに辛いから通路のソファで寝た。世の中、死ぬんじゃないかと思うほど退屈な映画はあるんだなと勉強になりました。

チョン・ジュリ『Next Sohee』いまのところ映画祭にほぼ通えていないから、現時点でのベストの一本になる。90分+45分の映画といった調子で、それが見やすいように思う。なんか冒頭がよくないと一緒に飲んだ知人は話していたが、別に冒頭も悪くない(まあ、僕はセラの新作を見逃した低能だから参考にしないでください)。ペ・ドゥナの佇まいに、やはり役者は監督の姿を我が身に宿すのかと思う。キム・シウンの見た雪をペ・ドゥナが一度も見ない。ソヒの見る雪の美しさ(それは主観ショットへと近づいていく)と、その辿る結末に、やはり山中貞雄は見ているんじゃないか。それがソヒの最期にわずかな救いを、どうしようもないにしても、あの光と雪が自殺という道を意思として選択させたかもしれない。ただ「次のソヒ」を防ぐという監督とペ・ドゥナの決意が観客には求められるのは間違いない。にしても、やはりBTSのことはよぎった。食えない人間にとってのアイドルという将来もまた無視できない。工場務めが兵役代わりになるというのもまた、きつい話だ。

七里圭監督『背』。上映後は監督自身による吉増剛造の朗読つき(聞けてよかった)。イメフォでの8ミリ作品上映時も「僕はほとんど何もしていません」と仰っていて、今回も「何もしていないに等しい」そうだが、『TOKYO!』メイキングでのポン・ジュノ香川照之のはしゃぎっぷりを記録した本編以上の傑作ドキュメンタリーに次ぐ、感動的なライブ映画だったかもしれない。特に最後の何かするのをやめたに等しい吉増剛造自身の、ガラス越しの影を見続けるような終盤に行き着くのがよかった。最初の映倫マークと、最後の拍手のない終わりもかっこいい。とはいえ七里監督の映画が何をしたいのかと、何の話をしている声なのか、今回も実は理解できていない。いや、映画に理解は必要ないかもしれないが、七里監督本人の非常に落ち着いた朗読を聞くと、この語り口の映画を『のんきな姉さん』(とはいえ、こちらも三浦友和の一言が最後に聞ける手前まで途中やや置いていかれかける)など、また見たいのが本音だが。この話を聞いているうちに置いていかれて声だけ聞くうちに空間だけになる、というのが七里さんの映画なのか。
ちなみにキネ旬星取り表の本作への「お金出しては見ない」はいくらなんでもあんまりだ。

今年は映画館で見られなさそうなので『夏の娘たち』を自宅で見直す。青山真治追悼とは何だか時間が合わず、ハロウィンにも馴染めず、夜LINEをしているうちに目が冴えて、また寝つきがひどく悪く、つまり出かける意欲が失われていく。
和田みさが和田光沙だというのを今回初めて一致する。それは(失礼な話かもしれないが)西山真来と同じく和田光沙もこの映画が一番いいと感じるからかもしれない。この映画の筋というか人間関係というか、それを初見どころか二、三回目も何となく頭に入りきらないままだったが、だからできれば年一回でも見て、だんだんと頭に入ってくる気がする。親戚の集まりと一緒かもしれない。それは「頭に入れる」というのとも別の感覚かもしれない。何かを知る。小林節彦が和田みさの寝床へ現れる場面を謎めいたものと、このいくつかのカップルが変わっていく映画の中で最終的に和田みさと結ばれるのが小林節彦に見えるから余計に謎に感じてしまっていたのだが、今更、この見てはいけないものを見てしまったようで、感動してしまっていいのかもわからないけれど、とにかくこの時の和田みさは美しいと思う。これを物語というものに回収できるものなのか何なのか。結びついては離れ、という関係を楽しむのとも、ただ点がいくつかあるような感覚とも、どちらでもある。
ガクガクズームのどれが堀禎一の演出によるもので、どれが渡邊壽岳さんの提案なのかも(なんとなく聞いてはいけない気がするので)今回見直して、以前は玄関でビールを差し出されて飲む時かなと思ったが、またわからなくなってしまったが(勘の鈍い男なので)。初っ端の下元史郎に寄るところがなぜ?と思ってきたが、西山真来から「私の本当のお父さんは?」と聞かれ「旅の人」と返し(今日ヘッドフォンで聞いて、実は初めて聞き取れた)、また彼女が「もう」と笑う時に、まさに視線が結びついた!という感覚。そのためにはあのズームがひょっとしたらきいているのかもしれないが、断定できない。それにしても渡邊壽岳撮影の映画で、ああやって視線が間違いなく結ばれたという瞬間が何度かある映画は『夏の娘たち』だけかもしれない。
ひろちゃんとの劇中最初の(何年振りかの)セックスまで時間を省略しないのにも改めて驚く。
いつも何だか凄い、と驚いていた川の水浴での「思い出した!」から松浦祐也と西山真来の切り返しになる記憶が水をつたって蘇るような連鎖も、ここでも複数人いるうちで、ついに最後結ばれる二人の視線が何度かカットバックするうちに繋がるということをやっているのだが、今回自宅で見たせいか(聞き取りやすさとも違うだろうが)、ようやくちゃんと見れた気がする。
一階で松浦祐也と離れたはずなのに、西山真来が階段をあがる間に既に上に松浦が待っていて「もう日が昇りますよ」という、あれが物凄く自然というのは本当にいつもゾクッとする。そのまま時間はズレることもなく刻々と、翌日の朝へ、「ひろちゃん」の死へ進んでいく。
「山の人の生まれ変わりかも!」という二人の歩く後ろ姿(決して長い距離でもない)を、あえてそれまでの正面のフィックスから切り返したら手持ちで撮るという判断も、その意味するところ以上に、ものすごく繊細な意思を感じて(感じてばかりだが)、なんだか最近見た映画も霞んでしまった。
以前、堀さんとデヴィット・クローネンバーグの話になった時に「映画監督は撮りたくない画なんか撮らないんだ」と言われたのを思い出した。

