9/1

シャマラン『オールド』。ホテルに着くまでのドライブから始まり、これが一家で過ごす最後の夏休みについての映画と示していく序盤がシャマランの中でも段違いに切なく、傑作じゃないかと最初は思う。ベランダから行ったり来たりの長回しも、保険会社の旦那の喋りに対して、窓に反射した無言の、しかし水着に着替えた姉弟を見ながら微笑む妻の反応。夫婦の関係はうまく行ってないが、いつになく上品な演出かつ奇妙な撮影。ここまでは間違いなくいい。『キネマの神様』よりは清水宏の映画に近いかもしれないし、それがさすがに言い過ぎなら『千と千尋の神隠し』? 少なくとも一貫した水という題材、『エアベンダー』『ハプニング』『アフター・アース』など自然の中の人間たちという状況は、今回はどんでん返し(つまり返事なんかしないと思ってたものからの仕返し)ではなく、撮影(『スプリット』からのマイク・ジオラキス)から挑戦している。
ただシャマランがそこへ落ち着くこともなく、舞台のビーチや一家以外の主要人物が小出しに挟まれ、シャマラン本人登場など、どんどんとヘタウマ路線へ舵を切り、これまで以上に実験的な路線へ、というかヒッチコック(最後に帰るホテルは『北北西に進路を取れ』?)以上に意外とちゃんと宮崎駿を経て黒澤、溝口、フォード、密室劇としてリドリー・スコットダン・オバノンあたり参照にしてるのか? それにしては360度パン使いすぎか。なんだかロバート・エガース『ライトハウス』といい、そういう潮の流れが来てるのか? たまにシャマランと濱口竜介のウケる層は重なってるんじゃないかと妄想するが(特に『永遠に君を愛す』と『不気味なものの肌に触れる』のラストの字幕とか)、今回は『ドライブ・マイ・カー』と揃って「上演の映画」テイストではある(『アフター・アース』『ミスターガラス』にその気配はあったかもしれない)。信じられないくらいの悪趣味路線へ突っ切るかと思いきや、あれを画面外へ隠すのは唸るというより笑った。あえて遺骨の粉しか見せないのも、なんだかんだ品がある(ジョージ秋山が『海人ゴンズイ』で似たことをやっていた)。よくもわるくも最後まで見た印象はノーランにはない、ひょっとしたら今まで見たことないかもしれない謎の映画になる。確かに明らかにコロナパンデミック後の世界についての映画として撮られ、僕でも辺野古のことはよぎった。フランチェスカイーストウッドの登場(『グラントリノ』の孫娘かと思っていたが、フランチェスカではなかった)とか、ラップをしないラッパーとか、相変わらずクセはある。

 

