阪本順治『冬薔薇』、オクラ入りしかけたとしか思えないアンドロイド映画に続き、もしくはそれ以上にフラストレーションのたまる危うい映画。あと30分長くして因縁にケリをつけるか、100分のまま話の進め方を変えることも、明らかにあえてそうしない。そういえばアンドロイド映画も殺し屋映画も、話の全体像が見えるまでに映画の半分近くが過ぎていて興味深い。何より小林薫がいいとこなしのままで終わるのが凄かった。

石井隆の映画は好きだが、『死んでもいい』は好きになれず、でも『フリーズ・ミー』とか『花と蛇』とか見てないまま、石井隆の劇画も一冊も買わないままだった。だからファンとはいえないが、亡くなったと知ると、結局なにか言いたくなってしまうくらいには寂しく、最後の『GONINサーガ』でもフレッシュさのようなものが失われていなくて、新作が見たかった、いや、何か見返したほうがいいんだろうが、『ヌードの夜』といい『黒の天使』といいモノマネしたくなる椎名桔平とか(やはり『GONIN』がなければ『アウトレイジ』もないだろうか)、あとは鶴見辰吾とか伊藤洋三郎とか、『フィギュアなあなた』のワイヤーウエディングが綺麗といいつつ、『黒の天使』の葉月里緒奈のダンスとか好きだけど、それはあくまで感動というより奇妙というか唐突なものとして、でも相方の山口祥行のカタコトの日本語とセットでかわいらしく優しく記憶に残っているわけで(それ以上に天海祐希片岡礼子の『VOL.2』が好きだが)、まずは苦手な予感がして避けてきた劇画も『花と蛇』も見なければだろうが。

6/9の日記、ジョアン・ボテーリョを見た二日後に『東京公園』を見直す

国立映画アーカイブにてジョアン・ボテーリョ『リカルド・レイスの死の年』。遅れてきた人だから未見作ばかりのせいか(いや、オリヴェイラだって『繻子の靴』とか見逃したままだが)、予測できない(相当に奥深く豊かな魅力のありそうな)巨匠の一人の映画がようやく見れて嬉しい。あえて「ひたすら話して、時々女性とキスしたり手を触ったりして、そしてあの世へ行く」だけの映画と言いたくなる。真正面からではないカットバックだけで堂々と見せてくれたり、唐突にはさまれる劇中劇の動きがあるようで時間のとまったような捕り物とか、終盤になるほどペソア周りの霞のかけかたとかどうやっているんだろうか。それでもボテーリョがどんな監督なのか、これだけでは謎が多い。
『リカルド・レイスの死の年』を見てから『ユリイカ』最終日に行くか悩んでいたが、国アカで会ったとっとりさんから『七人楽隊』が上映されていると聞き、そのまま新宿へ。
『七人楽隊』はジョニー・トー参加のオムニバスとしか知らなかったが、かなり香港映画的に豪華面々の揃った映画で、珍しく抜きん出たものも、ひどいものもなく、どれもなかなか見てよかった。ツイ・ハークはふざけていたが。
そして何をやっても後悔しそうだから『ユリイカ』に行く。『七人楽隊』がどれも〇〇年とか☓年後とか出していたが、『ユリイカ』には一切なく、それだけでも見てよかった。やはり『最上のプロポーズ』の伊藤歩は、まんま国生さゆりだった。