TIFFにてエクタラ・コレクティブの『私たちの場所』、最初はどうなるかと不安だったが、映画のスタイルを理解してからは、全然いけると思った。まあ、SMSの文面をそのまま画面にだすのはさすがにいかがなセンスかとかなり微妙だが……。久々に桝井孝則さんのことを思い出した。ウカマウ集団とか、どうにも決して改めて見直したいわけではないが、職場での暴行後の彼女に向けた光がいい。この集団の映画は機会があったらいろいろ見てみたい。

黒川幸則監督『淫乱生保の女 肉体勧誘』これは過去に自宅で二~三回見直して、実は苦手な映画だったかもしれないのに、『にわのすなば』をきっかけに再見して、今更感動する。
そもそも冒頭の腹話術人形をつかう赤髪の川瀬陽太が生保レディとオフィスでセックスする展開にいつも「自分は何を見ているんだ?」と気持ちが離れていったのに気づく。はたしてこの世に「生保レディの肉体勧誘」は実在するのか? 『DOORⅢ』『風俗の穴場』など保険の勧誘はセックスと結びつきやすい題材だが、そんな生保レディの彼女が「バカなことしちゃった」と言いながら水を汲み、公園の原っぱには蛙たちがいて、彼女の素足には亀がいて、あまりに朗らかかつ、本当の意味での色気のある景色に一気にときめいた。そして肉体勧誘なる行為が実在するのかさえ、恋心と共に移ろう展開に『にわのすなば』まで一貫した心地よさがあるのに、ようやく気付いた。これまた男の見た夢の世界かもしれない。屁のように生きて屁のように死ぬのだ! 行き交う車の音も、手持ちで女性の散歩を追う場面が出てくるのも、つながっている。今泉浩一の屈強なハリー・ラングドンか、はたまた石井隆の映画の椎名桔平をさらにピュアにしたような佇まいも見直したら明るく可愛らしい。ロングショットで出てくる元カノの結婚相手の何となく怖い塩田明彦も面白い。

黒川幸則監督『夜のタイ語教室』改めて見直すと、これは名品。カフェテラスでのかすみ果穂と倖田李梨の会話に『にわのすなば』にも通じる、男がいない場での女同士の(それもまた男の見る夢みたいなものかもしれない)会話がいいのだが、それを覆うような雨降りにセミの鳴き声が重なって、夏のにわか雨の後にムッとする暑さのことを思い出せるのが素晴らしい。霧吹きから花壇まで自然の質感へ目が行く。変なことやろうとしているようで詩情みたいなものが失われていないというか。普段言いにくいこともタイ語なら言える、そんな話をするタイ料理屋でのカウンターの男女の位置も、かすみ果穂のアップも印象深いが、何よりその言葉の意味をついに夫へ(婚姻前なのだが)口にした直後に少し引いた画に繋げる、その距離もタイミングも、あられもない彼女の誘う態勢も何もかも素晴らしい。

