『アスリート ~俺が彼に溺れた日々~』(監督:大江崇允)


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『美しい術』『適切な距離』の大江崇允監督最新作『アスリート ~俺が彼に溺れた日々~』を見る。これまでの長編二作と違って脚本にクレジットされていないが、それでも登場人物たちが各々の「美しい術」を探り、互いの「適切な距離」とは何か測る、紛れもない作家の映画だった。画面内の登場人物たちが互いの距離を意識してしまうように、大江監督もまた映画に対して知ったような顔はできない。あくまで「半分の世界しか知らなかった」という(阪本順治『半世界』が一瞬よぎる)ジョーナカムラの台詞のように、未知なる半分の世界として「映画」を演出する。そんな距離感があるからこそ、本当は同じ水槽に入ることのなかったかもしれない男二人の「愛」を、きっと多くの人がスンナリと受け入れられるような、扉の開かれた映画に演出できたのかもしれない。
それでいて何もかも淀みなく過ぎていくような、洗練された映画ではない。
登場人物の心象に合わせて変化するような画面の色なんか(虹色かランブルフィッシュヒレのような影)コントラストが強過ぎて駄目なんじゃないかとか、ひょっとしてわかりやすすぎて「ベタ」なんじゃないかと見るのが不安になって避けてしまいそうであっても、あえて実践する。
ジョーナカムラが二匹のランブルフィッシュを一緒の水槽へ移すことを試み、やはり本当に傷つけあうのを見て戻し、この魚たちの「傷」に、やはり「二人は同じ水槽にいれない」と自らを重ね合わせたように泣くシーン。これは(動物愛護的に)アウトにされるかもしれないし、えげつない演出かもしれない。それでもこの危うさは、最も忘れがたい瞬間の一つである。
これらの不安や危うさは「映画とは?」という問いの連続というとカッコ良さげだが、大半の人が相手のことなんか本当のところわからないけれど、どうにかこうにか付き合うしかないような試行錯誤が、映画に対しても問われているのだろう。その実直な付き合いに感動する。
いや、そもそも「映画とは?」という疑いだから、問いかける相手だった「映画」なんか存在せず、ここには(パンフレット掲載の監督インタビューで言われる)水槽とチャットルームという「フレーム」があるだけで、その中を人物たちが息は長く続かないと知りながら生きている。『雨に唄えば』の抜粋だって本当にふさわしいのか、居心地の悪さも覚える。
それでも作中終盤の台詞から引っぱるなら「映画は私たちのことを何でも見透かしているようで驚くけれど、私たちは映画のことを何も知らなかった」と、見終わってから思わずつぶやきたくなるような、まるで雨上がりの晴空の下にいるような気持ちになる。雨はまだ降り止んでいなかったとしても。