『東京公園』を見直し、Twitterを検索して振り返り、やはり自分がいかに知人友人お会いしたことない方々に比べて、斜に構えていて遅れてしまったかと恥ずかしくなった。フィルムで見るか、デジタルで見るか、という選択があったことも思い出す。染谷将太に射す青緑のライトが変じゃないかとか、あれはフィルムで見ると悪くないとか、いやデジタルで見て変だと思うのがいいんだとか、話した覚えがある。今はパソコンの配信で見てしまった。以前ならテレビで見ていただろう。新文芸坐三浦春馬追悼上映でも見ればよかった、当時好きになれていたなら、絶対に行っただろう。当時の「これが一番好きだ」という知人の意見に反射的に否定してしまっていたが、今ならこれが一番好きかもしれないと思う。以前に見た時は海の撮り方に『ゴダール・ソシアリズム』の波だと思って、だがそれは言っても虚しくドヤってるだけだし、以前は皆そう思うことだろうから言う必要はなかった。そして今、初めて見たら連想もしない。一々反応した方が馬鹿なのか、何なのか、それだけでもどう人から思われて生きるのが醜くないのか、全然わからない。どうせ自分の文章は固有名詞の羅列に過ぎないと無視される類の文に過ぎない。エリック・ロメールについて青山真治監督の言うところの「官能的なカットバック」(と、みだりに自分が書いていいのか)が写真撮影と井川遥の追跡にて試みられているようで、あれほど偶然だか何だかわからない動きがあって、これが本当に正しい切り返すタイミングかわからないというものでもない。それなら『ユリイカ』のほうが、これが本当に正しい長さかわからないかもしれない。
ユリイカ』は見直して、これも以前から誰か言っていたことだろうけれど「戦後」といっていいのか。西部劇だって戦後と切り離せないだろう。清水宏の『明日は日本晴れ』を見たせいか、余計にそう思うが、名前を出す必要はなかったかもしれない。江角英明がいたことを忘れていた(ここでも顔がなかなかはっきり見えない)。清水宏の映画ほど、戦災孤児がいて、戦争によって何かを失った人がいて、それをかつてあった出来事として漠然と認識しているわけではない。明らかに第二次世界大戦で皆が同じように傷ついたわけではない、戦災孤児に対し酷いことをしたのも間違いないはずだ。自分が知ってる、確実に「被災者」「被害者」「加害者」というのがいるだろう事態について、積極的にかかわるわけでもなく、むしろ避けているといわれたら違いない、いまはまだ余裕ある人間にとって、映画内の出来事に過ぎないとはいえ「その後」を生きているという人たちも、まあ、身近にいたとして「そんな人はいない」と思い続けるだろう気がする。『ユリイカ』『月の砂漠』と、映画と現実(この二項で正しいか不安だ)の、官能的というよりはウンザリするような、その辺りも「予見性」とか言われる話だった。それが『東京公園』なら見つめ返されるのを避けられないし、見つめ返されたら何かせざるをえない、もしくは切り返さざるをえないカットバックといえばいいのかもしれない。『東京公園』の切り返しも官能的にはなれないかもしれないが、そんな漠然と画面ではなく主題らしきものの話ばかり思い浮かべても意味はない。
ともかく染谷将太の霊をはじめ、宇梶剛士のいう、神様に川を一本、目の前に引かれた人たちの話であり(また画面の話ができなかった)、この死と隣接した悲しさとか悔しさとか嫉妬とかふくめ、やりきれない感情をどう向けるべきかわからない人たちというのは、別に今に始まったわけでもないんだろう(その変遷をちゃんと書くには本格的に見直さなければいけない)。どうすればいいかわからない感情というのは、小西真奈美がカメラを向けられた時の、初見では「怯え」のようだったが、いま見ると確かに怒りというか、やはり「どうしろというのか」と(困惑ではない)溢れ出るものであり、そこにカメラの暴力性というのは避けられなくよぎってしまうことだが、それが自然なものではないというのが(官能的な偶然ではないというのが)かえって非常に重要な引き出しだったんじゃないか。二人が抱擁し、そしてキスしないのかと思いきや、口づけを交わす(これを「官能的」と本来言うべきかもしれないが)。井川遥に気づかない三浦春馬らしく、やはり愛の成就とは別の感情のやり場のなさ(これは「ケジメ」なのか、その反対か?)が相応しい。「姉さん」とそれでも呼ぶことから『ユリイカ』海老根剛氏のインタビューでも指摘されていた「ニュアンス」の豊かさが、さらに激しいものになる。これは堀禎一監督が小津映画を「情熱的」と中央評論に書いたことと無縁ではないかもしれない。男二人と女二人の『妄想少女オタク系』での切り返しのようなものが『東京公園』にもあった。
またやり場のない感情というか、終わった愛というか、生き残るというか、残された側のもとにはドライヤーの『ヴァンパイア』のDVDがあって(紀伊国屋書店の『吸血鬼』ではない)、そこに霊はいて天井から涙を落してくれたとして、神がいるかはわからない。『金魚姫』『空に住む』と、もう作家自身が「生きながらえた」感覚と言っていいのか、生と死はゴダールトリュフォーじゃないがますます入れ替え可能に思えるが故に、一層残された側の死への意識は強くなる(それを老いた作家の「死の匂い」とは言わない)。それに世の中は物騒だ。斎藤陽一郎の追悼文にあるように、かつてのプライベートでの友人たちの死や精神的な病という出来事があったとして、それを一観客が想像していいものでもないだろうが、監督本人のことというと日記の印象もあって、実際に作家自身の健康状態というのは結び付けたくなってしまうが、それにもおそらく限度がある。それでも『シネコン!』にてデ・パルマを、プライベートに何かあったんじゃないかというのがわかりやすい作家の一人としていたり、『ゼイリブ』のカーペンターにも、プライベートで何かあったんじゃないかと思いたくなる、と話している。しかし自分の文章には青山真治監督から読まれるかもしれないという、見つめ返されるかもしれないという緊張感は、どうあっても出てこない。『わが胸に凶器あり』のペキンパー映画での編集のように光石研菅田俊に撃たれたような、すでに相棒の死の際に、誰が撃ったのか相手が捻じれ、そもそも別の場所にいた菅田俊の動向がカットインされ始めた時点で、光石研の死が予感されていたかもしれないという、いずれにせよ「深淵」とか「真理」とまでは思わないが、映画にはこういうことができると思う。『東京公園』では染谷将太が消えたり瞬間移動したりしていたが、『金魚姫』の草笛光子のように(『エンバーミング』に絡む鈴木清順か、実はストローブ=ユイレも元なのか?)予測できないタイミングでのクロースアップへのポン寄りによって、その人物が死と切り離せないというか、映画が霊や死をよぎらせるものと意識させるのは、いつからなのか。
ユリイカ』が長回しとコンティニュイティの映画として(いや、宮崎あおいの切り返しや、ジム・オルークと海のソニマージュに「海が見える」とかあるが)、『東京公園』もカットバックというか、それが残された側や、終わってしまった愛の話になる(そう書くと小津や堀禎一監督のことになってしまいそうな)ほど、どんな画だったかの記憶が曖昧になり、だからといって心が離れたわけではなく、むしろその逆だ。映画館で見直すべきだったかもしれないが、この画に集中するというよりも、その時間を一気に過ごしているという感覚が大事になる。それは『ユリイカ』なら使命感にも近いが(そして非常に大切なものだ)、『空に住む』の時には主役がむしろ榮倉奈々に近い多部未華子になって、三浦春馬もいない中、ますますその時間は避けられなくなっている。『東京公園』の最後、三浦春馬と誰が一緒にIKEAにいたかさえ忘れていた。小西真奈美だったと思い込んでさえいた。最後に公園の子供たちの声と店内が被さる終わりの、これまた誰かと誰かが結ばれたようで、全然そうではなかった。『ユリイカ』のラストもよくわからないといえば、どう終わらせるべきたったのかわからないのだが、『東京公園』のケジメというか終わりは一層ざわついてくる。