ショーン・レヴィ『フリー・ガイ』。予想以上にはっきりと『マトリックス』『ゼイリブ』を意識した映画。最後は名もなき民衆が立ち上がるべきなのかもしれないが、そのあたりは題材とも矛盾するだろうし何だかんだ非暴力へ(威勢よくネットでは書いても、僕も反抗など仕事をサボるくらいしかできないだろう)。だが見ている間は別に何も不満など無し。カフェで最初の抵抗を試みた時にカメラを傾かせる(ジョー・ダンテとか割と意識的にやる)今更驚くほどでもないことかもしれないけどよかった。第四の壁を破ることもできない男が、さらにプログラムの向こう側にある隠されたステージの存在を何故か無意識に反射から見つけていたらしいという展開には刺激を受ける(どうも現在上映中のクレヨンしんちゃんでは『サスペリア2』を引用しているらしいが独身男性が行く勇気もなく未見)。
いくつか気になる点を書く。
ゲーム内の互いが同じ方を向いて歩くはずの世界に、向こう側からやってきた存在と歌を交わすことで生じるバグ。そもそもゲーム内の背景に過ぎないモブには主観など存在しないはずであり、切り返しなどあるはずがない。そしてサングラスをしたプレイヤーたちもまた目の前にないはずのもの(ゲームをしている部屋にやってくる母親)ばかり見ている。ここで本当に主観を持っているのは、意識を獲得したモブだけなのか。しかしゲームの側から見つめ返されるなど(吉田喜重風に言うなら『東京物語』に「空気枕」の視点が存在してしまう「反ゲーム」の世界など)あってはならない。ゲームの世界に無いはずの何かが反射して映っているというのが、ゲームの側から見つめ返されるということを突き詰めた時に出たアイデアなのか。
または裸体。サングラスを装着したモブへ、警官と着ぐるみのプレイヤーから最初の問いは、正確な言葉は忘れたが「脱げ」ということだろう。それに対しモブは脱ぐことのできるものなどない。マスクならぬスキンを破る(内臓を出す)以外ないだろうが、モブにそんなものはたぶんない。『オールド』の見世物とも最小限にとどめたともどちらともつかない異様な切開シーンが、ややよぎる。終盤の未完成のプログラムは裸体に服のデザインが胸元に描かれている奇妙な姿だが、モブにとって「脱ぐ」とは、正体を明かすことではなく、あの台本が露呈された姿になる。この映画と『ドライブ・マイ・カー』を重ねていいのか? 『ドライブ~』も「脱ぐ」行為と無縁の映画ではないし、なぜか終盤の舞台と手話と字幕(この奇妙さをインターナショナルといっていいのか)が、あの未完成のモブから思い出してしまった。
なんだかオッサンかオッサンの影響を受けたオタクしか喜ばなそうな映画に思えてきそうで、最後の最後にちゃんと恋愛映画・友情映画になり、しかもその二つは仮想現実と現実という見つめ合い、依存した、数字(金銭)の関係ではなく、別々の並行し独立したものとして繋がれる。それはスキンならぬマスクを外せるようになったときに訪れるはずの夢なんだろうか。モブが本当の意味でスキンを脱ぐ、正体を明かす時こそ愛の告白なのだが、思えば警官姿のプレイヤーとモブは最初に鏡のように出会っていたわけであり、警官は自分自身に「脱げ」と言っていたとも解釈できるのか。
廣瀬純氏の評が読みたい。

8/26

夜の2時に寝て3時30分に起きてしまう。これじゃ昼寝と変わらないと思い、なんとか寝ようとするも眠れず、つい起きてダラダラした後、5時から7時くらいまで寝る。だから一日寝不足抜けずよくない。
デプレシャン『エスター・カーン』を見る。なんとなく『ドライブ・マイ・カー』からの連想で。『ワーニャおじさん』と『ヘッダ・ガブラー』。あまり集中できないが、寝不足だけじゃなく、入り込みにくい映画。恋愛を経験しようとするあたりから、ナレーションと画面のズレに気づき始め、最後の舞台の何故か周りは盛り上がっているのに、渦中にいるはずのヒロインだけ取り残されているとも、一歩先へ没入しているともいえる。劇中の舞台を見る観客と、映画を見ている人間との間に、感動の一致など必要としない。決して気持ちよいといえない画面の繋ぎ。横から見る舞台。このあたりのヒロインのあがきが身体と心というか、見聞きするこちらの感情と集中力を引き裂くような、一種の暴力性を伴った音の使い方と身体の組み合わせが『とどまるかなくなるか』の瀬田なつきへ継がれたんだろうか。『嘘つきみーくん』の負け戦はさておき、吉祥寺の映画あたりからはもう程よいところに収まってしまったが。『ドライブ・マイ・カー』の快感はむしろ無音状態とか、あの顔以外は見ないで構わないと集中力を強いるところにあるんだろうけど。あの時期の瀬田なつきは映画館から排除されてしまうのかもしれない。