黒川幸則監督『感染病棟』まさかのパンデミック映画(ということにしよう)。新型インフルエンザ流行の時期に撮られたコメディ。ヒロインが階段を滑り落ちるくだりは『青の時間』の題材に先駆けてバスター・キートンへのオマージュを捧げようとされたのかもしれない。パンデミックとはいえ、ヤブ医者にも程がある医者親娘の経営するクリニックと、彼らの一軒家と、妹の恋人の家と、それらを繫ぐ近隣の通りのみという狭い舞台で、彼らがドタバタというかアタフタする様が微笑ましく楽しく、しかし不安気であっても「死の舞踏」まで、あえて短い人生をあくせくする必要などないじゃないかという気にさせる。なぜか葉月蛍がマチルダ・メイもしくはリナ・ロメイを彷彿とさせる役になり全裸で吸い付いてきて謎を振りまくものの消えてしまう。撮影助手に橋本彩子がクレジットされていた。

ドキュメンタリー『いもの風土記』第一部「水の刻」を見る。実際に黒川さんの映画らしいかもしれない「いきなり呼ばれて、そのまま帰ってこれない」話から始まる。『天竜区』のスタイルを嫌でも思い出すが、写真、絵画、音声のクリアさと画面との同期具合など入り込みやすく、そこが関係者にとっては確かに良いような、何かまだ物足りない気もする。たしかに堀禎一監督の生理なのか、あえてなのか、あの独特さを思い知った。いや、でもこれはこれで『ラララの恋人』からすでに一貫したスタイルの映画でもあるんだなとも。水面に反射した光景がいい。ひとまず五部までの完成が待ち遠しい。

■絵と映像 「キャンバスは工場を映す」、黒川幸則<鋳物工場の仕事>(タイトルなし)

「スペースとプラン」にて井上文香展&黒川幸則<鋳物工場の仕事>(タイトルなし)の記録映像を見る。およそ90分? 川口市領家の不二工業での作業の記録。御本人の言葉を借りれば「ストイック」というか、黒川幸則&井上文香たった二人だけの映画であってもフィックスの画の量で意外と硬派というか(スタッフ二名だけといえば堀禎一&内山丈史の『天竜区』の製茶工場という前例はあるわけだが)ただ序盤ほど本当に作業だけなのでやはり見ていて集中力切れかけるが、作業員の休憩が挟まれて、ようやく人の声が聞こえてたり、はにかんでいる顔が見えたあたりから不思議とこちらの気持ちもリセットされ、この映画を楽しもうという姿勢に変わる。そうなってからは土、粉、液、煙、綿といった画を構成する要素が見ていて飽きず、穴ぼこは見ていて楽しく、何より火に色気を感じる。最近の自分が欲求不満なのか、後半の溶かした鉄を流し込む様子というか、燃える液体が穴から噴き出し、流れ落ちる時の音も火花も、何か立小便に近いというとさすがに下品かもしれないが、そのような連想はラス・メイヤーの世界でも繰り広げられていた。あの白くこびりついたものが精液に見えてくるくらい、何らかの事後の余韻に浸るような時間を過ごす。その書き方がやはり気持ち悪いなら、中川信夫『地獄』の釜を見る面白さというか。とにかく火は見ても聞いてもバリエーションが豊かで見ていて飽きない。実は未完成らしく、この後も作業は続くからか、やはり先行きは見えないまま終わってしまう(その点、これまたスタッフ2名だけの鈴木仁篤&ロサーナ・トレスの映画ほどの感動はまだない)。でもこの見えなさも黒川さんの映画かもしれない。

黒川幸則監督のTwitterでの解説。

 

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ゴダールと(マルセル)オフュルス対談本にて、ゴダールが「今年に観た四つの良い映画」の一本『グレゴワール・ムーラン対人類』、結局Youtubeにあった。ひょっとしたら、その直前に『アメリ』の話が出ていたからかもしれないが(監督のアルチュス・ド・パンゲルンの出演作だから)。でもこれは面白い。お笑いとサッカーの出てくる、最高の映画。言葉わからなくてもサッカーの試合(ぶっ倒れた選手)とか唐突な『ボヴァリー夫人』(まあ、読んでなくてもわかった気になっているくらいの筋さえ知っていれば)とか、理不尽な暴力とか、だいたい楽しめる。モッキー特集全然いけなかったが、ペレジャトコの映画にもこのテイストは継がれている感じだけれど、こういうフランス映画ならもっと見たい。