アテネ・フランセにてワイズマン『インディアナ州モンロヴィア』。ワイズマン史上、最も微妙な評判の一本をついに見たが、既に自分の感想か人の感想の受け売りかわからないが、なるほど、なんともしんどいような、興味深くはあるが。ワイズマンのシニカルさも、ここではトランプ当選の余波として愛のない目で、先のない社会として荒野を見るような一本。ここにワイズマンの愛してない者たちへのこれまでの底意地悪く見せる辛辣なユーモアより、ただただ興味のなさが上回る。『シナイ半島監視団』の靴酒飲みの奇怪さや、『ミサイル』の何だかんだバディ物としての魅力や、『軍事演習』や『基礎訓練』のキューブリックなんか目じゃないユーモアや、『高校Ⅱ』の小学生たちの『我輩はカモである』のファイヤフライ的な身も蓋のなさもない。フリーメイソンに『エッセネ派』、冒頭の牛に『食肉』、犬の手術に『動物園』『霊長類』の虐待にしか見えない痛さはあっても縮小再生産のようで、そしてお馴染みの教会の説教も、それが事実なんだとして全く聞くのが辛いほど父権的かつ死者と関係なし。たしかにベケット的に同じことを繰り返すのが組織だとして、あの会議も明ら様に停滞しすぎて、まあ、わかりやすいといえばわかりやすいのだが、やはりそれは組織そのものの動きの鈍さとしてより、このモンロヴィアに向けられる醜さが上回る。それは近作のリベラルさとわかりやすく対になりすぎて構成上の魅力につながらない(と知り合いは言っていた)。だからエアロビが出てきたり、あの微妙な太った、大柄な白人だらけの世界にザイドル的な醜さ、停滞感が強い気がして、このシニカルさはワイズマンに求めていない、と誰もが思うに違いないでしょうという。ただオークションの早口や、車の変形とか、腐っても興味深くはあり、そんじょそこらのドキュメンタリーよりは作業の魅力もある。

