『樹々の大砲』

MUBIにてメカス『樹々の大砲』。

初っ端から耳を衝く音、初っ端から道化師の笑い泣き。メカスの旅ならぬ三脚据えたトラベリング。
何より音が聞こえてこない。枝を振り回しても、棚を叩いても、ドラムを叩いても、音はない。タイプしている女性みたいに画面外を意識させる人や物は十分出てくる。そこにタイプの音が響くのも想像できる。しかし音はない。代わりのようにたびたび叫びのような音が重なる。彼らには今、この耳を衝くような音しか聞こえないのだろうか。その音が聞こえないからか、聞こえているからか、人物たちはたびたび言葉を失っているように見える。その表情はショックを受けているのか。終盤の船のように、もう音がないからこそインしてくること自体、生々しく感動的な画もある。もしくは白画面とともにブツブツいう音がフィルムという物質で上映されていたことを意識させてもくれる。そして泣き笑いの道化師二人が再びインしてきて喋り出すワンカットや、「Bubble」という声と泡のジェスチャーは、画に対して声の同機そのものがかえって異物のように印象に残る。そこで声は徹底して「ノイズ」ではない。騒々しさや、重なり響く心地よさはない。クリアにされているわけでも、ノイズを排しているわけでも当然ない。うるさくはなく静かでもなく、ただ耳を衝く。ある意味、最も爆音向きではなく、そもそも爆音のような映画。
メカス最初で最後というか、そもそも未完成に近い劇映画は「自殺」から始まる。足立正生パレスチナ渡る前の最後の劇映画『十五代の売春婦』も自殺の話だった。
初期ガレルの『現像液』はじめ、映画の無音状態といえば『百年の絶唱』の亀、『阿吽』の電話、『ドルメン』の美声の持ち主など、フィルムにうまく音が乗らないことを逆手にとるような(?)、自主・学生映画の8ミリ16ミリフィルムに奇怪な「声」が浸食してくるような展開はある。彼らは音から解放されたのか、音が聞こえてこないのか。あえてノイズにならない声の、おそらく意図された苦しみ。