『パラレル』

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年明けて初めて外出しての映画はハルーン・ファロッキ『パラレル』シリーズに。9割以上ゲーム画面、インスタレーションだが、少なくともゲームではない。展示というより四編通して見ることで映画の時間を意識できる。特にⅣのゲーム画面内での暴力後に過ぎていく時間は、おそらく単に自分がゲームをプレイしている時には忘れようとする感情を、映画として繋げることで新たに見出す。ブレッソンの映画を見た時によぎる感情をゲーム画面から蘇らせることができるのか。壁にぶつかりながら横滑り(ロブグリエではない)したり、ハリボテのような空洞を見つけたり、無意味に自動車事故を繰り返したり、そのゲーム特有の(いずれは失われるかもしれない)「壁」の存在する空間の滑稽さ理不尽さに「?」となるのもまた映画である。ゲームの空間を横滑りするキャラクターにキートンジェリー・ルイスやジャッキーのNG集みたいに笑うことはできるのか。

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年末に『バンダースナッチ』をやったけれど(やはり「見た」というより「やった」になってしまう)、「ゲームは一日一時間なら映画は90分」という作品だった。何といっても行き詰ってから同じ場所を行ったり来たりさまよう感じや、何が正しい終わりなのか宙づりになるゲームオーバーという概念のなさ、あと死んだりパソコン壊れたりして以前の選択肢へ戻される時の「飽きさせなさ」、同じ場面をまた見せられているというゲームをプレイしている感覚の無さ。ファロッキの『パラレル』がゲームのプレイ画面に映画の時間を見出すのなら、これは「プレイしている」という感覚を奪っていく。「やる」というよりも「やらされている」、主人公と同じく「選ぶ」というより「選ばされている」感覚に狙い通り陥った。だから90分近くで見終わる時も、無理やりに離脱させられた気になる。この徒労感、疲労感(年末だからか?)は良くも悪くも映画かゲームかネットか、どれとも言えない。個人的にはもう一度最初から見直した時に、父親が初回よりも病的な印象が薄れていたことに驚いたけれど、そこに今のところ最も映画を見たという気がした。