『ある惑星の散文』(深田隆之)@海に浮かぶ映画館

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これほど船に乗って見るために作られた映画はないと思う。深田監督は自らの作品の上映に最もふさわしい場所を知り尽くした戦略家なのかもしれない。だがそんな狙いだけじゃなく、作品のそこかしこに見え隠れする別の作品たちが「海の上の映画館」にて上映されてきたことを思い出す。そしてあらゆる映画が船の上で上映される可能性をひめていると気づく。まるで「海の上の映画館」にいるかのように、脱出できない緊張と、酔ってしまうんじゃないかという不安とともに、揺れと雑音を包容しながら、漂うように、自らにとっての船出として、または停泊所として、常に映画は見られるべきなのかもしれない。
実際、『ある惑星の散文』は漂うように時間が過ぎていく。映画の人物たちは距離を打ち消そうとスカイプをしているのかもしれないが、スカイプの待ち時間は焦りとも期待とも不安とも関係なくパソコンの前に存在する。客の忘れ物を届けるために走り出せば、彼女の走る距離と走る時間とが存在する。急ごうとする人物たちに対して、時間も運動も早くも何ともなく、ただ過ぎていくことを示すようなショットが続く。

舞台挨拶にて女優の中川ゆかりさんが言うように、距離に関する映画だった。フレーム内での人物たちの距離は、スカイプ越しだろうが、窓越しだろうが、テーブルを挟んで向かい合っていようが、遠かろうが近かろうが存在する。もっとわかりやすく言えば「すれ違い」だ。

それまで一緒にいた人物たちをカットバックにする時、距離を一層際立たせるとも見える。だが逆に、同一フレームにおいては両者の間に開いていた距離が、カットバックすることで互いを向き合わせているようにも見える。また時折曽根中生の映画などでも見たことのある、人物をフレームに放り込んで突き放したような距離さえある。しかしその距離こそ人物たちに動く可能性を与えてもいる。だから、その突き放しかたはとても優しい。またどれだけ突き放されても、人物はフレームの外にはみ出す余地を多少わざとらしくとも与えられている。
部屋の窓から見える景色。この距離は今までの映画で見てきた、遠方に去った人々を見送るような風景たちを思い出す。だが映画は美しい遠さと同時に、苦しい近さもつきつける。
中川ゆかりさんが兄の前に立つ舞台はただただ素晴らしい。