近しい人が感謝を語り、またはあえて特に語らず、そんな中で観客として井川耕一郎氏の死は呆気なさ過ぎて、あまりに寂しい。シネマテーク・フランセーズのサイトで(別に今かかっている作品を貶すわけではないが)『たからぶね』も『ついのすみか』も『西みがき』も入っていておかしくない。そういう驚きの広がりを聞けなかったのが悲しい。現実の喪失感を捉えた作家たちのことを否定するつもりはないが、やはり「あの世」(大和屋竺を指して言うなら、あちら側、向こう側?)について触れるものとしての映画への興味が共有されていた作家たちの一人に違いない。映画から生まれたような人たち、自分が追い付けない考えの作家が一人いなくなってしまったのは、いよいよ映画が面白くなくなる段階に感じて、不安になる。聞き手や書き手である以上に、ある想像力の持ち主が一人消えてしまったような。
映芸の井川耕一郎氏のベストテンならぬ今年の一本みたいな評が好きで、自分が最初に映芸を面白いと思ったページだった。『西みがき』の掃除機のコードで幽霊になった弟の首を絞めるシーンの泣かせる悦楽感は忘れがたいが、なぜか終盤を思い出せない。あまりにとりとめないのか、その実どうなのか、見直したい。大工原正樹監督が、井川耕一郎は30分に収まるはずのページ数で50分以上の映画を撮らせてしまう作家と語っていた覚えがある。井川耕一郎の語る伊藤大輔に引きずられ、自分の眼で伊藤大輔を見れた気はしないが、高橋洋氏がたしかベストテンで書いた話だと、やはり井川耕一郎と伊藤大輔が一致しないから面白いらしい。『たからぶね』を見直してから何か書くべきかもしれないが、渡辺護の遺作『喪服の未亡人』は井川耕一郎監督作のようだった。既に亡くなっていて映画や資料から入る伊藤大輔に対して、ドキュメンタリーにて渡辺護が自ら演じてみせる厳しい姿が見れたが、あの芝居をしてるという生々しい(渡辺護が井川耕一郎の脚本を演じている)姿こそ井川耕一郎監督作の魅力だと思う。ウイルス並に芝居は変異を繰り返す。『たからぶね』は渡辺護でも、これまで自分が見てきた井川耕一郎監督作でもなく、立派に普通の映画として、見ていて幸せだった。大工原正樹監督の映画は一時期井川耕一郎氏の合作のようだったが、今は違う。ヒロポン期のマキノを見ながら井川耕一郎ならどう語るかと思った。いずれ然るべき人から追悼文や批評は出るだろうけど、勢いで書いてしまった。

ラピュタにて五所平之助の落ち穂拾い『雲がちぎれる時』UAの歌を思い出すタイトルだが、やはりドキュメンタリーのように始まり、人形劇のようになり、そしてトンデモと言われそうで、実に丁寧に悲しい結末をたどる。倍賞千恵子薬師丸ひろ子のようにややふっくらした顔で、最も感情を露にするだろう時を省かれて、それでも忘れがたい余韻を残す。タイトルにやはり糸らしき線が引かれ、『面影』と同じく転落する男がいる。トンネル開通まで危うい峠を渡ってきたバス運転手に『コンドル』の散っていった男たちが重なる。これまで見た映画の中で最もバス運転手に尊厳を与えた映画かもしれない。それはたしかに『秀子の車掌さん』や『ありがとうさん』の運転手と違う。またはジョセフ・ロージーの映画に出てくる人形のように憐れな男たちもよぎる。佐田啓二は運転手でありながら、何か操られる側でもある。

 