『冬薔薇』を見てから出勤するつもりが、雨とか、連日の飲めないくせに飲んだ酒とか、酒や努力嫌いの怠けた僻み癖に負けて周囲の人を不快にさせた気分に負けて、自宅にて青山真治監督の『最上のプロポーズ』(2013)。BEETVをどうやって見たらいいのかよくわからなかったりしているうちに漠然と忘れてしまっていたが……。第一話『スノウドロップ』向井理升毅の掛け合いから楽し気に始まって、伊藤歩の不思議な花屋さんへ斎藤工が辿り着くまで、ありきたりな結ばれるまでの話にトントン拍子に引き込んでくれるんだろうと惚れ惚れする。だが伊藤歩斎藤工へ、花を贈りたい相手の美波について尋ねた途端、斎藤工が知らないはずの美波の学生時代を演じる平祐奈の顔が挟まれて、これは誰の主観としての映像なのか、そもそも映像は主観ではないということか?という謎が引き金になって、一気に映画に影のようなものを与える。終盤の斎藤工は無断欠勤までして何日あそこで待っていたのか?という話のおかしささえ、それが映画の面白さだと感じる。久々の雪はCGが混じっていて、そこだけ残念だが。第二話『アイリス』の一気に庶民的な定食屋のおじさんたちに混じって、金子ノブアキってこんな面白かったのかと知らなかった(というか、こうした伝統ある科学者のキャラがうまく嵌れば誰でも愛すべき人になるのか?)。お茶の間の人くらいの認識のムロツヨシもいい奴で非常に良い話を(自分のような怠け者が真面目に聞かなければいけない話を)する。終盤のホームの向かいの入山法子へのプロポーズも、あえて45度の入山の顔のカットの次が金子ではなく入山の正面へ繋ぎ、それから金子ノブアキは90度の横顔から撮られるという角度の変わるカットバックが入山目線の金子のカットだけは無くて、金子が入山へ向かってやってくることだけはない、入山が姿を一度は消すしかないと告げているのかもしれない。やはりこういう唐突というか普通じゃなさがボンヤリとは見ていられない。第三話『ブルーローズ』、いつもこの世にあると思えない不気味な青いバラだが、『犬小屋のゾンビ』や、後の『金魚姫』や、結局イメフォでも下高井戸でも見逃したままのドライヤー『奇跡』についての青山監督の、そこにヨハンネスが力を持っているということより少女と手を繋いでいることのほうが奇跡を呼び起こしている、といった指摘のことを思い出す。ここでは奇跡が起きなかったというべきか(ついでに『金魚姫』にて実現される水中シーンも、起こりそうで起こらない)。浅草デートがいい。第四話『ウェディングベール』にて、これまで観察に徹していただけの向井理が、悩める男のような、ひどくヤバい人のような、つまり人としてどうかと思われるかどうかの危ういラインを行き来する。伊藤歩も、ご多分に漏れず、周囲に不思議な力の持ち主と期待される人に相応しい不幸せな生きにくさを見せる。『エリエリ~』でも見たような水晶という球体の光も、まがい物だとしても価値がある。50万円しようが金魚鉢だろうが光があるのに変わりはない。通して一気に見たのは勿体ないかもわからないが、『東京公園』に近い話の進め方だと思えば間違ってないのかもわからないが、とにかく繰り返しこれも見なければと思う。