根性出して(というほどでもないが)石田民三の国アカ当日券を購入。『化粧雪』は勿論見れてよかったが、『釣鐘草』『三尺左吾平』の二本立てはさらに今年見た中でも(いろんな意味で)凄い映画で霞んでしまう。
『釣鐘草』はデコちゃん主演の姉弟映画。ノエル・バーチ(K.Okita氏の邦訳を読んだ)の言うような、多くの場合に同一場面において同一ショットへのカットバックはしないという特徴は通じているが(水面を見つめているらしい場面もある)、あまりにホン・サンスすぎる(といっていいのか)数回のズームにかなりのショックを受ける。あくまでその時間・場所の人物たちの流れに沿ったものとして構成されていることには徹していて、経済的なカットバックを用いずに、つながらないかもしれない危うさと隣り合わせだからこそ人物に迫れる領域というのがあるかもしれず、ショットを割らずに変化を導入するためのズームというのも、ある流れを断ち切らないという点で貫かれている。無論いびつさが目立つわけではなく、やはりカメラの動きは凄く、師範学校の女学生たちが各々の母について語る時に、どの作品か忘れたが羽田澄子がよぎった。ただそれ以上に何より姉と弟の映画だった。この弟の有り様というか、そこでの姉に対する反応に心をかき乱されるというか、高峰秀子が寝ている弟へ向けて歌う美しいアップ(これも2つの角度から撮られている)の後に、弟が歌う川辺のショットなど、とにかく姉だけでなく弟の映画でもあり、つまり姉弟の映画だった。あまりに駆け足の悲しい終盤(しかし馬といい映っているものは本当にいい)がまた容易に傑作と言わせない感じで泣かせる。沢村貞子の母も印象深い。

石田民三『三尺左吾平』は『釣鐘草』の反動で頭ボンヤリしながら見てしまい話に振り落とされるが、まずエノケン主役と知らずに見た。クレジットがそもそもなかったので、エノケンが出てきて驚いた。そして斬り合いは画面外か、舞っているだけというか、ともかくそれでもこちらがイメージしてきたエノケン映画とまるで違う世界でびっくりした。最後の槍を又に挟んで馬乗りしているみたいな踊りがこれまたボンヤリ見ながら良かった。が、これはいったい何なんだろうととにかく奇妙な映画だったように思う。

国立映画アーカイブにて熊谷久虎阿部一族』(初見)並木鏡太郎『樋口一葉』(再見)。どちらもある重要な場面で雪が降るのだが、完全な受け売りの感想だが、たしかにこの30年代後半の日本映画の雪を降らせる技術抜きにはありえないんだろうと思った。ただ『阿部一族』は唐突に砂塵が吹き込んできたのかと、しばらく雪かどうか戸惑った。『樋口一葉』の雪は、あなたが来るときはいつも何かが降っていますね、そう、こんな降っているんだから、あなたが来るんじゃないかと思っていた、といった言葉のためにほぼこれだけの量の雪を降らせているといっていいのだが、だからこそ感動する。
二本の間で何もしたいことがなく(美術館も振替休日)ゴダール・オフュルス対談を読み始めたら、ほぼ最後まで読み終えてしまう。たしかに面白いというのもあるけれど、ちょっと新書クラスに短く感じる……(中身が薄いとは思わない)。本書を読むよりも長い上映時間になるだろうマルセル・オフュルスの特集を菊川でやったらいいんじゃないだろうか。
なんとなく並木鏡太郎をTwitter検索したら上馬場さんの『魚河岸帝國』感想が出てきて、物凄く見たくなった。見てない映画ばかりできりがない。

シネマヴェーラへ『渚を駈ける女』を見に行くが5分ほど遅刻した上に、上映中は寝てしまった。しかも夢を見た。なぜかシネマート新宿でゴダール全長編・全短編上映というチラシを広げながら「これまたとんでもない特集が始まってしまったな」と話す夢だった。本当にここに書く必要のない恥ずかしい夢だったが、映画を見ながら夢を見たのは初めてかもしれない。映画自体は本当に高峰三枝子がお色気やっているというショックと、序盤にあんなことした吉田輝雄が終盤にようやく帰ってから躊躇なくそんなことして「あれは解決したことじゃないか」とかヌケヌケ言うもんだから高峰三枝子死んでるのによくそんなことできるよねとさすがに吹いた。あとは起きている範囲では佐野周二の役の正体が酷すぎて驚いた。しかしとんでもないカルト作らしいと思って見ると、寝すぎて内容さえ把握できなかった。