かつての映画美学校での地下上映みたいなものと期待したが、しかしあれほどワクワクできず行くかどうか新橋駅に着いても悩んだが、tcc試写室でのフライシャー上映会にて『10番街の殺人』。カツカツなのか見る前に財布と時間と相談ばかりで傍から見ると卑しん坊でしかないのかもしれないが、見に行ったら行ったで世間では暇人扱いか。電車の音が映画だけでなく外からも微妙に聞こえていたのかわからないシネパトススタイルだが、さすがにあれほど気にならず。
しかしこれはどこでもしっかり見れてしまう映画かもしれない。でも自宅で見るよりヘビーに感じる。なのに疲れるわけでもない。妻子を殺された上に冤罪で死刑という誰もがああはなりたくない最期をジョン・ハートが迎えるまで見ているだけで大半の時間が過ぎていく。テンポさえ悟らせない。警察とマンホールの件なんかサイレント映画のリズムのようで、むしろ回りくどいが、要らないとはとても言えない。眠れない夜のような、昼間にカーテンを閉めて、夜勤前に寝ようと耐えるような時間が過ぎていく。にしてもジョン・ハート一家引越し前の服装が意外とフライシャーらしくカラフルなのが、さらに後の展開を思うとキツい。
普段から虚言癖とも見栄ともとれる「感じは悪くないが有罪が相当」な男、自分のせいで近しい誰かを死なせたと自暴自棄になるジョン・ハートと自らを重ねられるのか? コンロに二回火をつけて、その間に自らの生い立ちを弁解するような彼の姿が見ていて、なんと言えばいいのか、忘れがたい。彼だけでなくアッテンボローの妻も自分たちに近い状況に思えてくる。全てを見てるのか、見て見ぬ振りなのか、一応は察してるのか出ていこうとするが……。アッテンボローの具合に目のいく判事も、それに流される陪審員も近いのだろうが。戦争は終わらず、安アパートに場所を変えて継続しているのか。殺されると言わんばかりの主観ショットからはすぐに省略せず(今日初めて言葉を覚えたようにママーと母を求める子どもの声を聞くのはクリスティーという残酷さ)、それでも本当に殺した瞬間は省かれている。だが省略とは何なのか。そこに何があって省いたといえるのか。人生で殺しの現場を本当に見て、なおかつこの映画を見たことある人間はいるのか? そのレベルの境界線に触れそうで、しかし「たかが映画」か?

 

【告知】12月21日(火)-26日(日)茶会記PLAY-ACT vol.11 プログラムE『鈴木史特集上映/順応』

sakaiki-play-act-11.studio.site

 

今月12月21日(火)-26日(日)開催『茶会記PLAY-ACT vol.11』(ただし会場は四谷の茶会記の移転にともない、池袋の東京芸術劇場アトリエウエスト)のプログラムEにて鈴木史さんの作品を上映します。WEB内の企画紹介文と22日(水)19:30~登壇回の聞き手を担当します(各作品解説・あらすじ・プロフィールは鈴木さんご本人によるものです)。当日券無し、予約のみです。
『茶会記PLAY-ACT vol.11』は大学時代からお世話になっている上田晃之さん主催の上演イベントです。昨年末は自作を上映させていただいてきました。僕から持ち込んだ企画なのですが、ほぼ上田さんに任せきりで非常に頼りない発案者で申し訳ないです。
まだオミクロン株流行の可能性など予断を許さない状況ですが、無事の開催を僕も楽しみにしています。
個人的には上田真之さん、木下亮さんの新作を見たいです。

 

 

◾️チケット料金
一般予約 1500円
※会場内の人数制限を行うため予約のみ

 


◾️チケット予約フォーム

茶会記PLAY-ACT vol.11 予約フォーム

 

 


【茶会記PLAY-ACT vol.11 
「茶会記PLAY-ACT」は、演劇、ダンス、映画、音楽、文学、美術などをボーダーレスに発表する総合芸術企画です。第11回目の今回は、美術作品を展示した空間に、演劇、ダンス、映画、パフォーマンス作品などをジャンル複合のオムニバス上演します。
第10回目まで開催されてきた四谷の茶会記の移転にともない、東京の舞台芸術の中心地において夜の質感を展開します。】(WEBより転載)

 

 


(以下プログラムEの内容のみ転載)

 


●E 鈴木史特集上映/順応

鈴木史(すずき ふみ / Fumi Suzuki)
映画監督・美術家。宮城県塩竈市出身。映画美学校フィクションコース修了後、映画美術スタッフとしての活動を経て、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域修了。現在は、映画の制作だけでなく、インスタレーション作品も発表しており、映画と美術のフィールドを横断しながら活動。映画評の執筆も行なっている。