そろそろ我慢できず旧作を見直さないまま『トップガン マーヴェリック』。初っ端からどーなっちゃうのと、まさかタイムスリップして死んだ友人を救うとか?(バカな!)と思いきや、久々に実験して煤まみれになるギャグを見るとは予想しなかった。「考えるな、感じろ」ならぬ「ジャスト・ドゥ・イット」がファイト一発な感じで、なんだかんだ旋回して戻ってきた所から泣かせるし俄然盛り上がる。読書人に続き、これってウェルマン本格的に見るタイミングなのかもしれないが、ともかく前作について漠然とした記憶どころか、これは見てなくても別に無問題じゃないかと思う。照準がわかりやすい!顔がわかりやすい!腕立て伏せ!ルートがわかりやすい!驚くほど混乱しなかったし、いろんな空軍モノを見直す必要は感じた。それをヨシとしていいかはわからないが、とにかくさすがの出来だと思う。しっかしいつの話なんだろうか。何が問題か凄くわかりやすかったからトム様おろされたら生還できんだろとざわつく教室に共感(そんな上官もトム様の現役っぷりに、夜の雨降る窓を見ながら動揺を隠せない顔が露わに)。トム様の終盤の予想以上のイーサン・ハント化に(やはり走る)、過去のわだかまりも一気に吹っ飛んでツッコミ役というか相棒度合がグンと増して、なんといっても飛行機には機関銃。荻野洋一さんがいうところの「問わずがたり」っぷりも(イーストウッドの誕生日に見てしまった)、SMSのやり取りが意外に良い石井隆根津甚八のようなヴァル・キルマーも、前作の女優2名の不在も、デヴィット・ボウイも、ビーチバレーも、まあ、いろいろあるけどほとんど同じ感想しか言えないが。あとは『さらばあぶない刑事』がよかった村川透に、織田裕二と『ベストガイ』のリメイクをやらせてみるしかないとか……いや、そんなジジ臭いことをしてる場合じゃないが。

東京国際映画祭の朝一の回を夜勤明けに行って爆睡したホン・サンスの『あなた自身とあなたのこと』(2016)が配信されていたので見る。自宅だから様々な邪魔が入り、ちゃんとしたコンディションで見れたか自信はないが、一つ前の『正しい日 間違えた日』(2015)と同じく怒涛の(というべきかわからないが)感動の連続が待っている傑作だった。こんな傑作の上映中に寝てしまうなんて、本当にもったいないことをした。『正しい日~』があのキム・ミニ主演作だが、こちらのイ・ユヨンのほうが終盤になるほど、彼女の足が浸かる水や、その背後の草と同じくらい魅力的だったが、この種の一瞬一瞬の輝きをキム・ミニ以降も追うことを撮る愉しみにしているのは間違いないのだが。昼間から酒を飲むことは、白い酒を飲むことは、水や草と同じレベルに風を、あらゆる事象を受け止めて変化する自然の一つに化すこと……とかいうのは、それはそれでありきたりだが、そんなありきたりのことが堂々と繰り広げられる。酔っぱらい映画としても記憶喪失の映画としても『街の灯』『脱出』『ヌーベルヴァーグ』に連なる傑作に違いない。イ・ユヨン、いやこの映画通り、もう名前で呼ぶのはやめてしまいましょうか……。「酒を飲むなと言ったのがよくなかった」「わたしのすべてを受け止められますか」「敬語を使ってください」実はホン・サンスの役者の顔と名前が、漠然と見たことあるようで、いまだにだいたい一致しないのだが、それも作家性なのか、僕がいい加減なだけか。