8/23『ドライブ・マイ・カー』

『ドライブ・マイ・カー』を見る。
大江崇允監督作との繋がりで言えば、主題的にはいろいろ考えてしまうが、見た日のうちはまとまらず、一番書きやすい点だと『美しい術』の冒頭を飾る「目を閉じ、耳を閉じる」がよぎる黒画面と無音だろうか(でもあれはキアロスタミか)。たしかに都合のいい役割を担わされているかもしれない運転手の三浦透子に『適切な距離』の日記上に登場する(架空の、死んだはずの、生きていてほしかったという母の願いが残酷に込められた)息子の姿がよぎる。そして本作では母の方が「殺されて」いるし、終盤にはそこに母の別人格でありながら、彼女にとっては想像上の友人に近い存在まで語られるが、こうした脚本家・作家の主題に近いものを、画面に再現せず役者の語りに入れる(あえて「ホン読み」段階に留める)のは濱口竜介らしいかもしれない。
銃を手にした岡田将生の髭面は案外似合う。濱口竜介監督の映画に銃を手にした男が出てくるのは初めてか? いや「心の銃口を向ける」みたいな話や、『The Depth』に出てきた気もするが思い出せない。逃亡犯が劇場へ逃げ込んで芝居する話はいろいろあった気がするが、残念ながらネットの検索に依存しすぎたせいか思い出せない。
初っ端から『ウイークエンド』のミレイユ・ダルクによる『眼球譚』の朗読が引用され、壊れかけた夫妻のロードムービーの幕開けに相応しい……と思っていたら、別にこれはロードムービーではない。そもそも妻が死ぬ。しかし題材的にはパートナー殺しを予告してはいるし、この官能と暴力、それが(おそらくあえて)あらゆるものとのせめぎ合いとの内に目の前に噴出し損ねるのは、濱口竜介の主題らしくなっている。もはや、ある種の「ヘタウマ」的な、稽古終わりに役者たちの集まりが分かれて、一つの画面内に複数のやり取りが描かれる『ゲームの規則』など連想しそうな場面が(そして問題の岡田将生が画面外へ消えて何をやっていたのかも)どことなくうまくいっていないのを、『寝ても覚めても』のクラブでの喧嘩のようにあえて残している気もするが、わからない。
多言語の演劇に、これまた旅の映画の『永遠の語らい』のユートピア的な光景が念頭にあるのだろうと思っても(あれはオリヴェイラが見た夢ということだったか?)、もちろんそれが実現されるわけではない。最後まで見ると、やはりこれは着地点の何とも言いようがないところも含めて、旅の映画であることは間違いないのだが。

なんとなく『クリーンセンター訪問記』と言いたくなっても、そんな名前を自分が出したところで、すぐに話を広げられる気がしないし、それなら書いたところで、お前は「物知り博士」とでも呼ばれてみたいのか(んなわけない)、という虚しい後悔が待っている。『寝ても覚めても』の『SELF AND OTHERS』的な引用とまでも言わないが、たしかにいくつかの芝居に対し切り返しを撮らない・撮る、どちらかの選択がされていることに、俳優に対するドキュメンタリー的な姿勢を(引用や学習だけでなく)貫こうとしていると思う。

8/17、18②

鈴木仁篤、ロサーナ・トレス『丘陵地帯』を見直す。三脚に置いていないショットがほとんどなのを忘れていたが、それゆえに手軽さよりもカメラの重さ、わずかな揺れ、画をブレさせないという慎ましさ(1ショットごとの大事さ)が増している映画。この感じに木村卓司『さらばズコック』を思い出していいのかわからないが、当然違う。小田香とも違う。顔ははっきり見えなくても、出てくる人物の作業が撮られている。動物同士の諍いや、群れの行動が撮られている。投げる、掬う、読む、歌うという行動の純粋さがある。同時上映の傑作、堀禎一天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』とも違って、あれほどの技で構築されてもいない。ただ最小限に二つ三つのカットが繋げられ、ある種スケッチ的に思えるくらいなのは、やはり三脚を失ったことにより選ばれたことなんだろうか。それでも(初期衝動と呼ぶのは違うが)二度とは作れなさそうな軽やかさといえばいいのか、それが何のためにどのような理屈でもって作られたのか謎めいたところに、見ること聞くことへの欲望を感じられる。心洗われる映画。