 


eclipse』(2014-2017/HD/16:9/55min/stereo)
あらすじ
ひとりの男が公園で目を覚ます。彼は家に帰るが、同棲している女とはどうも不和が生じているらしい。 彼女たちの家には「声」がひしめいている。ある日、女は自分の分身を見る。一方、男はある夜、月蝕 に遭遇する。するとそこに、第二の男が姿を現わし……。
解説
撮影はシナリオを用いずに行われ、朝にスタッフとキャストが集まると、午前中は、その日何を撮るかのディスカッション。午後に撮影が行われ、その後、自分たちが撮ったシーンの前後にどのようなシーンを加えていくかが討議される。その繰り返しで、長期間にわたる撮影が行われた実験的な作品。俳優へのインタビュ ーなど、ドキュメンタリー的な要素が含まれている。

 

『東は東、西は西』(2017/HD/16:9/15min/stereo)
あらすじ
部屋にいる二人の男女。酒を飲みながら、男の幼少期の写真を見ている。写真は一枚一枚めくられ、 徐々に過去に遡っていく。女は、ふとあることを思い出す……。
解説
ワンシーン、ワンシチュエーションで撮られた会話劇。劇中使用されている写真は、実際に俳優の幼少期の写真で、監督の鈴木は、この写真についての記憶を俳優から聞き取り、その会話をシナリオに仕立てた。

 

『未来への抗議』(2021/HD/16:9/10min)
解説
日常の光景を切り取った日記映画のかたちを取りつつも、同時にわたし自身の独白がテクストで重なり、個人的な事柄を扱いながら、あらゆるものへの抗議の意思を込めた、一種のシネトラクトである。
映像とテクスト、あるいはテクストとテクストが、ときに混じり合い、ときに衝突し、わたし自信が日々生きるなかで感じる、引き裂かれた感情そのもののような映画になった。
愛、恐怖、嫉み、反撥、身体、そして花についての映画。

 

[各回の上映作品]
12/22(水)19:30の回/『eclipse』『東は東、西は西』『未来への抗議』※
12/23(木)14:30の回/『eclipse』※
12/24(金) 14:30の回/『eclipse』『未来への抗議』※
12/24(金) 19:30の回/『東は東、西は西』『未来への抗議』
12/26(日) 13:30の回/『未来への抗議』
※鈴木史監督の挨拶あり(12/22は中山洋孝とのトーク

 

 2020年11月19~23日の『我々は地球が嫌いだ。家に帰りたい』という展示は名古屋駅付近の会場INSITU(住所非公開)まで行く時間をとれず、いや、コロナを恐れて移動する気になれず、パンフレットを読んだだけだ。鈴木史さんのインスタレーションに関するステイトメントは明確だ。女性の全身脱毛、「捕らえられた宇宙人」にされた猿、精神科病院の金髪のカツラ、その三点がタイトルと共に、見られなかった展示を想像させる(その映像の一部らしきものを『未来への抗議』に見ることができる)。いや、想像で済ませていいのか? 作品は開かれている。後は扉をノックするだけだった。
 展示と異なり、鑑賞中の移動の自由は制限され、映画を見るのが息苦しくなることはある。もちろん常にではないが、何らかの調子が狂って、映画を見るコンディションではないのだろう。客席がパイプ椅子だったり、背もたれがなかったり、両隣の間隔が狭かったり、外の工事の音が聞こえてきたり、スクリーン横の時計が視界に入ったり、うまく冷暖房が機能していなかったり、贅沢を言っているだけかもしれないが整っていない環境での映画鑑賞は苦痛である。
 映画の上映、現代美術(インスタレーション)の展示、そのどちらも経験した作家にとって、このギャラリーでの特集は相応しい環境によるものか。観客が映画を見終わるまでわからないということにしたい。これから一体どのようなものを見せられるかわからないと感じた人にとって、この暗闇での鑑賞は期待より不安が上回ってしまうのか。
 おそらく真っすぐ前方を見続けるような体験にはならない。実際は集中できていたとしても、あるタイミングでうつむき、目線をそらしていた気にさせる。それはショッキングな画によるものではない。果たして本当に見たものかはわからない死者の目を語る人物の声は聞こえてくる。それも耳を塞ぎたくなるような話ではない。ただ映画が見せないように、こちらも多くを想像してはいけない予感がする。
 主観ショットがスクリーンに投影される時、観客とカメラの目は一致するのか。その映像を見ている身体は消えたのか、他ならない自分自身と化しているのか。誰かの問いかけに対して自分の記憶を語り出す、私の目の前に映っている人物は誰なのか。そこから目をそらすことはできるのか。突然目の前が真っ暗になって、もしくは一転して画面が白くなり眩い光となって、その目くらましは映画が仕掛けてきているものだとして、映画と観客の距離は変化するのか。だが目線をスクリーンに集中できない時、インスタレーションと映画の合間の奇妙な思考の自由が、観客には与えられている。(中山洋孝)

