もう見るのは遅すぎるし何の発見にもならないし無意味な自慢にしかならないかもしれないが、ジョー・サルノ『A Touch of Genie』Blu-ray購入。ポルノの観客が、骨董品の壺を触ると登場する妖精の魔法によって、ポルノの登場人物になって性交する。妖精は壺から飛び出てくるわけではない。おそらく飛び出てきたという設定で、脇からひょっこりフレームインする。そして魔法によってスクリーンに入り込むわけではない。おそらく夢の世界へ、という設定で人物は妖精から手で押されて、クルクル自分から回りながらフレームアウトして、劇中のポルノと似て非なる同レベルのセットへクルクル回りながらインする。別にこれといった工夫のある演出というわけではない。ままごと染みた遊戯がエクスタシーへと通じていくのは『濡れた牝猫たち』でも見た。一本でもジョー・サルノの映画を見ていたらわかるが、密室での儀式は自らを解放するセックスのために常に繰り広げられている。終盤、ある女性の訪れを告げるドアのチャイムが鳴った時、その音が妖精の現れる効果音と同じだと感動してしまうのは、映画に対して甘すぎるかもしれない。
ジョー・サルノの映画は画面内の人物配置が一貫している。誰かを覗いている、もしくはどこともわからない誰もいない画面外へ視線を向けている、場合によってはただただ内省に浸っている人物が手前にいる。その斜め後ろから彼、彼女を見つめる人々が続く。ショットにおける構図が決まっているだけで、ある程度の演出が維持される(ベルイマンとか関係あるんだろうか、わからないが)。ジョー・サルノの映画における人間関係は、この配置によって決まっている。というか、おそらくそんな関係しか出てこない。言うと理解の足りなさを露呈するだけだが、アルトマンとか増村保造とか知らぬ間にシンクロしているのかもしれない(どうだろうか)。その構図はセックスか別れしか生まない印象が残る。消耗する関係。ともかくこの構図と物語を真似して作りたい演出家は絶対にいると思う。映画にフレーム外への広がりはもたらさないが、ショットを続けることはできる。狭い範囲で消耗し続ける映画。息苦しさが演出と一致している。
映画は演出上の品位を維持しているようで、意外となのか、予想通りなのか、トラッシュとしか言いようのない乱れかたをする。予告を見て、日本版DVDの画質とまるで違ったから『オカルトポルノ 吸血女地獄』のBlu-ray(洋盤)を購入して、ちょっと見直した。冒頭のダラダラした儀式の印象しかなかったが、やはりというかなんというか儀式のパワーによってか操られて痴態を晒すマリー・フォルサの入り込むリズムは興奮する。はたしてこの興奮は終わりまで維持されるのか。僕の記憶と予感では、一時間ほどで力尽き、そして儀式の弛緩した時間に全ては飲まれていくのだろう。
他の多くの日本人と同じく「ソドムの映画市」から気になっていた『熟れすぎた少女ビビ』の、草原での追いかけっこから、不意に枝をつかんだ女が背中を叩くことによって始まる、ひどく軽い初めてのSM。僕は『昼顔』のドヌーヴより忘れられない。鞭の激しさも、そこから目覚めて平然とした顔に繋ぐ編集がブニュエルの洗練だとわかっていて、その巧みさに比べたら、この嘘くさいプレイに誰がどんなショットを繋げるべきだったのか。
こんなことを書いて発散している場合があったら、『早熟』を見直せばよかった気がする。