エマニュエル・ベルコ『愛する人に伝える言葉』。『少女』が「初体験」の映画で、日仏学院の上映中にソワソワどころかなんだか妙な熱が出てしまう映画だったと思う(ちょいとだけズボンかどこかの隙間からピョコンと出ている男性器が『シーバース』のアレを思い出したとか「しかしあんなふうに出したままにして見せるか?」とか甘利君と話したような覚えが)。ともかくゲスい感想を言う気も失せていくほどベッドで起きる出来事をAVとは異なる意味でリアリズムと作り事の境界で追い続ける映画だったと記憶しているが、これまたベッドで起きる出来事の映画と言えなくもないが、ただしそれは臨終の出来事である。話も知らないまま見に行ったので、てっきりドヌーヴが亡くなる話かと思っていたくらいだが(しかし死は誰にでも起こりうるものだ)、息子のブノワ・マジメルが癌で死ぬ(このいずれ起こるにしても人生に訪れる「早さ」は『少女』と通じているかもしれない)。しかも超重要人物のガブリエル・サラ氏は本物の医者で病院のスタッフのほとんどが本物らしいから、要所要所どことなく教育映画的なタッチに見えなくもないのにも納得する。『少女』のベッド同様に熱っぽいブノワ・マジメルの演劇ワークショップを経て、彼に対し「死」へ向かう覚悟はできたかと言わんばかりに医師が肩を掴むシーンを見るとゾクッとくる。本作での彼は死に向かう役を演じるのだが、あくまでそれは作り物に過ぎないが、その中で彼という存在はそれまでの生きざまがどのようなものだったか観客としてはもう実は関係ない。ただ容赦なく誰にでも起こりうるはずの死を引き受ける。そのなかで誰でも「赦す」という言葉を発することになるかのような。確かに助手なのか謎めいた(『ヒア アフター』での臨死体験も印象深い)セシル・ド・フランスの役が非常にフィクショナルな存在へ逸脱・変貌するあたり計算されたものだとわかっても、見ている間は予測できなかった。

「マンキウィッツもドーネンもまともに見てない人間にゴダール語る資格ないよ」というフレーズが脳裏をよぎった。誰の言葉かは知らない。ともかくあまりにマンキウィッツを見なさすぎたから、真面目に見なければと『五本の指』。これが今朝見たばかりなのに、もう細かいところを思い出せない。でもマルセル・オフュルストーク読んだとか関係なくダニエル・ダリュージェイムズ・メイソンに対する負けなさは何なんだ。ダニエル・ダリューの外見とかオーラとか家柄にあるのかわからないし、そもそも何らかの説得力があるのかもわからないまま(そしてなぜかダニエル・ダリューの顔もうまく思い出せない)、オフュルスの映画に出てるから程度の連想にすぎないかもしれないのに、ダニエル・ダリューはスイスへ行ってしまう。手に届かない。ジェイムズ・メイソンが何をやっても最終的には収まるべきところへ収まる因果者オーラは凄い。別に頭の働かない自分が見てもナチもイギリスもジェイムズ・メイソンも大した計算は何もしていないに等しく、ダニエル・ダリューも出し抜くというほどの意外さがあるわけでもなく、そもそも偽札ということ自体に気づけない。だからここには頭良さげでもないナチが一番賢いというわけでもないが。しかし掃除機のおばさんのくだりの、ジェイムズ・メイソンのオマヌケに近いしくじりっぷりまで面白い。特に気の利いた感想もなにもないが、つまりは面白い映画が見れてよかった。

セルジュ・ボゾン『ドン・ジュアン』略してDJ。ライアン・ゴズリングとかライアン・レイノルズとかがやりそうに見えなくもない(見えないか)俳優がフラれまくる。ボンヤリ見ていて、最初はそんな話だったのかと思いきや、早々と別にそういう話のわけもなく。難解なわけでもないが、何を見させられてるんだと思ううちに、今回も振り落とされる。あえて聞いてる側とか周りのリアクションが見えないまま歌っている人のアップだけで、あえて切り返しもしないミュージカルというのはなかなかないかもしれない。ピアノがよかった気がする。終盤の白い服着た人のタコ踊りもおかしい。

『美しい術』『適切な距離』(監督・脚本:大江崇允)@早稲田松竹

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早稲田松竹にて10/10まで18:35~上映。

 