シネマヴェーラのオルガスムセレクションにて加藤彰『のけぞる女』。『エターナルズ』や『デューン』や『最後の決闘裁判』の半分の時間しかなく、映画そのものも半分程度の時間に相応しいが、『マリグナント』より凄い映画(適当な感想を書いて後悔している)。なんだか映画の良し悪しがもうわからないので、『マリグナント』も『リスペクト』も良い映画だかよくわからないが、『のけぞる女』は凄い。本当に何一つ無駄のない映画というのがあったとして、そんなもの広報みたいな有害なものでしかないだろうが、これは何だろうか。ただ逃げるだけではない。別にのけぞるわけでもない。空虚さとも違う。呆気なく捕まるから『逃げ去る女』でもない(しかし印象的な映画内映画のシーンは出てくる)。退屈しないわけでもなく面白いと即答するわけでもなく、ただ答えに窮することなく、答えがそもそもない。通りすがりを出歯亀するだけの映画でもない。掘り下げないわけでもないが、掘り下げられた感じもしない。活劇?うーん。
こうしてセレクションしてもらって、怠け者だから大いに助かる。
加藤彰について『野球狂の詩』『恋狂い』を見て嫌いじゃないとか『濡れた札束』覚えてないとか、相変わらず中途半端な映画への不勉強さからよくない観客のままだが、浮遊感だけはビシビシ感じる。

相次ぐ絶賛を目にしてジェームズ・ワン『マリグナント 狂暴な悪夢』をみた。狂暴な悪夢としか言いようがない。ロメロ、アルジェント、デ・パルマ(何気に40年生まれトリオ)の詰め合わせというか、クローネンバーグもカーペンターも合わせて音楽もどっか聞いたことあるけど何か違う曲へ変わるフェイクというかドライブがクセになる。もしくは『孤島の鬼』や『神の左手、悪魔の右手』か? ほぼホラーでもサスペンスでもない。別物の何か。狂暴映画。男の暴力が引き金であるというのは避けられない認識であり、そのラインのおかげなのか出鱈目さや行き当たりばったりな印象はない。妙な安心感。しかも迷いがない。どの写真を見ても常に惹かれるところのない顔をした監督(サム・ライミのほうがいい)だけに、迷いなきニセモノ、かつ映画そのものの貫禄に圧倒された。バトンは手渡されたというやつか? 凄い映画。

gojogojo.com

『老後の資金がありません!』見る気になれない映画の一本だったけど、読んだら気になって早速見た。最後はCMっぽいとか、字幕が多いとか(さすがにデカいテレビでお年寄りたちとテレビを見ながら笑ってるような体験)、うやむやもやもやすることはいろいろあるけど、面白かった。松重豊のリアクションが一々面白くて、特に妹の若村麻由美を怒らせて(大半は何だか単に感じ悪いのだが急に面白くなる)、奥さんの天海祐希も泣き出して、そこでの態度が何とも情けないのだが目が離せない。草笛光子が良すぎて何の映画だかよくわからなくなりかけるが、毒蝮三太夫との一人二役の絡みは一番笑ったから、二人の共演はもっとスローじゃなく見たかった。ついでに哀川翔もモニターでの胡散臭い病み上がりの感じと、ちゃんと映画の照明を当てられての松重豊と並んでの激シブなカッコよさもよかった。自分の老後と同じくらい東映の資金も心配だが、生前葬を見ながら、映画は技術や、老いて味のある役者や、元松竹歌劇団や元宝塚の記録にもなるから作られて良かったんじゃないかとは思う。