www.jaiho.jp

トップガン』は我慢し(やはり見直したほうがいい?)、吉祥寺にて『WVlog:personal』、新宿にて『MADE IN YAMATO』を見る。
『WVlog』過去作見ているからか斎藤英理『またね/see you again』は映像ではなく驚いた。割れたスマホから聞こえる留守番電話と、封筒に入った手紙かと思いきやInstagramにかつて投稿された文と、カラー写真いくつか。質のよくない印刷がむしろ映像作品でのノイズが宿るほか、留守電を聞くために床にひざまずく自分の身体のことも妙に意識させられる。実際の留守電により物語の構築されていく手段にジャン=クロード・ルソーの『閉ざされた谷』がよぎって(いや、もっと気の利いた名前を思い出したいが、何分ウンチクがないから……)あちらは恋文だが、こちらは急な引っ越し、生徒手帳の紛失、親戚が送り先を間違えたメロン、そして父の声。留守電特有の要件を伝える調子から、親族の声(その父と祖母の声の違いに国境を意識すべきか?)、それらは7年前のものであり、手紙にされたInstagramの文面が7年の時間による変化らしきものを示す。

www.ongoing.jp

『MADE IN YAMATO』。山本英監督編の撮影だかピクニックだか謎の公園での時間が思ったよりあっさり〇〇さんが消えて終わり(やはり立場の交換と消失がテーマになる)、久々の冨永昌敬監督編のこれまた一気に終わる密度の短編に続き、三話目の竹内里紗監督編から一転して時間が延びていき驚く。この長さに匹敵するような、ウェブの海老根剛氏の評が読めてよかった。同時に、改めて自分は映画と向き合うように見ることはできないし、できる気がしなくなった。心がボンヤリ離れてる。『トップガン』にもすぐに駆けつける気になれないまま。別に映画への興味が失せているわけではなく。そりゃもっと普通に面白い映画が過去にあるに違いなく、それでも何か今後に賭ける気になれなきゃ駄目なんだろう。別に名画座通いがしたいわけではない。大した根拠もなく酒を飲めば気弱さ意気地のなさをごまかすようなことをネットでやらかし、他の誰かが良いと明らかに言わないようなものを自分がどれほど言ったり見たりする気になれるのかわからない。宮崎大祐監督編も意外に?なまま一気に終わって、清原惟監督編はやはり近寄り難さこそ印象に残る。