久々に大江崇允監督・脚本の『美しい術』(編集も兼ねる)と『適切な距離』を見直す。
『美しい術』は10年近く前に見た時以上に、劇中で言うところの「東京の海」ばりのくすんだ視界の画面に見えて「こんなだっけ」と驚いたが、そして主演女優二人の境遇もどう考えても明るく開けたものではないのに、それでも輝きが失われてない。瑞々しさも輝きも以前より増して見えたように感じた。冒頭の黒画面は以前よりも真っ暗に感じ、そこから最初に主要人物が映ったはずなのに隠れて見えない戸惑いも、そして「犬も歩けば棒に当たる」のくだりも、何もかも初見時より不意を衝かれ驚いた。大江崇允監督の演劇出身というキャリアが面接の場や、本作の女優二人のルームシェアの空間や、オフにされた状況や、人物のモノローグなどに反映されているんじゃないかという点は次作『適切な距離』により印象付けられることだろうが、そのようなことは『美しい術』を見ながらどうでもよくなってくる。本作のスタッフ・キャストが当時何を思っていたかはともかく、本作からは「映画には、何かができるんじゃないか」という、だから「映画を撮らなければいけない」という信念に貫かれている。そこに「このような映画を作りたい」ということや、もしくは「他の映画と違うことがしたい」ということより何より「映画ならば何か事態を変えられるんじゃないか」という、映画を選択した必然性がある。その意思が黒画面にもフレームにもモノローグにも演出にも物語にもある。この強い姿勢は滅多に見られるものではない。しかも(本作冒頭にクレジットされるように)「第一回監督作品」でしか、まずは挑戦できないことかもしれない。それは他のどの映画にも似ていないということを指すわけではない。「コミュニケーションの問題」としてはゴダールにも繋がるが、何より「現代において奇跡を起こすことは可能か」という問題ならばロメールにも通じる。かつての職場の同僚にして不倫相手の妻とカフェテラスにて会話を交わす場での、二人の女のカットバックにて何かが起こるんじゃないかという危うさは「ロメール的」と評されかねない(そこには『ドライブ・マイ・カー』も含まれるか?)映画以上にスリルがある。それは不倫をめぐるサスペンスとか、シナリオレベルでの緊張感ある状況の演出というよりも、単純に土田愛恵を捉えたショットに、妻のコーヒーを持つ手元に、そのどちらも不測の事態が起きてしまうんじゃないかという暴発の危機にある。この暴発の前ぶれは森衣里をめぐる他殺・自殺含む死の予感からテーマとしては印象付けられ、ちょっと笑える後輩への蹴りにもあるし、屋上での床にしゃがみこんだ彼女へ主観ショットのように俯瞰気味に近づく場面にもある。カフェの場面を経て、土田愛恵が赤い服に着替えてから、台詞では「就職が決まった」などあっさりと事態が変化したかのように言いながらも、その真偽が定かではない(というよりこれは噓なんだろうと思ってしまう)彼女の佇まいはさらに危うく、そして本作では解決のない三角関係の問題など、二人の女性が入れ替え可能であったり、同じものを見ていたりすることが原因なのかはともかく、何かが耐えきれずに噴出してしまう可能性はいたるところにある。それでも本作の「奇跡待ち」の結末は『空に住む』のラストの背伸びのように、そしてタイトル通りに「美しい術」のように見える。
『適切な距離』も初見ではわからなかった、もしくは忘れていた「気づき」が至る所にあって、本当に考え抜かれた映画だったと同時に、入り込めるまでに『美しい術』よりも時間はかかる。それでも何かが起こりうる予感は電車内での、ある人物の姿が影になる時の闇の暗さ(繰り返すが今回の早稲田松竹での上映が一番暗く見えた)、その後の父・母・恋人のいる家へ入ってからの『ポゼッサー』にはおそらくなかった真の危うさがある。

eigei7.hateblo.jp

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ナンニ・モレッティ『三つの鍵』。アスガー・ファルハディの映画でも見てるのかと、最初のうちは構成に入りにくさも感じたけれど、ローマ法王ベルルスコーニの映画の作家がそう大人しくまとめるわけもなく、それぞれの結びつかない意図した散漫さが、むしろ三つの家族の話を交互に進めるからこその時間経過の豊かさが成し得たんじゃないかと気付かされ、やはり物凄く良い映画だった。猛烈なアプローチを仕掛けてくる隣人の孫娘あたりから雲行きが一気に怪しくなり、特に「未亡人」と呼ばれる伊藤沙莉に見えて仕方ない母親の(ジャーロのことなんかどうでもよいというか嫌いそうなのが明らかな『夫婦の危機』のこともよぎるが)危うさと色気が凄いことになっていく。赤ん坊を抱える人物のバリエーションを見れる映画でもある(それは母親に限らない)。さらにそれぞれの話に未亡人は現れるが、終盤になるほどロッセリーニのバーグマンに捧げられたような佇まいになり(窓を開け放した家で留守電をかける場面が印象に残る)、ロッセリーニの用いなかった(ワンスアポン〜とも異なる)スタイルの語りの意義が一層強まる。