 

ノマドランド』も長かったが『エターナルズ』は冗談抜きで永遠に終わらないんじゃないかと嫌になるほど長かった。『ノマドランド』とほぼ同じ感覚でマーベル映画が撮れるのかと感心したが。それにしても旅したりフラッシュバックしたりシンミリしたり、とにかく行ったり来たり断片的に続く上に目指す地点も恐ろしく遠そうで体感時間が長くて、ユルいジョークを交わして一応笑える割に一大事だが、そんな配慮はしても映画なんて長々見るもんじゃない、しんどい。最近『フライングハイ』を見直したせいか、神々(実はノマドロボット)の数世紀レベルでの果てしない回想とか、恋人同士の振り返りが先住民との交流とかバカなんじゃないかと失笑しかける。

 

万田邦敏『愛のまなざしを』または覚えきれない序文を経て『〜愛のまなざしを』。または『略称・愛のまなざしを』『愛のまなざしを(仮)』? パンフレット掲載の評、対談、少なくとも三宅唱濱口竜介、須藤健太郎の言葉にあるように、二回見る、見返すことで変貌するらしい映画。だからまだ見た気がしないし、見直すかわからないから、もうずっと見た気がしないままかもしれない。この解かれたかわからないループこそ幽霊映画に相応しいフォーマットなのか。しかし全部嘘だったとわかって、なんであんなに癒やされてしまうのか。なぜ息子の出番が消えてしまうのか(というか、あの嘘から息子は映画に出てきてないんじゃないかと思い返すとゾッとする)。

 

穐山茉由『シノノメ色の週末』おじさんしかいない昼のシネマ・ロサで見るのはキツいなあとなるが。乃木坂の元リーダー主演だから? 序盤はスーツ姿のモデルの撮影から始まる。会社員経験のない女性が化粧をきめてスーツで撮られていること自体の不自然さが(そしてフリー素材として出会い系サイトの広告に用いられてしまう事を予告してるからか)妙にドキドキさせられる。ただ何かいやらしいわけではない。彼女のカメラ目線らしきカット、もしくは写真撮影に用いるカメラの主観と重なったカットなのか、実はそのどちらでもないのかもしれないが、その視線のなかに巻き込まれるから?(編集は前作に続き『お城が見える』、近作は『アイドル残酷物語』の小出豊) または監督と役者のどちらも女性だからか?(月並みな連想かもしれないが) それとも役柄としての彼女ではなく、桜井玲香という人間そのものを捉えてるからか、もしくはただの思い込みか(単に自分がファンになったのか?)答えはないが。本当にそれだけで最後まで目が離せない映画だったかもしれないが、それだけの映画といえるほどの強さはない。何より鏡の話や、スクリーン越しの偽りの世界や、もしくはニーチェの朗読とか、そのあたりはどれも彼女の喋り自体がそんなに良く思えない(じゃあどうすればいいか?)。とにかく並んで見ると背は低いが、寄って見れば非常に大人らしく化粧してるからだけでもなくスラッとして見える姿が日本のアイドルそのもので、この内輪な距離に入り込んでしまう居心地悪さがあるのか? しかし映画は長身のモデルのものでもない。
何も放送しない内輪な四人の週末放送クラブにあるかもしれない可能性が膨らみそうで、しかしそこにかける時間は未消化なまま、何故かプレゼンの対象みたくなる……この映画が半端に短すぎるのは、日本の現実がそんな無駄な時間は許さないからか、映画がそれほど膨らむわけがないと賢く自粛せざるを得ないからか? 面白くなりそう、と安易にクソバイズしてはいけないと踏みとどまれるあたりがますます妙な映画。