ペーター・ネストラー『北の冠』

ペーター・ネストラー監督特集

 

先生は子どもたちに語る。針葉樹はなくなり、退屈な光景になったかもしれない。しかし喪失を強調するための舞台は用意しない(『時の擁護』のダニエル・ユイレのように)。人は何かが目の前にいないことに慣れる。目の前から何かが消えることも映像のトリックになって、気持ちよい驚きとなって収まってしまいかねない。なので物事の喪失という感傷に浸って、知った風な顔をして気持ちよくならないために、『ア・ゴースト・ストーリー』のようにショット単位で生きている側と死んでいる側と、そのどちらでもない曖昧さがあったり、ストローブ=ユイレの映画のように(ただこちらの理解が足りないだけかもしれないが)ほとんど意味を壊すスレスレで無神経さに傾かずに朗読の合間に黒味が入ってリズムが狂う(見直した青山真治『冷たい血』も黒くなる度に狂った感じがする)。

カメラに向かって笑顔を向ける少女の隣には、不機嫌そうに目線を外へ向ける顔も並んでいる。キツネの入った檻が並んでいて、キツネたちはただただザワザワしていて、しかしカメラが一匹の前で止まると他のキツネたちも静まる。カメラの前で止まる存在。同時にカメラが前で止まる存在。カメラの前を横切っていく煙は、フレーム内に入り込んでくるものでもあって、フレームを移動させるきっかけにもなる。このように抽象的で中身のないことを書いても意味ないが、やはり物事は失われるよりも土で埋められ、上書きされる(小森はるか・瀬尾なつみの『波のした、土のうえ』のように)。視界を覆う煙の動きにフレームが反応するのは、上書きされていく視界を紐解くきっかけに見える。同時録音の声に重なる監督の言葉も、いま聞いている声を消すことまではせずに、何かが眼と耳と覆い続けていることを示唆する。カメラの前でキツネが動きを止める時、キツネの前でカメラが足を止める時、映画を見聞きする側が動く時だ。