菊川にて『ゴダールのマリア』。にしても菊川いくたびにクローネンバーグ親子の予告を見て「ゴダールとは真逆だな」と思うが(息子はともかく親父の『クラッシュ』は好きだが、やはりあのテーマ曲がかかってほしいのに予告には無し)、別に映画館の方針に文句つけたいわけではなく、ともかく『マリア』は本当にクロ親子と逆方向の生命力が炸裂。ミエヴィル『マリアの本』はやっぱり凄く良いのだが、「その頃」とゴダール『こんにちはマリア』に続く。『奇跡』にて終盤の蘇生が始まる際に、ヨハネスの隣に少女がインして手をつないで、そして事態へのリアクションのショットを見ているとドライヤーの短編教育映画のどれかみたいだと思うのだが、それにちなんで今更ゴダールに「ドキュメンタリー的な」というのは野暮すぎるが、ミリエム・ルーセルの陰毛や唇がどうの言うのもどうでもよくなるくらい凄い。誕生の場面か、空へガクッとズームするのがまたこれが許されるのかと驚く。受胎告知の話が「結婚」(性交のない妊娠)をめぐる、ある種の屈折した映画になっているといえるのか。あと繰り返される月を見ながら『魔法少女を忘れない』のことも今日は思い出した。あれはあれで最初のカットはどれといえるのか謎の仕様の映画だったし、ラノベ原作の三作はどれもドキュメンタリー的になりえなさそうな題材でも、バスケや自転車や季節感だったりにそうした視点は必ずあった。何気に四季の映画でもあった(ゴダール農作業しないだろとか叱られそうだが)。あとは「ガブリエル叔父さん台本と違う」も忘れてたが面白かった。シナリオとはそういう存在云々あるのだろうが『デッドドントダイ』の宇宙人なんか思い出した。

セリーヌ・シアマ『秘密の森の、その向こう』。タイトル通りといえるけど、『プティ・ママン』という題はさらにわかりやすかった。「明日へ瞬間移動だ」というセリフで消灯した直後に、明日の森のカットへジャンプするという、台詞と映ってることの直結するわかりやすさとか、やっぱ微妙というか、是枝の「生まれてきてくれてありがとう」と言わせる演出とそんな変わりない。そりゃ母子どちらも訴えかける顔はしてるが雄弁すぎないかとか……絶対に切り返しで詩的な台詞を言わせる。未来の音楽らしきものも聞こえてくる(ごめんなさい趣味じゃない)。まあ、でも多くの人の「好き」に対し、自分みたいな天の邪鬼は過剰に斜に構えて嫌いポイントを探しているかもしれない。ただ秘密基地?は無駄だった気がしなくもない。とりあえず本作を「ぐっと引き締まった」と書き、モレッティの新作を「散漫」と書く、ベテランに厳しいキネマ星取り表の研究者のことが個人的に憎たらしいから、この短くて食い足りない映画に何もそそられない。まあ、赤ん坊の人形出したりするあたり、ははあ、という感じか。

安川有果監督『よだかの片想い』を見る。他人の視線を集めたことのある人物が『ミューズ』に続き主役で、「モデル」であることを引き受けた女性が(それが男性でも同じことになるのか?)創作の元でありながら、創作過程の「現場」に関わりきれず置いていかれる(悪気はなく身体がぶつかったりする)というのも通じる。だがどちらが「映画を作る」という場なのか、という時にやはり現場以外での「恋愛≒労働」といっていいのか、この現実にどれほど何らかの創作の場の根っこにあるかどうか、まあ、ある程度は実在しても本当に影響はしていないのだと言い合うこともあるだろう関係が比重を占める? とにかくモデルとなる彼女にとって映画の企画は止められない。いや、止められるのか?(告発として)。
監督とカメラの関係はなくはない。琵琶湖にて監督が写真を見ながら「キモい」というのは彼女ではなく自分自身のことだろうが、ともかく中盤には監督が撮ったらしき彼女のブレた写真が出てくる。監督と後輩どちらもある場面で自分の責任をとれないといってもいい話し方をして相手(女性)に言い返される。ともかく事は進みだしたら止められない。事態は監督が痣のある彼女自身を主役にすれば話はもっとシンプルになるが、そうは行かない。
視線を集めた「私」と私自身の間にズレはあるのか、その「本当の私」らしきものを見てもらうことは可能か(そもそもそれは必要なのか)、つまりカメラや、誰かに見られている「私」という点から自由に振る舞えるのかという点で見れば、やはり火傷した先輩との切り返し(たしかに安川監督のこれまでの映画でベッドシーンと、あの出血と共に一番緊張感がある)の後に、あえて痣がファンデによって(おそらくある程度のレベルで)消えるというのが、「本当の私」らしきものを観客が見れるのは、やはり映画が作り物だからだという気になる。いや、それより出血のほうが重要か?それにしても自分の頭の中がぐちゃぐちゃして、まとまらない。

