『ふゆうするさかいめ』

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谷中銀座のトタンにて住本尚子監督『ふゆうするさかいめ』を見る。寝間着と普段着の境目が消失したまま喫茶店で働く女と、布団工場で働く彼女の幼馴染の女と、布団の販売をするスーツの上下が揃ってないままの男という三人の話である。どうってことない映画と思われるかもしれないが(失礼)これには元気が出た。

誰かが横になり目が覚めると何かがズレてしまう(関係性の「床擦れ」みたいな?)せいか、三人の間に進展する何かや判明する理由があるのか、微妙にはっきりしない。最終的に寝間着の女と布団屋の男が恋に落ちたかさえ、はっきりそうだったと言いたくない。まさしくタイトル通り男女三人の境目が浮遊してしまったがゆえに、たとえば男は訪問販売の際に顧客の妻の幽霊を見たかもしれないけれど「見た」とは話せず、一方幽霊を見たと女二人が語り合うとき画面に出てくる両親は「幽霊」というより「フラッシュバック」と呼びたくなる。登場する男女の部屋の見分けさえ付かないままだが、それも狙いというより拙さによるものかもしれないが、それくらいあらゆる境目は曖昧である。

関係性や記憶や働き方をめぐって対話は素朴に繰り返されるが、むしろ『ふゆうするさかいめ』という記憶に残るのは一つ一つの仕草や、声や、小道具たちへの愛着であり、その向こうに何が見えるのかわからないが何となく何かあるように見つめる彼女たちの顔であり、さらには歩く、歩きながら話す、横になる、よりかかる、踊る、歌う、公園でのおんぶからの寝技、布団の運搬、布団工場での作業、化粧、燃える伝票、上下が揃ってないままのスーツ、傘、床擦れの黒、入浴剤の白、粉雪のような綿、そんな諸々を結びつけるリズムである。

眠るために横たわり、眠る場所を求めるように歩き、眠りへの誘惑に耐えながら立っていたり、仕草のほとんどが「眠気」を理由にした行為だと理解できたとしても、眠った途端に時間も場所も飛んでしまうため、眠っている人間そのものをじっと見る映画でもない。睡眠時間そのものは省略されて、むしろ一つ一つの仕草や小道具が、愛情をもって繋げられ、あるリズムを獲得していくのが見ていて、ただただ好ましい。あらゆる行為を中断させる眠りそのものよりも、身体を横たわらせるための「布団」への愛着が湧いてくるからこそ、彼女と布団のダンスは微笑ましい。また彼女が布団に身体を預ける仕草が印象に残るからこそ、電車の扉に身をゆだねる仕草に感情がこみあげてくる。切り裂かれた布団の綿が粉雪のように舞う「白」の美しさは、風呂場での眠りから目覚めた彼女の裸体を優しく包む入浴剤の「白」と結びつき、その白さは映されない彼女の背中の床擦れによって「黒」くなった肌のことも守っているようであり、風呂場の扉によぎる影が白と黒の合間にリズムを生じさせる。そのリズムが映画に夢遊病的な印象よりもほんのわずかに活動的な、束の間の休みをただ眠って過ごしてしまう代わりに、力を入れすぎることなく楽しんでいるような時間を与えてくれる。特に電車が出てくると、わずかに世界が広がったような解放感がある。

眠りの代わりのような仕草や小道具や人物(そこにエキストラの区別もない)は、どれもまるで眠りと同じような愛着が込められていて、その愛に気付くために目覚めているようだ。同時に、生きていて横たわろうとしてしまうことそのもの、どこか年中貧血気味みたいな身体を、何か原因を見つけるわけでもなく、男女の区別なく肯定する。その優しさに元気づけられるのだろうか。