梅沢薫✕大和屋竺『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』@国立映画アーカイブ
ようやくまともに見れた。冒頭から『処女ゲバゲバ』『魔術師と呼ばれた男』などに通じる「上」にいるらしい何者か(その由来は明かされない)へ歌う娘マリちゃんの、ロングの俯瞰。照準の主観(褪色なんだろうがオレンジの奇妙な色に復元されている)と闇夜に動き回る男の繰り返しが、集中して見るほど目を焼かれ、実際に暗闇の中に目をこらして隠れているような体験になる。繰り返される円形のモチーフ(緑がかった青白い炎の輪が燃え上がる)とともに、視野を狭めさせる。「上にいるぞ!」の呼び声も虚しく殺されていく。過剰なまでに怯えのリアクションを撮ることで、大和屋は中川信夫とともに低予算映画の世界へ豊かさ(魔)を呼びこむ。
『濡れ牡丹』はタイトルの牡丹からして誰なのか(あのオシの日本刀使いの男女なのか?)意味不明で、大和屋自身の演じる殺し屋クロがいつ死んだのかもはっきりしない。どちらともとれる曖昧さが、暗く見えにくい画面の切り返しで積み上がる。互いの真意や関係性は何とも読み取れたのか奇妙で、たとえば五人組がそれぞれどのような計算でやり合っていたのか、三隅のような構図で物語る豊かさとも異なるから不明瞭である。それでいてサディスティックかつクセのある面々であることははっきりしている。対立するヤクザとクロの陰謀自体、明らかにされてもスッキリしない。口の聞けない二人の男が弦のないギターを交換すると、誰も歌えないし、誰も何も実は聞こえていないかもしれないギターの音が奏でられる。ギターの音は生死のはっきりしないクロ≒大和屋とともに、敵役に死を告げ、娘に彼岸の存在を知らせる(それは上から聞こえる音ではない)。まるで去勢された歌謡曲映画であり、『殺しのブルース』のような大和屋の歌声が聞こえてくることもなく、死に際の裸踊りに、猫踏んじゃった、男たちの歌声は美しくなんか流れない。その奇形性が何よりも映画を豊かに、今見ても色褪せない闇と余白を残している。

