『日本ゲリラ時代』(監督:渡辺祐介 脚本:森﨑東)

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映画芸術」68年10月号より

Laputa Asagaya 20th anniversary もう一度みたいにおこたえします|作品解説2/ラピュタ阿佐ケ谷

日本ゲリラ時代

日本ゲリラ時代・台本

 

ラピュタ阿佐ヶ谷にて『日本ゲリラ時代』(監督:渡辺祐介 脚本:森崎東)を見る。
1968年10月号「映画芸術」掲載の森崎東から松田政男(読売新聞に掲載されたらしい)への反論は読んだことがあり、大島渚帰って来たヨッパライ』の猿まねに過ぎないと書かれたことへ「『帰って来たヨッパライ』を残念ながら見逃している」と返していた。
しかし昨日見ながら、森崎東から大島渚への一つのアンサーのように思えて仕方なかった。その意味でも本作は名画座だけでなく、もっとアクセスしやすい映画になってほしい。紛れもなく68年の映画であり、ラストカットは当分忘れられないと思う。それは広島映画祭で見た68年5月革命からのザンジバル集団の映画たち、ガレル『現像液』の水辺にやってくる白鳥たち(11月30日にアンスティチュフランセにて上映)、セルジュ・バール『ここといま』の海辺に立つ人達の姿と、まるで並んでいるように見える偶然に、時代を感じることができるといっていいのかはわからないが驚いてしまう。やはりこれは大島へのアンサーではなく、彼らは互いに気づかず前進しているのだろうか。

hiff.jp

 

『現像液』+フィリップ・アズーリによる講演 (11月30日)

 

flowerwild.net - 五月の白鳥たち──『現像液』


帰って来たヨッパライ』以上に『日本春歌考』『絞死刑』の複数の男性に求められ、夢想の対象であって、絞殺される女性が重ねられた緑魔子は大島と森崎(『ヨッパライ』の浴場で乳房を露わにしたバストショットから『女は男のふるさとヨ』のすっぴん、『生まれかわった為五郎』の波飛沫を浴びる美しい裸体へ至る)を結ぶ線のように感じる。なべおさみと草野大吾が話している合間に帰って来た緑魔子の存在の不確かさ(やはり大島と並べたくなる)が、なべおさみのリアクションと「わたし、今ならフリーセックスできる」によって際立つ。そして眼を閉じて線路に横たわった彼女の美しさ。一方、なべおさみ犬塚弘の男二人が眼を閉じる時、『日本春歌考』だけでなく『瞼の母』が結び付けられ、そこで夢想の対象は彼女から離れて肉親へ向かい、そして男二人は兄弟分の間柄だと語る。『真田風雲録』から引っ張ってきたような「やりてえことやって死にてえ」という台詞も交わされて(勿論「やりたい」はセックスを指す)、加藤泰森崎東はどう思っていたのか、やはりこの68年に加藤泰が松竹にて『皆殺しの霊歌』を監督したことは意識しないわけにいかないんだろうか(絞殺される女という点でも大島と加藤泰が結びつく)。

あまりに森崎東の要素が詰まった世界に唖然とするが、このカラーとモノクロを頻繁に行き来する映画のたどり着く先もまるで読めない展開(なべおさみから「第二第三のベトナムを」なんて台詞が聞けるとは思わなかった)について、森崎東の映画ともまた違う渡辺祐介監督の演出について言葉にできるようになりたい。新東宝特集で見た『桃色の超特急』の分身ネタも気になる。冒頭の新宿ロケから頻繁に移り変わる舞台に反して、まるで外がどうなっているのかわからない密室に居続けるような不安さえ感じる。
なべおさみが韓国人を演じるというだけでなく、ゲバラの偽物みたいな「ハ・ゲバラ」役の草野大吾も、真理アンヌも、国籍を踏み越えるような顔が印象に残る。助監督役の斎藤龍鳳もおかしい。内職しながら語る高橋とよのシーンに流れる八木正生の音楽の陰鬱さも記憶に残る(政治コメディそのものだが「喜劇 ○○」ではない)。