午前中久々に自宅にて『勝手にしやがれ』を見直した。『勝手にしやがれ』を映画館で見たことはないし、いま上映して余程の何かない限り見直さないんじゃないかという気もしたが、『勝手にしやがれ』だけは素直に好きとか面白いとか、そもそも何か言えるかわからない。凄いと思うには生まれたのが中途半端すぎたのか、ただゴダールが『勝手にしやがれ』を「ノワール程度にはリアリズムを目指したつもりが『不思議の国のアリス』になった」といったことを書籍の「映画史」で書いていたが、リアリズムかアリスか曖昧な映画たちといえば『グッバイ、クルエルワールド』も『よだかの片想い』も、それこそ大半の映画が当てはまるかもしれない。ただアリスといえばどちらかといえばリヴェットかもしれないが、『勝手にしやがれ』のベルモンドも久々に見たら、序盤ほど何なんだとムカついてくるくらい、それこそ警官殺し、いやジーン・セバーグがいなければなぜコイツが主役の映画を見てるんだとなりかけるが、まあ、このカップルは無茶苦茶いいというカップル未満でしかないかもしれないのだが、そんなところに尽きるのか。しかしジーン・セバーグって洗練そのものというか、比べるとアンナ・カリーナの映画を見直して大して気分の盛り上がらない理由はカリーナから自分の心も離れたか? 煙を吐きまくるからといって、今更「接吻といえば、喫煙といえば、『勝手にしやがれ』」とも恥ずかしくて言えないが。

安藤勇貴『優しさのすべて』蓮實重彦のコメントがあるから見た。なんとなく予想した「私達ができる優しさはこのくらい」といったニュアンスの映画。キスから始まる導入部からこっちが欲求不満なのか裸は後ろ姿くらいだが何もかもエロく見えてくる(特にダンス教室とか)。51分という時間が、これまた絡みを入れたら完全にロマンポルノか、ピンクというべきかともかく成立するに違いない。それはエロというより男女のろくでもないことやるしかなさそうな具合とか、まあ、カメラの動きが近いというか。勿論ベッドシーンが欠けているという意味ではなく、逆に見せないことで、よりこちらの欲望を高めてもいるんじゃないか。主役にしては顔が濃いと思いきや主役の彼がトイレに行ってる間に彼女を追うカメラの動きとか、路上での長回しと録音とか、素人目には何だかちゃんと凄いというか才能がありそうなと感心してしまった。特に彼女の話がたまにマジでシリアスに脱線しているのにそそられた。ただ今後どうなるのか。なんとなく、これが90分くらいの長編にそのままなると失われそうな何かがあって短編に留まった気もする。やはり『ママと娼婦』を目指すのか?(いけるのか?) ピンクも先はいよいよ厳しいだろうし。やはりキノコヤ映画?

菊川にて『フォーエヴァー・モーツァルト』を見直す。しかし展開が早い。意外にこれほど飛ばしている気がするのは『勝手にしやがれ』以来か? こうされると、映画に出てくる人物たちのなす術のない感じは強まる。これから『愛の世紀』まで長編劇映画に5年のブランクができるのを思うと(『映画史』の作業はあるけれど)この比較的とっつきやすい映画が(序盤に主要人物が集っての食卓が用意されている)なかなか厳しい時期だったのかと、そんな話を先日聞いたからか、やや乗れなくなる。そもそもゴダールが死んだから見直す自分自身がますます嫌いになってきたタイミングだったかもしれないのだが……。まあ、タイミングがないと見なくなってきたというのが、ますますリュック・ムレのあの映画みたいだが。