8/18 『吉野葛』@アテネフランセ文化センター

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吉野葛』@アテネフランセ文化センター
最初の「吉野」の駅看板を映したカットの短さを忘れていた。誰かの足元を捉えたかのような、しかし無人の雨降る駅のショットに続き(次作『韓流刑事』における中野重治「雨の降る品川駅」のことが予告されている気がする)、そしてタイトルへ繋ぐまでのリズムのカッコよさ。ところで『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』の最初の山の斜面を映したカットは思った以上に長かった(そこからのポン寄りのリズム)。漠然とした印象に引きずられて混同してしまう。『吉野葛』も『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』も列車の到着から始まるが、前者は水鳥を、後者は釣り人を撮る。『吉野葛』に紙をすく女について書かれているが、その作業を中心に撮ったショットの映画ではない。
そうやって『吉野葛』と『天竜区』の違いを指摘したところで、『吉野葛』の感想を書いたことになるわけでもない。
音読するのに難儀する文章。安倍も菅もまともに原稿を読めないが、その原因は個人の滑舌の悪さではなく、彼らを取り巻く体質と結びつくから問題である。彼らがどれほど日本らしさや美しさにこだわっているかは知らないが、彼らは自分でスピーチをすることができないらしい。不意に本音を漏らして皆様を不快にさせたならとお詫びするしかできない。政治家の醜態と本作を並べるのは侮辱に等しいのかもしれないが、おそらく彼らにこの谷崎潤一郎吉野葛』を読むことはできない、というか相当な根気、つまり心変わりを要するに違いないと思いたい。
とはいえ世の中にはキャスター出身の冷血な都知事のように心にもないことをスラスラ言える人間もいるだろうから、決して滑舌よく読めるかどうかという話ではない。
吉野葛』は夕暮れの水辺と、暗い川の流れの音を捉えた妖しげなショットに、朗読する女性自身のショットが切り返され、画面外から立ち上る煙草の煙にハッとさせられる。ヘッドフォンのないレコーディング風景。どこかテクスト自身の「時代劇を書くための取材」という設定が、『吉野葛』という映画では、映画そのものの生成過程へ変化したように見える。近作では葛生賢・堀禎一、両者の名前が「感謝」にクレジットされている『王国』こそ、そのような映画だろうが(ここでは嵐の前後の静けさとも何ともつかない無人の水辺が映される)それはともかく、彼女自身の変化のために繰り返されることを許されていないような『吉野葛』の朗読する女性の姿は、煙草の煙と共に危うい。読みにくさと対峙する姿は、滑稽でも心無いものでもない(チャーミングではある)。アスリート的に感動を誘うというわけでもない。ただ不意打ちのような地唱の文句と共に、母子のことを読む彼女のわずかに役を演じかけたような声と「とんからり、とんからり」というリズムが、まるで音楽映画になりそうで、あえて一歩手前に距離を置いて踏みとどまったような奇妙な魅力が発揮される(なんだかんだいってストローブ=ユイレというより大島渚的というか、キャスティングの勝利かもしれない)。聞き取りにくい声が意味と音の境界にいるような感覚は、堀禎一の『天竜区』シリーズと、そこから続く『夏の娘たち』へも通じる。もはやとっくに(お笑い芸人と手を組む腐敗した連中が蔓延る現状では特に)美しく使いこなす能力なんか失っている人ばかりかもしれない言語の存在が『吉野葛』にも浮かび上がる。今日のプログラムの一本、レフヴィアシュヴィリの『最後の人々』はなぜだか「new century new cinema」(赤坂太輔企画)で見たときから無字幕、もはや何を言っているかわからない映画という印象がとにかく強く、そこでも言語は音のリズムによってかき消されることも余儀なくされる。まだ「固有の民族」として日本人というものが存在しているかのような(少なくともそこに誇りがあるかのような)幻想に囚われた連中にとって、「楠公像」のショットに挟まれて『ドイツ・イデオロギー』の一節が(それを読める人間は決して限られた存在ではないと告げるように)映画作家自身によって朗読される皇居という舞台のラストショットは「不愉快」もしくはナンセンスなのだろうが、「結局は革命によってしか粉砕できない権力」としての場所がそこにある。悪質な年貢の取り立てでもしていた時代劇の悪役とほぼ変わりない、税金で私腹を肥やし、隙あらば中抜きする発想しかない、補償もまともにできない、ガーゼマスクを配るという信じられないバカみたいなこと(ところで特定の個人への攻撃になってしまうが今日のアテネフランセにもシネマヴェーラにもガーゼマスクしている観客は一体何を考えているのか)を中途半端に実行する腐敗しきった連中が悪徳企業と組んで、オリンピックのために病床も被災地も犠牲に捧げ見捨てる国に近代化もクソもない。
そんなことをワクチンもまともに打ててないのに映画を見に行っている不用心な僕が言っても何の説得力もないとはわかっているが、むしろ誰が薦めるというより、こんな状況でも映画館へ来るしかない人々にとって本当にふさわしい映画に違いない。少なくとも(並べられたくないだろうが)出鱈目な『キネマの神様』よりは、ちゃんと打てば返ってくるはずだ。『キネマの神様』には撮影時の自分の若いころの姿が女優の瞳に反射しているのだという物語から始まり、終盤には『東京物語』を(もはやわざと陳腐に)模倣した画面から話しかけられて、あの世へ旅立つ。山田洋次が小津からウディ・アレンへという発想(しかもそれは映画そのものよりも、彼らの映画に対する世間と通ずる凡庸なイメージの域を出ない)なら、『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』の芋ほりについて語りかける別所さんや、微笑みかけてくれる犬のジョンには、小津だけでなく、より幽霊たちの記憶が濃厚な鈴木清順の存在も、届かぬ恋文を送るジャン=クロード・ルソーの存在も踏まえて、彼らは本当にこちらに向けて堀禎一がいなくても何かを上映されるたびに送ろうとしている。また『吉野葛』の交差点のミラーには、撮影時の作家たち自身が反射されているらしいが、その謎も編集によってアクシデントではなく、走り去る青いトラックがミラーへ映り込んで、奇妙な機械の音とともに、こちらに向けて映画が覗き返すように残っている。