www.korpus.org

夜は『トップガン』を我慢し『TOKYO EYES』を北千住ブルースタジオへ見に行く。別に物心ついた頃に見たとか大した思い出があるわけでもないが、たしかにこれが生涯のベストの一本とか選びたくなるかもしれない。だが見直すと別に傑作とか完璧とか、そういうわけでもない。本当はここで語られている「やぶにらみ」とか、なぜ武田真治があんなことを日々やっているのかとか、しかも思い返すと大して痛快でも何でもなく中途半端じゃないかと、これにははっきり言ってモヤモヤするが、彼自身がこのお仕置き?を「ワクチン」と呼ぶのが(別に自分は反ワクチンでもないが)、最も古びていないかもしれない。そういう主題について考えるべきなのかもしれない。でもこれほど主題を追う気が失せて、ただ吉川ひなの武田真治を見ているだけでいい、というのもありきたりな感想だが。初見では何かしらのセンスにグッときた気もするが、もはや吉川ひなの武田真治、しかもそれは二人の魅力という以上に、あくまでこの時の、この男女に賭けているような刹那的な感じというか、ひょっとしたらこれ以上に生々しく感動的な選択肢もあったかもしれないが、だがこれでよかったと関係者でも何でもない癖に感動してしまう。吉川ひなのの「びんぼっちゃまくん」とかどうやって出てきた言葉なのかわからないが、そのとらえどころのない危うい一挙手一投足一声全部が愛しい。その愛しさが、たとえば当時好きだった人を見る感じとは全くの別物なのが、またいい。徹頭徹尾記憶ではない。ついでに杉本哲太はどれもたいてい何となく良いなあとか、大杉漣がもういないのが信じられないとか。杉本哲太水島かおり吉川ひなのを愛しているのだろうが、武田真治も当然吉川ひなのを愛しているのだろうが、この愛が結局何なのかを徹底して宙づりにするのも、ありきたりな話だが「日本的」なことなのか、それともこの宙づり状態が新たな可能性なんだろうか。別世界のようで(『ヤングヤクザ』ばりにイカつい漢だらけの場所は何だったのか怖い)、むしろここで映されているよりも停滞もしくは退行している東京は何なんだろうか、そしてなぜ東京が選ばれたんだろうかとか、本当は問わずに答えを自分で出すべきかもしれない。でもその答えを出すのが正解ではなく、それらは『TOKYO EYES』が作られるまでの足跡であって、あくまで『TOKYO EYES』という映画があるからそれでいいという気もする。不思議と最後の再会を経ても泣かせるドラマがあるわけでもない(リモザンなら『NOVO』の『晩菊』に捧げるラストのほうが忘れられない)。赤と白の縞々の壁を背景に歩く吉川ひなのに射す陽の光が何よりも残る。正しい見方か、そこに自分がテレビで吉川ひなのを見ながら何の関心もなく、武田真治は何となく好きだが何ともわからない日本人であることが関係しているかもしれないが、どういう見方をすべきかわからないが、映画とは物語を追うものでもなく、不思議なものだと何度でも感動させてくれるだろう。
ここでの「目」の話に『MADE IN YAMATO』がよぎり、人の目を見ることが、その目が何を見ているかではなく結局は、滅多にじっと見つめられない誰かの目の動きを見ていられるという胸の高鳴りが勝るといえばいいのか。そういえばアテネ・フランセ青山真治監督も登壇したベッケル『快盗ルパン』シンポジウムの一人はリモザンだった。意識していないだろうというより、意識していようがいまいが関係なく、『TOKYO EYES』のやぶにらみのレンズと、あの最後のルパンの目か、手つきか、彼女の気づく時と妙に近い瞬間に思えてきた。武田真治か吹き替えかゲームのプレイする手や、画面外の自転車がガタンと倒れる音とか、さすがに銃声に気づいた違う階からの物音を聞いて、ゲームの映像を再生させて誤魔化すところとか、そんな画面内外の出し入れも記憶に残った。

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「キノコジン」VOL.01寄稿しました

 
 
 
 
 
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上映企画でもお世話になりましたキノコヤさんの3周年記念ZINE「キノコジン」に、大変ありがたいことにお誘いいただき寄稿しました。赤坂太輔さんによる近年の映画の労働問題にもかかわる『力関係に対抗する映画へ』、草野なつかさんの「ことばと」5号掲載『丘の船着き場』に続く小説『鳥の鳴きまねをしてみせる』、コルタサル山椒魚』の一節から始まるウーパールーパーをめぐる新谷和輝さんの感動的な『リオ・グランデの夢』ほか、キノコヤに一度も行ったことない人でも楽しめる内容だと思います(自分は相変わらず焦点のはっきりしない内容を書いてしまい恥ずかしいです)。

キノコジン執筆者一覧



6/4~ 池袋シネマロサにて『ある惑星の散文』(監督:深田隆之)上映

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6/4~ 池袋シネマロサにて『ある惑星の散文』(監督:深田隆之)上映されます。以前に「海に浮かぶ映画館」にて上映された際、見た時の感想を貼り付けました。船上にて上映したい映画とはこういうことか、と何となくわかった気になりながら書いた覚えがあります。地上の映画館ではまだ見たことがないため、見直せるのが楽しみです。