www.aozora.gr.jp

8/17

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アテネフランセにて伊勢真一『えんとこ』を見る。毎年(かどうかは知りませんが)公民館で上映やってる人という印象で、震災の映画(『傍』)は見たが、どうにもみんな震災の映画を撮っている時だったからか、どうしても興味を持てないままだったが、まあ、僕は浅はかだったんだろう。そこで手のひらを返すように「いい」というのも、やっぱり自分には自分の眼で見る力のない、人のいうことばかり聞いてるダサい馬鹿と思われても仕方ないだろうが。
カーテンとベッドと書斎。女も男も若く魅力的な介助士(遠藤滋氏は自ら介助士を求めて電話をかけ続けたこともあったという)。訪れる人々が皆いい。華やかな映画だ。遠藤滋氏は養護学校での講演にて横になりながら、自分みたいな人間でも生きていけるのは面白い、と笑う。彼の笑顔のアップに、入所者の笑い声も画面外から返ってくる。その重なり合う笑いは忘れがたい。乾いているわけでも心温まるわけでもなく、何とも言葉にしづらいが、笑っている。介助士と書物(横田弘「障害者殺しの思想」が目に入る)と訪問客と笑いに囲まれて横になる一人の男の見た夢が映画になる。それはどこか谷崎潤一郎的な世界かもしれない(と確信をもてるほど読んでいるわけがなく、単に特集からの連想に過ぎないが)。
かつての彼の夢はオーケストラ指揮者だった。いまの彼は西伊豆の海水浴場にて、若い介助士に支えられながら水の中で立って、足を前に進めながら笑っている(映画は「不屈の民」のリズムを繰り返す)。彼は介助士たちとともに、少しでも住みやすい街へ変えるための働きかけを繰り返している。遠藤滋氏は先生として、皆が会って話を聞きたい人間として、自室に横たわっている。先生が障害をもっていたおかげで、一つの場所にいてくれて、その声は聞き取りにくいがゆえに、一つ一つの言葉を聞き逃すまいという姿勢に私をしてくれる、と教え子≒介助士の一人の振り返る声がする。その言葉は決して想像力を欠いたものではない。一つ一つを聞き逃すまい、見逃すまいという姿勢にしてくれるのは映画も同じだ。笑顔と幸福と夢を形にすること(それは時に闘いであり、迷惑をかけることであるが、それを逃れて一人で生きていける人はどこにもいない)についての映画。最後の誰もいない彼の部屋、カーテンとシーツに光の射す美しい空間。彼がどこへ行っているのか、映画を見ている誰も知ることはできない。その自由に感動する。

isefilm-movie.jimdofree.com

8/13

ネットフリックスにてジョニー・トー四作品が配信されている上に8/15までと知って慌てて見る。
『裸足のクンフーファイター』は主役が『天国の門』のクリストファー・ウォーケンみたいな(意識してるのか?)役割になるのが泣かせる。
『マッドモンク/魔界ドラゴンファイター』チャウ・シンチー三悪人の魂を救うために下界にてドタバタやる映画。特に前半は(単に最近読み始めただけだが)ジョージ秋山のギャグ漫画に近いかもしれない(『デロリンマン』ほどの悲壮感はないが)。ン・マンタの赤ちゃん演技が凄いが、彼の退場と入れ替わりにアンソニー・ウォンが出てきて何だか安心する。なんといってもマギー・チャンの娼婦がとてもいい。唐突に悪役がサタニスト(?)になったり『東方三侠』や『名探偵ゴッド・アイ』でも活躍するドクロが登場して、終盤に『東方三侠』と違ってオッサン四人のバトル(というかリンチ)も挟まれるが華はないのですぐに終わる。ラストは『ファウスト』の「愛!」(まあ、チャウ・シンチーの映画はよくやるが)を控えめにやる。予想より強烈で忘れがたい。
ジョニー・トーの映画で「食」が重要なのは当然だが、こうして見ると「毒を食う」という題材も繰り返され、それが食あたりとして便所や病院という舞台を呼んだり、より抽象的に捉えれば潜入捜査、不正に手を染める警官、贖罪行為に結び付くし、その毒は糞となって地獄や下水道の中まで人物たちを引きずり下ろしてから、逆転して浮上させることもあれば、便秘となって内部から破裂させもする。
ともかく続けて見るといろんなネタを毎度使い回しているんだろうと改めて思う。『ファイヤーライン』は『ホワイトバレット』終盤でも出てきた赤いホースが人物たちの命綱になって、生死の境の宙づり状態(地獄巡りというべきか)へ導く。

『愛に目覚めて』(ジョニー・トー)。タイトルだけ見て恋愛映画かと思ったら、刑事(ラウ・チンワン)と妻の再生についてのバイオレンス映画。でも最終的には「愛に目覚めて」としか言いようがない。やはり刑事が自らの失態を公に認めないまま終わる。何より刑事を執拗に狙う犯人のオーラのない見た目が凄い。
ついでに『PTU』も見る。別にこの監督に決まったわけじゃないが、一夜の話であっても何だかんだ前半・後半と緊張感が変わる。冒頭は携帯の特徴的な使い方としても一切先が読めないが、誰が考えても不良四人組を追跡する話のままにしたほうが盛り上がりそうなところを(それだと森崎版『野良犬』になってしまうが)老人二人の果し合いと、よくわからない強盗四人組が遭遇という、やっぱり微妙に不細工な側へシフトし、ラストは悪夢の覚めるような(そこがノワールなのか)妙などんでん返し。